メニュー
前へ  木曽福島~南木曽 次へ   美乃坂本~武並

中山道   (南木曽~美乃坂本)

南木曽から美乃坂本までは、妻籠宿、馬籠峠、馬籠宿と古い建物や古道が保存されている旧道を通り、馬籠宿からは一気に落合宿まで下り、小さなアップダウンのある中津川宿、大井宿を通る全体的に変化のある道である。

平成26年11月23日(日) ☀  南木曽~馬籠宿  11.4㎞
東京から南木曽へは、これまでのJR中央本線からJR東海道新幹線に変更して東京駅を7時12分に出発し、途中2度乗り換えて南木曽に10時28分に到着した。時期的に日の入りが早いので、途中の立ち寄り時間を短めにして先へ進むこととした。

南木曽駅 一刻院 秋葉神社 神戸坂
10時35分南木曽駅前からJR中央本線の線路に沿って進んで街道に出ることとした。駅前には高札場のモニュメントがある。 SL公園の近くに一刻院と標示された御堂がある。
入口には六地蔵尊が並び、御堂には沢山の木造の観音像が安置されている。
SL公園の先の街道からやや離れた高台に秋葉神社がある。
鳥居の先の社には、秋葉神社と刻まれた石碑と、小さな社が安置されている。
秋葉神社を右に見て坂を上って行くと左手に文化6年(1809)の馬頭観音と石塔があり、橋の手前に自然石の道標がある。
橋を渡ると写真の道標があり、ここから更に急坂の神戸坂となる。

袖振りの松 神明神社 水舟 かぶと観音
神戸坂を登り詰めると神戸の集落に入り、街道左手に巴御前の 「袖振りの松」 がある。袖振りの松は、木曽義仲が弓を引こうとした際に邪魔になった松を巴御前が袖を払って横倒しにしたが、また芽が出て何代目かの松と伝えられていた。しかし、平成21年に松喰い虫により立ち枯れしたため伐採したとのことである。 袖振りの松の向かい側に神明神社がある。正面の狛犬は新しいが、脇にある狛犬と常夜燈は古くから建っているようである。 神明神社の裏手に観音堂があり、手前に大きな水舟がある。この水舟は平成21年に伐採された 「袖振りの松」 で作られたものである。周囲には、百万念仏塔、庚申塔、南無阿弥陀仏名号碑などの石碑石塔が安置されている。 かぶと観音は、木曽義仲が平家打倒のため北陸道を京都へ向かう際、木曽谷の南の押さえとして妻籠城を築き、その鬼門に当たる神戸に祠を建てて観音像を祀ったのが起こりと伝えられている。観音堂の中には、金箔が貼られた正徳5年(1715)の厨子があり、観音像が安置されている。境内には、兜を持った大きな観音像も立っている

道標 石畳道 上久保の一里塚 良寛碑
かぶと観音の石段を下ると五叉路に出るので、中央の急な下り坂を進んで行くと十字路となり、左手に自然石の道標が建っている道標には、「西下り国道 南前旧道 東上りかんのん堂 北後かんのん堂」 と刻まれている。この先、右手に大明神碑があり、その先で戦沢橋を渡ると、渡り詰めに字の消えかけた 「重要伝統的建造物保存地区・南木曽町妻籠宿保存地区」 の看板がある。 戦沢橋を渡るとその先で竹林の石畳道となり、左手には道標が建っている。
道標には、「せん澤 右妻籠宿へ 下り国道へ 左なぎそ駅へ」 と刻まれている。
林を抜けると上久保の一里塚が左右に残っている。
ここは江戸日本橋より数えて80里目(説明板は78里)、京へ56里である。
一里塚の先を下ると左段上に良寛碑がある。碑面には、「この暮れの もの悲しきに若草の 妻呼びたてて 小牡鹿鳴くも」 と刻まれている。この歌は、手まり上人といわれた良寛が木曽路を通った折に詠んだ二首の内の一首である。

水車小屋 道標 蛇石 妻籠城跡道標
良寛碑の先は、くぼほら茶屋跡であり、屋根に石を置いた水車小屋がある。
小屋の手前には中山道くぼほら茶屋道標が建っている。
水車小屋を過ぎて左右にうねる坂道を進み、その先の直線の林の坂道を登り詰めたところでT字路に突き当ると、正面に中山道蛇石の道標が建っている。
「右つまご宿 左志ん道 下り道旧道」 と刻まれている。
中山道蛇石の道標の先に立て看板があり、「名石 蛇石(へんびいし) 中世の中山道はここから沢沿い上っていた。元禄16年(1703)に道の付け替え工事が行われて、妻籠城総堀を通る現在の道になった。」 と記されている。
この先の下り道は、竹林と紅葉のコントラストが美しい。
街道を進むと右手にしろやま茶屋とその先に妻籠城跡の道標がある。
道標には、「右旧道駅 左妻籠宿」 と刻まれている。先を急ぎたいが、右手の山道を上って妻籠城跡へ行くこととした。

妻籠城跡 街道の民家 御宿大吉 鯉ヶ岩
街道から細い山道を登って行くと幾つか案内板が立っており、頂上付近の薮のようなところを抜けると山頂に出る。妻籠城は木曽谷の南を固めた規模の大きな山城で、天正12年(1584)小牧・長久手の戦いの時、徳川の大軍に難攻不落を誇ったと伝えられている。
山頂には東屋があり、近くには御嶽山大権現、八海山神社ほか2基の記念碑が建っている。
街道に戻って林に囲まれた車道を進むと集落が始まる。
S字の道の突当りの家で茶を飲んでいる旅人がいたが、普通の民家と思われる。
S字の先の街道右手には、御宿大吉が建っている。 御宿大吉の先に鯉ヶ岩がある。
鯉ヶ岩は名のごとく大きな鯉の形をした大岩であったが、明治24年美濃の大震災で移動したため形が変わったという。
吾妻橋地区の烏帽子岩、神戸地区の兜岩とともに三大岩と言われている。

熊谷家住宅 口留番所跡 高札場跡 手打ちそば「よしむら」
鯉ヶ岩の前には、南木曽町有形文化財の熊谷家住宅がある。
この建物は、19世紀初頭に建てられた長屋の一部であるが、左右の建物が取り壊され、建て替えられたことから、長屋の間取りの右半分と左半分が残り、一軒の家として使用されたものである。
熊谷家の先に口留番所跡がある。
江戸時代初期に中山道を行く人々を監視していたという。
口留番所跡の前は地蔵沢が流れており、街道には地蔵沢橋が架かっている。
地蔵沢橋を渡った先は下り坂となり、坂の右手に高札場跡がある。
高札場の向かいには水車小屋があり、本日は 「文化文政風俗絵巻行列」 の幟がはためいていた。
街道には、そば屋、茶屋、土産物屋などがあり、外国人も多く大変な混雑である。

脇本陣跡 問屋場跡 本陣跡 妻籠郵便局
街道を下って行くと右手に脇本陣奥谷(林家住宅)がある。
木曽檜をふんだんに使って、明治10年に建てられたもので、明治13年には明治天皇の御小休所になった。島崎藤村の詩 「初恋」 に詠われた 「おゆふ」 さんの嫁ぎ先でもある
敷地内には、明治天皇妻籠御小休所碑が建っている。
街道左手の妻籠宿ふれあい館の隣に問屋場跡が復元されている。
この日は、文化文政風俗絵巻行列で建物の前では見世物が行われていた。
問屋場跡の隣が本陣跡である。
妻籠宿本陣には島崎氏が任命され、明治に至るまで本陣、庄屋を兼ね務めた。島崎藤村の母の生家であり、最後の当主は島崎藤村の実兄で、馬籠から伯父の所へ養子にきた広助であった。
この郵便局は、重要伝統的建造物群保存地区町並みの景観に合うように出梁造りで造られている。局前の黒い 「書状集箱」 は、現在のポストであり、これも景観に合わせて作ったものである。妻籠郵便局は、明治6年3月妻籠郵便御用取扱所として開設された。当時の取扱所は本陣にあり、その後、名称や場所も変わったが、現在地へ移ったのは、昭和54年1月である。

よろづや 光徳寺 石仏「寒山拾得」像 延命地蔵堂
郵便局の先に建物の左右に卯建の立った 「よろづや」 がある。
江戸時代の風俗が良く似合う。
よろづやの先で街道は枡形となる。街道にはます形と彫られた道標がある。
枡形を下った先に光徳寺の寺標があり、参道の長い石段が左上に延びている。石段脇には、豊川稲荷大明神、鳥獣魚族供養塔、枝垂桜があり、境内には地蔵堂と鐘楼がある
光徳寺の石段の脇に石仏「寒山拾得」像が安置されている。
この石仏は、昭和59年の長野県西部大地震で石段左手の石垣が崩れた際に発見されたもので、寒山拾得を題材にした 「箒と巻物を持った人物による双体像」 であり、国内唯一の珍しい絵柄の石仏である。
石仏「寒山拾得」像の隣に延命地蔵堂がある。この堂内には、直径が2mほどの自然石が安置されている。
この石の由来は、文化10年(1813)5月に蘭川の河原に地蔵尊が浮かび出ている石があることを旅人から告げられて知り、当時の光徳寺住職中外和尚をはじめとする村人たちが、ここまで運び上げたというものである。

寺下の宿並 おしゃごじさま 藁馬 峠口
寺下の宿並は文化文政風俗絵巻で身動きが出来ないほど混雑していた。
三味線を弾く女、茶店で茶を飲む二人連れ、紙風船で遊ぶ童、休憩する人足など建物に合う風俗で楽しませていた。
宿外れに 「おしゃごじさま」 がある。
古代からの土俗信仰の神様で 「土地精霊神」、「土地丈量神」、「酒神」 などの諸説がある謎の神様と言われている。
宿外れに 「藁馬実演販売」 の看板をかけた家がある。軒先に一頭の藁馬が置かれている。 藁馬の先の 「諸人御宿八起」 の看板の下がった家の先から峠道が始まる。

道標 はしば道標 石柱道標 大島道標
蘭(あららぎ)川に沿って進むと左手に地蔵尊があり、その先で国道256号線に突当るので、向かい側の土道の尾又旧道に入って行く。ここには道標があり、「右旧道まごめ 左志ん道いいだ」と刻まれている。
街道を進むと墓地があり、街道脇に六地蔵尊や萬霊塔が安置されている。
蘭川に沿って進むと車道に合流する。
この合流地点に 「はしば道標」 があり、「右志ん道 左旧道つまご」 と刻まれているが、京方面から来た場合の道標である。
はしば道標から車道に出て間もなく、左の民家の庭先に大きな中山道と刻まれた石柱が見える。
近くへ行って見ると大きな道標で正面に 「中山道 東京江七十八里半 西京江五十四里半」、右側面に 「飯田道 元善光寺旧跡江八里半 長姫石橋中央江八里」 と刻まれている。
直ぐ先で蘭川に架かる大妻橋を渡ると、渡詰め右手の民家前に自然石の道標があり、ここから山道に入っていく。道標には、 「中山道大島 右旧道」 と刻まれている。
林の旧道を進むと右斜面に馬頭観音があり、林の道を抜けると旧明神村の集落へ出る。

旧明神村集落 旧旅籠金剛屋(左) 大妻籠旧道口 大妻籠一里塚
旧明神村の小さな集落は道幅も狭く、タイムスリップしたような感じである。集落の先で下り坂になり車道に合流する。
この合流地点に行燈が建っている。
合流地点の男垂(おたる)川を明神橋で渡った先の急な坂道の途中に旧旅籠金剛屋が建っている。建物の前には、南無弘法大師之紀念碑があり、脇に説明版も立っていて 「当家初代磯村定心が二階に弘法大師を祭祀して信仰を深めたところ、町内はもとより遠くは名古屋方面より信者が集まった云々」 と記載されている。旧旅籠金剛屋の上の2軒は五平餅の看板を掲げた蕎麦屋である。 蕎麦屋の先で県道7号線に突き当たるが、その手前右側に橋が有り、ここから大妻籠旧道に入って行く。
橋の袂には、「中山道 大妻籠 右旧道 左志ん道」 と刻まれた道標がある。橋を渡って間もなく右手に真っ白な梲(うだつ)の上がった3軒の旅籠 「近江屋」、「まるや」 と 「つたむらや」 が建っている。
旧旅籠の先で林の道を抜けて男垂(おたる)川を渡ると、左手民家の裏に小山があるが、これが大妻籠の一里塚と思われる。ここは江戸日本橋から数えて81里目の一里塚跡である。特に説明板などがある訳ではないが、塚の上に3基の石塔が立っているのが確認できる。この先で県道7号線に合流するが、合流地点に 「中山道庚申塚 右志ん道 左旧道つまごに至る」 と刻まれた道標がある。

とうがめ沢旧道口 牛頭観音 峠道 熊除けの鐘
県道7号線に合流して 「民宿こうしんづか」 の前を通り、前方左側の 「とうがめ沢 下り谷を経て馬籠峠へ」 と刻まれた道標の立つ石畳道を登って行く。 旧道に入って間もなく右手斜面に牛頭観音が安置されている。
ここには説明板があり、「石の多い急な坂道を重い荷物を運ぶため、黒牛が使用された。この中山道に祀られた唯一の石仏。(多くは馬の供養塔である。)」 と記載されている。
林の中の石畳道を一気に上って行く。
右手の木々の間から県道7号線と通ってきた集落が見える。
右手に棚田が見えるところに熊除けの鐘が設置されている。

木橋 倉科祖霊社 分岐 男滝
木橋を渡ると舗装路に出る。
この先、旧下り谷村集落に入ると70m程上った左右民家の前に自然石の中山道道標があり、「中山道 右馬籠宿 左妻籠宿」 と刻まれている。
集落を抜けると坂道の途中左手の段上に倉科祖霊社がある。手前に説明板があり 「ここには松本城主小笠原貞慶の重臣倉科七郎左衛門朝軌の霊が祀られている。七郎左衛門は、主人貞慶の命を受けて大阪の豊臣秀吉のもとに使いに行き、その帰りに馬籠峠でこの地の土豪たちの襲撃にあい、奮戦したがついに下り谷で、従者三十余名とともに討ち死にしてしまった云々」 と記載されている。 旧道を進んで行くとY字路に熊除けの鐘があり、左の登り坂に庚申塔が安置されていて旧道と分かるが、右に男滝女滝の標識があるのでそちらに進むこととした。どちらを行っても県道7号線に合流する。 この滝は、木曽に街道が開かれて以来、旅人に親しまれた憩いの場所である。
吉川英治の宮本武蔵の舞台にも取り上げられている。男滝の奥に女滝があり、小橋を渡って階段を上がって行くと県道7号線に出る。

一石沢旧道口 一石栃旧道口 さわら大樹 一石栃白木改番所跡
県道7号線を進んでいくと右手のガードレールの切れ目に木橋がある。袂の木製道標には、馬籠宿4.6㎞と記されている。橋を渡って間もなく熊除けの鐘があり、途中小さな沢を木橋で渡りながら一石沢に沿って進んで行くと県道7号線に突き当たる。突き当りには、自然石の中山道道標がある。 県道7号線を横切ったところが一石栃旧道口である。ここには自然石の道標があり、「中山道一石栃口 左旧道」 と刻まている。自然石の道標の脇には、この付近の中山道の説明があり、「主要地方道中津川南木曽線の拡張工事に伴い、車道敷になる中山道については破壊することなく、形状を維持したまま埋蔵保存を実施した。」 と記されている。 旧道を進んで行くと左手にさわらの大樹が立っている。
このさわらは樹齢300年以上で下枝が立ち上がっており、このような形の枝を持った針葉樹を神居木(かもいぎ)というそうである。特にこの木のように両方に枝の出た木を両神居というそうである。この木の近くにも熊除けの鐘が設置されている。
石畳の坂道を登った先に番所門が復元されている。白木改番所は、木曽から移出される木材を取り締まるために設けられたもので、桧の小枝に至るまで許可を示す刻印を焼いてあるかどうかを調べるほど厳重であったと言われている。
番所門の右手は東屋が建っていて休憩する事が出来る。

一石栃の枝垂桜 立場茶屋跡 石塔群 馬籠峠頂上
番所門の右手の道を入って行くと坂の途中に大きな一石栃の枝垂桜と子安観音堂がある。この地には、一石栃沢流域に住む者は難産しないという言い伝えがあり、信仰の対象として子安観音が祀られており、傍らには男性のシンボルが安置されている。またこの枝垂桜は、慶応元年と明治37年の大蛇抜けにも耐えた古木で町天然記念物に指定されている。 番所跡の先に一石栃立場茶屋跡があり、妻籠宿と馬籠宿の中間に位置し、往時は7軒ほどの家があって栄えていたが、現在はこの牧野家住宅一軒だけになっている。軒先には、いちこく御休み処の看板が掛けられており、壁には一石栃の枝垂桜の写真が貼ってある。 立場茶屋を過ぎて間もなく林の中に石塔群がある。
南無阿弥陀仏名号碑、三界萬霊塔、文化14年(1814)の仏像があり、右側の笠を被った石塔は墓石のようである。
林の中の石畳道を上り切って県道7号線に合流したところが馬籠峠の頂上(801m)である。ここは県道7号線の曲り角でやや広くなっており、峠の茶屋があり、傍らに正岡子規の句碑 「白雲や青菜若菜の三十里」 がある。馬籠峠は、長野県と岐阜県の県境になっており、ここから暫くは岐阜県内を歩くこととなる。

旧峠村旧道口 熊野神社 明治天皇御小憩紀念碑 峠集落
県道7号線を下って行くと右手に中部北陸自然歩道道標が建つ旧峠村旧道口がある。道標には、「←馬籠宿2.0㎞、妻籠宿5.7㎞→」 と記されている。ここにも熊除けの鐘が設置されており、坂道の途中には 「クマ出没注意」 の黄色い看板がある。 旧道を130m程下った左手に熊野神社がある。鳥居を潜って左の階段を上がったところに舞屋があり、更に階段を上がったところに拝殿と本殿がある。階段の上り口には明治天皇峠御膳水碑が建っている。 熊野神社の階段の右手に明治天皇御小憩紀念碑が建っている。 この峠集落は、当時牛で荷物輸送を行って駄賃を稼ぐ 「牛方衆」 の集落で、この牛方衆を木曽では 「岡船」 と呼んでいた。また、「狸の膏薬」 や名物 「栗こわ飯」 を商う茶屋があった。写真の左の家は江時期に牛方衆の頭を務めていた今井家住宅で重要建造物に指定されている。このやや上には建物の前に荷車の車輪を置いた旅籠桔梗屋が建っている。

峠之御頭頌徳碑 十辺舎一九の碑 水舟 石畳道
村外れの左段上に峠之御頭頌徳碑が建っている。これは安政3年(1856)に牛方が運賃配分で中津川宿の問屋と争ったときの牛頭今井仁平衛を讃えたものである。この先はY字路になっており右手の旧道脇に 「中山道 峠 右まごめ宿」 と刻まれた道標がある。 旧道を下って行くと右手に東屋とトイレがあり、街道沿いに十返舎一九の碑が建っている。碑には 「渋皮の むけし女は見えねども 栗のこはめし ここの名物」 と刻まれている。 十返舎一九の碑の先の民家庭先に水舟がある。
庭先に蒸かしたサツマイモが売られていたので一本戴きながら街道を進んだ。
旧道をどんどん下って県道7号線に合流し、右手の御食事処樹梨の前を通ると、ガードレールの切れる辺りに右に下る石畳道がある。坂道を下りると回り込んできた県道7号線に突き当たるところに水車小屋、水車塚碑が建っている。水車塚碑には、島崎藤村の碑文 「山家にありて 水にうもれたる 蜂谷の家族四人の記念に」 が刻まれている。明治37年の水害で一家4人が犠牲になったものである。 

岩田旧道口 馬籠旧道口 馬籠上陣場跡 高札場
水車塚の前の県道7号線を横断した先に岩田旧道口がある。旧道を下りていくと舗装路に突当り、角に道標が建っているので右に進むと県道7号線に合流する。 県道7号線を進むと右手に石段かある。上り口に熊除けの鐘が設置され、石段と石畳の坂道を進んでいくと、上り詰めたところの畑の前から一旦県道7号線方向に下り、左下に県道7号線を見て進んで行くと前方に開けた展望台がある。 遠くに恵那山(2192m)の見えるこの広場は、天正12年(1584)豊臣秀吉と徳川家康が戦った小牧・長久手の合戦の時、徳川勢の菅沼・保科・諏訪の三武将が馬籠城を攻める為に陣を敷いた所である。広場には、島崎藤村の父正樹の歌碑、越県合併記念碑、島崎藤村ニーチェ言葉碑がある。 馬籠上陣場の東屋の先から下りの石畳道となり、左手に高札場跡がある。
高札場の前の旅籠上但馬屋の庭先に石柱の道標が建っており、「中山道馬籠宿 京江五十二里半 江戸江八十里半」 と刻まれている。旅籠上但馬屋の前で県道7号線を横切ると、右手に中山道等の説明板がある。

脇本陣跡 大黒屋 本陣跡 民宿馬籠茶屋
宿の中央辺りに脇本陣跡がある。
脇本陣は、明治28年の大火で消失したが、跡地に馬籠脇本陣資料館を建て、脇本陣の最高位の部屋である 「上段の間」 を復元してある。街道に面して山口誓子の句碑 「街道の 坂に蒸れ柿 灯を点す」 がある。
脇本陣の隣に大黒屋が建っている。
大黒屋は、問屋や年寄役を勤め、造り酒屋を営んでいた。幕末から明治初期の当主が40年間書き続けた 「大黒屋日記」 が島崎藤村の小説 「夜明け前」 の原点になっている。また島崎藤村の初恋の人で詩にも詠まれた 「おゆう」 の実家でもある。名物の 『栗こわめし』 は島崎藤村の小説 「夜明け前」 にも登場している。
大黒屋の隣が島崎本陣跡である。島崎家は、代々本陣・問屋・庄屋を兼ねた旧家で、藤村の父正樹が最後の当主であり、藤村は明治5年(1872)に島崎家の末っ子として産まれている。冠木門の脇には、明治天皇停蹕之蹟碑が建っている。
本陣跡の先に本日宿泊する民宿馬籠茶屋が建っている。向かい側には馬籠茶屋の食堂となる御食事処馬籠茶房の建物が建っている。

永昌寺 夕暮れの宿並み 六十九次の提灯
馬籠茶屋の先の 「五平餅かなめや」 の向い筋を150m程進んだ高台に臨済宗妙心寺派の西沢山永昌寺がある。永昌寺は、永禄元年(1558)島崎重綱が島崎家の菩提寺として開かれたと云われている。寺標の先に島崎家先祖の墓入口があり、入って行くと島崎正樹の墓、次いで島崎春樹(藤村)と妻冬子の墓がある。境内には、観音堂、鐘楼のほか、庚申塔をはじめとした沢山の石造物がある。 永昌寺から街道に戻ると夕暮れの宿並みが非常にきれいだった。 民宿馬籠茶屋の食事は、向かい側の建物で採ることになっており、本日は馬刺しをはじめとしてボリューム満点の夕食であった。
食事している半数以上が外国人というのも意外であった。街道には中山道六十九次の宿場の名が入った提灯が坂道に並べられていた。

平成26年11月24日(月) ☀  馬籠~美乃坂本   17.0㎞
今朝は6時に起床し、朝食まで1時間以上時間が有るので木曽義仲妹菊姫の墓に寄り、展望広場で日の出を見てから朝食を採ることとした。今朝も向かいの建物で朝食を採り、8時15分に民宿馬籠茶屋を出発した。気温は低いが良く晴れているので快適な旅が出来そうである。

法明寺跡五輪塔 日の出 朝の宿並み 旧旅籠但馬屋
永昌寺の奥の田圃の脇にひっそりと五輪塔が建っている。これらの脇に木曾義仲の妹菊姫の迫害供養塔が建っている。朝敵となった木曽義仲の妹菊姫は源頼朝に捕えられたが妻政子の執り成しもあって、頼朝は美濃国遠山の荘の一村を与え、義仲恩顧の御家人である小諸太郎光兼らに命じて菊姫の面倒をみさせた。遠山の荘の一村とは馬籠のことだという説が定着している。 寒風が吹く中、県道7号線を上って馬籠上陣場跡の展望台へ向かった。日の出前の上陣場建物で待っていると7時30分に恵那山の左から陽が昇った。 人通りのない馬籠宿並みは朝日を浴びて往時の姿を偲ばせている。
昨日、夕暮れ時に見た多くの建物もまた違って見える。
永昌寺入口の隣に郷土民芸品の下扇屋があり、その隣に旧旅籠但馬屋がある。但馬屋には 約110年前の囲炉裏があり、現在も使用されているそうである。

清水屋 枡形道路 阿弥陀堂 道標
但馬屋から3~4軒先の左手にある清水屋は島崎藤村の作品 「嵐」 にでてくる 「森さん」 こと原一平の家である。この清水屋には藤村の書簡、掛軸、写真などをはじめ、江戸時代に宿場として栄えた頃よりの文書、書画、九谷、伊万里、唐津などの陶磁器、輪島の漆器類をはじめ宿場 「馬籠」 の生活文化史ともいえる数々の遺品が2階の資料館に展示してある。 街道を下って来ると右手に降りる階段がある。ここが枡形道路の入り口で角に水車が設置された旧家がある。
水車の前には大きな常夜燈が建っており、向かいの斜面のつつじの葉が真っ赤に色づいていた。
枡形道路の突当りに阿弥陀堂がある。
御堂の横には、廿三夜塔、庚申塔、南無阿弥陀仏名号碑、馬頭観音などが安置され、「京都大原三千院ゆかりの阿弥陀堂」 と刻まれた石碑がある。
阿弥陀堂から坂を下って国道7号線を横断すると、右角に中山道道標が建っている。
道標には、「中山道馬籠宿 江戸へ八十里半 京へ五十二里半」 と刻まれている。ここで馬籠宿は終了である。

石屋坂 道標 丸山の坂 石塔群
県道7号線を越えた左手のそば処まごめやの石垣の上に道標がある。
道標には、「中山道まごめ 右湯船沢 上藤村記念堂 左志ん道」 と刻まれている。
この先は田圃に囲まれた緩やかな下りの石屋坂である。
石屋坂を下って小さな橋を渡った先の横屋バス亭の脇に明治38年建立の道標がある。
道標には、「右中津川旧道 左中津川新道」 と刻まれている。
道標の先の上り坂に 「丸山の坂」 の石柱が建っており、横には馬籠城跡の説明版が設置されている。
説明版には、「この辺りの地名を 「丸山」 とも 「城山」 ともいい、ここには今から500年ほど前の室町時代から 「馬籠城(砦)」 があったことが記されている。戦国動乱の時代、馬籠は武田信玄の領地となるが、-中略-、元和元年(1615)尾州徳川義直の領地となり、以後戦火のないまま馬籠城は姿を消した。」 と記されている。
馬籠城跡の直ぐ上の林の中に石塔群がある。庚申塔と馬頭観音、廻國供養塔などであり、左の階段を上って行くと林の中に豊川神社と刻まれた石碑と石祠、石灯籠がある。

諏訪神社 民家の車庫 男女双体道祖神 正岡子規の句碑
集落の中を進んでいくと左手に諏訪神社がある。鳥居を潜ると参道口に島崎正樹翁記念碑があり、その奥に手水舎がある。木々に囲まれた狭い参道を進んで二の鳥居を潜ると右手に舞屋があり、その正面に拝殿がある。境内には文化8年(1811)の常夜燈、天保13年(1842)の常夜燈と廿三夜塔、金比羅大権現などの石碑が並んでいる。 諏訪神社を過ぎてのどかな荒町の集落を200m程進むと、緩やかな下り坂の左手民家の車庫奥に看板が立て掛けられている。覗き込んで見ると 「馬籠のいわれ」 と書かれており、左脇に木造の馬、右脇に駕籠が飾られている。昔の馬籠は生活物資は馬の背で何でも運んでおり、人が病気や怪我をすると組の者が駕籠にいれて中津まで運んだ。これが馬と駕籠で馬籠の由来であると記されている。 更に300m程集落の中の旧道を進むと、左手の林の前に男女双体道祖神が安置されている。右手には田圃の景色が広がっており、この辺りの集落は鍛冶屋(バス停)というようである。バス停の時間表をみると馬籠方面一日12:32の一本、中津川方面9:45、12:45の二本のみである。 先に進んで左手の溜池を過ぎると水舟があり、その先で集落が途切れた神坂に小さな公園があり、街道沿いに正岡子規の句碑が建っている。碑には、「桑の実の 木曾路出づれば 麦穂かな」 と刻まれている。また、ここは信州サンセットポイント百選に選ばれており、中津川が一望できる。

新茶屋 新茶屋の一里塚跡 新茶屋旧道口 立場茶屋跡
つづら折りの坂道を一気に下ると右手に民家が2軒あり、この辺りが新茶屋である。写真の家は、民宿新茶屋である。民宿新茶屋の前の庭には、天保13年(1842)建立の芭蕉句碑 「送られつ 送りつ果ては 木曽の穐」 がある。その隣の東屋の脇には、「是より北 木曽路」の碑があり、昭和15年(1940)7月、当時68歳だった藤村が地元の要請により揮毫したものである。 是より北木曽路の碑の隣が新茶屋の一里塚跡であり、こんもりと塚が残っている。江戸日本橋から数えて83里目である。左の塚の脇には、開運妙見大菩薩の石碑が安置されている。右側の塚の脇には美濃信濃国境の石柱が建っている。 一里塚跡の先で右手に石畳の旧道があり、旧道口に落合宿2.0㎞の道標がある。100mほど下ると左手から回り込んできた舗装路に突き当たるが、旧道は舗装路を横切って数段の石段を下って更に石畳の下り坂を進んでいく。 旧道を下ると右手に開けた場所があり、東屋が建っている。ここは新茶屋に移転する前の立場茶屋跡である。
周囲には、中山道紀行文の寛永6年(1709)貝原益軒の 「岐蘇路記」、享和2年(1802)太田南畝の 「壬戌紀行」 の一節のほか、馬籠宿、中津川宿、落合宿などの説明がある。

なんじゃもんじゃの杜 山のうさぎ茶屋 落合の石畳 落合旧道口
石畳の下り坂左手になんじゃもんじゃの杜があり、なんじゃもんじゃの杜碑が建っている。傍らに立札があり、「本名はヒトツバタゴトといい、古生代の依存木である。5月中旬頃の開花で満開時は樹上が真白になり、雪が積もったような景観を醸す。この杜は昭和51年落合老人クラブが植樹したもである。」 と記されている。 石畳道を進むと左手に十曲峠山のうさぎ茶屋が建っている。
人気は無くひっそりとしていた。
山のうさぎ茶屋から100m程下った右手に中津川市教育委員会が設置した落合の石畳の説明版がある。
その脇に真新しい立札が有り、「TBS連続ドラマロケ地 浅見光彦~最終章~木曽編 第6話浅見家の悲劇(前編) 第7話浅見家の悲劇(後編)」 と記されている。
石畳道は400m程下って車道に合流する手前の小さな橋の前で終了する。
街道は、車道に合流したところで山中の集落に出て左に進んでいく。

医王寺 下桁橋 道標 落合高札場跡
緩やかな下りの道を進むと街道に面して立つ大きな枝垂桜のある医王寺がある。本堂に安置されている薬師如来は天平時代の名僧行基菩薩の作と言われる。初代の枝垂桜は伊勢湾台風で倒れ、現在は二代目である。境内左手に観音像と地蔵尊が安置され、境内奥には芭蕉句碑 「梅が香に のっと日が出る 山路かな」がある。 医王寺からは一気に坂道を下って落合川に架かる下桁橋を渡って行く。下桁橋は、江戸時代には 「大橋」 とか 「落合橋」 と呼ばれ、少し下流にあったと云われている。上流は砂防壁があり、ちょっとした滝になっている。 下桁橋を渡って先に進むと左からの車道に合流する。
このポイントには道標や石像群のほか、落合橋の説明板がある。確認できる道標には、「右神坂ヲ経て飯田町ニ通ず 左山中薬師弘法二十四番札所」 と刻まれている。
街道を進んで県道7号線に合流するところに落合高札場跡がある。

常夜燈 サザンカ 塚田脇本陣跡 井口本陣跡
高札場跡から県道7号線を横切って向かい側の坂道を上って行くと枡形の角に寛政4年(1792)の上町の秋葉山常夜燈が建っている。往時、4基あった常夜燈のうち1基は善昌寺境内、2基はおがらん公園の愛宕社に移されている。 街道を70m~80m程進むと、右手のクラフトショップの海鼠壁の土蔵の前にサザンカの花が今を盛りに咲いていた。 更に70m~80m程進むと、左手に塚田家があり、門前に落合宿脇本陣跡の標柱が建っている。脇本陣を勤めた塚田家は、尾張徳川家給人の山村氏(木曽方)の庄屋と問屋を兼ねていた。 脇本陣の向かい側に本陣跡がある。
本陣を勤めた井口家は、尾張徳川家給人の千村氏(久々利方)の庄屋と問屋を兼ねていた。本陣門は文化12年(1815)の大火で焼失したが、大火後に加賀藩前田候から贈られたもので、本陣門脇には、明治天皇落合御小休所碑が建っている。

助け合い大釜 善昌寺 枡形道路 おがらん神社
本陣跡の直ぐ先に落合宿助け合い大釜が展示されている。文久元年(1861)皇女和宮の大通行時には、四日間で述べ約二万六千人余が落合宿を通過し、その際、暖かいおもてなしをする為に、各家の竈(かまど)は引きも切らず焚きつづけられたという。ここに展示された大釜は日本の食文化を後世に残すために色々なイベントに使用しているものである。 街道を進むと道に張り出した大きな松の木が見える。この松の木の奥に善昌寺がある。山門をくぐると右手に御膳水の井戸があり、脇に明治天皇御膳水碑が建っている。奥には移設された常夜燈が安置されている。門前の松は、創建当時山門を覆っていたことから門冠の松と呼ばれている。 善昌寺の前から直角に折れる枡形道路となっており、角に道標が建っている。
道標には 「右至中仙道中津町一里」 と刻まれている。この向かい側の公園は落合村役場跡地で一角に跡地碑が建っている。この先一旦下って急な上り坂になる。坂の途中の民家の庭先に延命地蔵尊があり、坂の途中には向町の地蔵尊と呼ばれる観音像が安置されている。
急坂を上り詰めると右手に国道19号線の跨橋おがらん橋があり、渡った正面におがらん神社がある。
木曽義仲の家来であった落合五郎兼行の館があった場所と云われ、「おがらん」とは「伽藍」(大きな寺院)からきたと推定されている。現在ここには、おがらん四社(落合五郎兼行神社・愛宕神社・山之神神社・天神社)が祀られている。

杉松稲荷神社 横手橋 坂上 与坂立場跡
おがらん神社から旧道を進むと右手の民家の脇を通り抜けた高台に杉松稲荷神社がある。鳥居前の正一位杉松稲荷大明神碑には、三百年祭と刻まれているので、由緒ある神社と思われる。拝殿には狛狐と瓶子が祀られている。 杉松稲荷神社から街道に戻ると下り坂となり、下落合川に架かる横手橋を渡っていく。橋を渡ると上り坂となり国道19号線のガードをくぐって反対側の与坂旧道を上って行く。この坂道は急坂で左右にうねっている。 急坂の与坂旧道を上り詰めて振り向くと落合の町並みが見える。 坂上から真っ直ぐ進むと右手に大きな旧家が見える。与坂立場跡で庭先に標柱が建っている。ここには延享2年(1745)から天明2年(1782)まで白木を取り締まる与坂番所があった。また越前屋という茶屋があり、三文餅が名物であった。与坂立場跡の標柱の前には、祠に納まった不動明王像と弘法大師あ像が有り、傍らに弘法大師三十六番所札所の標柱が建っている。

子野一里塚跡 覚明神社 神明神社 枝垂桜
急坂を下りきって三五沢橋を渡ると、左手の段上に子野一里塚跡がある。
ここは江戸日本橋より数えて84里目であり、僅かにこんもりした小山で一里塚の痕跡を残している。
一里塚から急坂を上っていくと左手段上に南無観世音菩薩碑と馬頭観音があり、坂道を上り詰めると十字路の先に覚明神社がある。覚明神社は、天明5年(1785)御嶽山の開山を目指した覚明行者が中山道を通り、ここにあった茶屋に泊まり、もてなしを受けた礼に湯呑・金剛杖・数珠等を贈ったと言われ、開山を記念して覚明霊神を祀ったのが始まりという。境内には、沢山の霊神碑があり、隣には、御嶽教槙坂覚明霊地保存社がある。 覚明神社の坂道を下りていくと左の林に神明神社の標識があったので入ってみた。脇から神社に入ったようで境内の社務所の前に出た。階段を上がった先に天照坐皇大神(あまてらすすめおおかみ)を祀った社がある。境内には大山祇之神(おおやまつみのかみ)、水波能売神(みずはのめのかみ)を祀った小社があり、鳥居脇には猿田彦大神も祀られている。 神明神社から急坂を下り子野川に架かる子野橋を渡ると上り坂になる。坂上の先に大きな枝垂桜があり、周囲に元禄7年(1694)の庚申塔、寛延4年(1751)の南無阿弥陀仏碑、地蔵尊、観音像などが安置されている。昔このあたりに地蔵堂があったというが定かではない。

地蔵堂橋 国道19号線地下道 常夜燈 尾州白木改番所跡
枝垂桜の直ぐ先の地蔵堂川に架かる地蔵堂橋を渡り、その先の変則十字路の右手の坂道を上って行くと国道19号線に突き当たる。 突当りの国道19号線を地下道でくぐって行く。地下道内には、故郷思い出事業として区内の小学生、幼稚園児、東さくら保育園児の絵などが飾られている。反対側に出ると真新しい道祖神、中仙道碑などが建っている。 街道を進むと上金の集落に入り、左手に中山道上金碑、廿三夜塔、文政6年(1823)の秋葉大権現常夜燈が建っている。この隣の道を挟んでは男女双体道祖神があり、脇に上金メダカの池がある。 緩やかな上り坂を進んでいくと右手に尾州白木改番所跡がある。この番所は、天明2年(1782)に設置され、木曽から伐採した材木を監視していたが、明治4年に廃止された。跡地には、中山道碑が建ち、街道に面して紅白のサザンカが咲いている。

伏見稲荷神社 芭蕉句碑 天満宮 高札場跡
尾州白木改番所の先に旭ヶ丘公園があり、公園脇に赤い鳥居の続く伏見稲荷神社がある。拝殿脇には標示石なる 「月石、相和房」 など7つの石が並んでいる。これらはもと台地にあった2つの塚の中央に置かれ、天明3年(1783)芭蕉の90回忌に設けられたことを表し、それ以前にすみれ塚が存在していたことを標示している。公園の奥には忠魂碑の台座を利用して平和の鐘が建立されている。 旭ヶ丘公園の林の中には沢山の石碑、石像が安置され、この芭蕉句碑は説明版の通し番号③で貞享2年(1685)の 「山路来て 何や羅遊(らゆ)かし 寿み連草(すみれそう)」 が刻まれている。この他、①元矩碑、②経王書写塔、④蝶哉句碑、⑤馬風句碑、⑥石仏三井寺観音、⑦芭蕉句碑、⑪宝暦の御神灯、⑫秀矩歌碑などがある。 旭ヶ丘公園の一角には天満宮があり、公園内に設置された説明版⑩天神碑、石灯籠の並ぶ階段脇に⑨はだか武兵の碑、⑬土衛歌碑がある。 旭ヶ丘公園から茶屋坂を下ると車道に突当り、歩道橋を渡ってガードレールの切れ目から階段を降りると左手に高札場跡がある。復元された高札場には正徳元年(1711)に公布された7枚の複製高札が掲げられている。傍らには常夜燈、庚申塔、二十三夜塔と不動尊がある。

正善院 老舗すや 桂小五郎隠れ家跡 往来庭
高札場の直ぐ先左手に正善院の標柱が建っている。
正善院は法華宗(本門流)の寺院であり、本堂脇に南無妙法蓮華経の題目碑が建っている。
街道を進んで新町交差点を渡った左手に栗きんとんの老舗すやが建っている。元禄年間(1688~1703)に江戸から下ってきた一人の武士赤井九蔵が、この宿場町に住みつき、「十八屋」 の屋号で酢の店を開いのが始まりである。
街道脇には網笠のモニュメントや道標などが設置されている。
岐阜信用金庫の先、左手の路地を入って行くと桂小五郎が隠れた料亭やけ山跡がある。文久2年(1862)6月、長州藩士桂小五郎(木戸孝允)は京都に向かう藩主毛利慶親公の行列を待つ間、幕吏の目を逃れて秘かに 「やけ山」に隠れ待機した。やがて 「中津川会議」 3日の末、桂の主張により長州藩は尊王討幕へと決断した。 街道右手に冠木門の往来庭がある。
商家が軒を連ねていた様子を再現した休憩場所で、冠木門を入ると正面に蔵屋敷風の建物のトイレがある。商家は壁一枚で再現されている。

四ツ目川橋 中山道歴史資料館 中津川宿本陣跡 中津川村庄屋跡
往来庭の先で四ツ目川に架かる四ツ目川橋を渡って本町へ入って行く。 四ツ目川橋を渡った左手に中山道歴史資料館が建っている。
資料館の角には、中津川宿脇本陣跡碑、明治天皇中津川行在所碑が建っている。
中山道歴史資料館の前の駐車場脇に中津川宿本陣跡碑が建っている。
当時、本陣の入口には5軒続きの長屋が建ち、その中央の一軒分が門となっていた。門右手の一軒分は問屋で、門をくぐると表庭があり、その奥に建坪283坪の本陣があった。
中山道歴史資料館と道路を挟んだ向かいに、中津川村の庄屋をつとめていた肥田九郎兵衛の屋敷跡がある。
屋号は 「田丸屋」 といい、当主は代々九郎兵衛を名乗っていた。江戸の後期から旅籠を経営し、明治26年(1893)には、恵那山に登ったウエストンも宿泊している。明治30年代になると曽我家が建物を譲り受け、中津川で最初に開業した医院となった。

常夜燈 大泉寺跡 表具店松霞堂 栗菓子川上屋
街道左手の食料品の 「ないき商店」 の手前角に常夜燈と井戸が設置されている。この常夜燈は中津川宿本町にあったもので、嘉永元年(1848)に建てられたものである。 常夜燈の先の右手駐車場前に大泉寺跡の立看板が建っている。この立看板から坂を下った辺りに大泉寺があった。かつて下町にあった瑞應寺を中津川の有力地侍であった市岡長右衛門が天正4年(1576)に本町(旧泉町)に移し中山道大泉寺と改名した。文久2年(1862)4月29日の落雷により寺は全焼したが、跡地には宝篋印塔、五輪塔などが残っている。 街道の枡形角地に表具店の松霞堂(可児家)が建っている。この家は、江戸期は米屋で傾斜地を利用して米を搗き、雨戸を開けるには二つ折りにして上へ持ち上げ固定するもので、柱や梁とともに今も残っている。また屋根裏には隠し部屋が残っており、博奕部屋であったという。裏庭には樹齢150年以上の松があり、この枝に霞がかかった様から松霞堂と呼ばれている。 枡形の先右手に創業元治元年(1864)の栗菓子の老舗川上屋が建っている。
川上屋の店先に道標が建っており、「右木曽路 左奈ごや 凡23里」 と刻まれている。

十八屋(間家) 白木屋(横井家) はざま酒造 常夜燈
川上屋の隣に十八屋が建っている。
この家は、江戸中期に園田大学が建てたと伝わり、屋号を十八屋といい、中津川の豪商間家の流れをくむ間武右衛門が旅籠を営んでいた。また、元治元年(1864)11月、水戸天狗党が通過した際、和田峠の戦いで負傷した武士をこの家の隠し部屋に匿うが病没した。その武士の遺品が今も残っている。
十八屋(間家)の隣が白木屋(横井家)である。江戸時代の面影を残すこの家は、横井家の先祖宮大工横井弥左衛門が天保13年(1842)に建てたものである。四畳半ほどの中二階が今も残されており、梯子を懸けかけて上り、中二階に登ると梯子を外して鉤に収納すると外からは部屋のあることが全く分からない仕組みになっている。 枡形道路の突当りに清酒恵那山の蔵元はざま酒造がある。
慶長6年(1601)の創業で建物は中津川景観重要建造物に指定されている。
枡形の角地には道標が建っており、「式内恵那山上道」 と刻まれている。
はざま酒造の先右手に常夜燈が2基建っており、常夜燈に隠れるように小社が鎮座している。かつて、この辺りにも高札場があったと伝えられている。この常夜燈の裏の細い道が旧道痕であり、かつては直進した先で、現在の中津川橋の上流で中津川に突き当たっていた。

中津川橋 津島神社社標 馬頭観音 駒場村の高札場跡
常夜燈の先で、中津川遊歩道公園を跨ぐ中央橋を渡り、その先で中津川に架かる中津川橋を渡って柳町から駒場町へ入っていく。中津川遊歩道公園は、かつて中津川上流の製紙工場に木材を運ぶ列車が走っていた線路跡で、跡地には宿場名を刻んだ石碑や植栽、冠木門などが設置され、「ミニ中山道」 として市民に親しまれている。 中津川を越えて暫く進むとY字路中央に津島神社社標が建っている。社標には 「津島神社参道」 と刻まれている。社標の右手段上には、八十六番と書かれた大師堂があり、中に石仏が2体安置されている。 津島神社社標から坂道を上って50m程進むと、右手段上に南無阿弥陀仏名号碑と3基の馬頭観音が安置されている。 坂道を上ると二車線の道路に突当り、ここを横断して向かいの旧道を進んで行く。程なくY字路があり、右折して行くと左手に駒場村の高札場跡があり、建物の壁に高札が3枚復元されている。この先、民家の庭先に東山道の道標、中山道駒場村と刻まれた道標が建っている。

小手ノ木坂 道標 石仏石塔群 上宿の一里塚跡
直ぐ先で前川に架かる上宿橋を渡ると、正面の突当りに小手ノ木坂があり、小手ノ木坂碑が建っている。旧道は階段の左手の坂道で、ここから上宿の一里塚に至る坂道を 「こでの木坂」 といい、中津川市内の中山道の中でも急峻な坂道である。こでの木坂の名称は、坂の頂上に大きな 「こでの木」 が生えていたことに由来するそうである。 くねった坂道を上ると、途中に設楽牧童句碑があり、「水車まで 蓑をかむりに行く 春の雨」 と刻まれている。その先でほぼ坂道を上り詰めた右手に津島神社の常夜燈と道標が2つ建っている。一つには、「右中山道 左苗木道」 と、もう一つには 「こでの木坂 左ひだみち」 と刻まれている。 道標の斜向かいの段上に石仏石塔群がある。この中に文化13年(1816)に建立された 「是より苗木道」 と彫られた双頭一身道祖神がある。周囲には馬頭観音、大乗妙典、南無阿弥陀仏名号碑などがある 石仏石塔群の直ぐ先右手に上宿の一里塚跡がある。江戸日本橋から数えて85里目である。現在、南側の塚は消滅し、北側にあった塚が昭和9年に復元されているが、往時の1/3の大きさである。
塚の前には明治天皇御鳳輦前駆奉仕蹟碑(駒場村の青年達が懸命に馬車の先引きを行い小手ノ木坂を通したという)が建っており、塚横には祠が有り石仏が3体安置されている。

石仏石塔群 小石塚の立場跡 六地蔵石幢 坂本神社八幡宮社標
上宿の一里塚跡から600m程進み、街道が緩やかに左にカーブする左手段上に祠が有り、周囲に石仏石塔群がある。祠には2体の石像が安置され、周囲には寛文12年(1672)の南無阿弥陀仏名号碑、延享2年(1745)の菩薩像があり、墓石と思われる石塔もある。 街道は市営住宅会所沢団地の手前で小川を越えて上り坂になる。上り詰めると前方にデーリー山崎があり、その向かい側に小石塚の立場跡がある。デーリー山崎の横には、嵐讃岐の供養塔がある。この供養碑は木曽家の有力武将の一人、嵐讃岐を供養するため、寛永3年(1626)に建立されたもので、中津川市有形文化財に指定されている。 小石塚の立場から国道19号線の脇を通り、中央自動車道中津川インターを回り込むように進み、六地蔵川を渡った先の右手に六地蔵石幢がある。
この石幢は大林寺の入口として寺創立24年後、明暦3年(1657)に造立されており、脇には宝永6年(1709)の南無阿弥陀仏名号碑が建っている。
六地蔵石幢から暫く進むと右手に坂本神社八幡宮の社標が建っている。
鳥居の手前までたくさんの常夜燈が並び、左側3つ目の常夜燈の脇に 「松風義校(千旦林学校)跡」 の説明版が立っている。松風義校は、明治6年から明治41年まで坂本尋常高等小学校となるまで建っていたようである。鳥居の先には御堂があり仏像が安置されている。

坂本神社八幡宮 千旦林村の高札場跡 馬頭観音 道標
参道を進んでJR中央本線を越えると正面に坂本神社がある。参道は田圃の中の一本道で常夜燈が建っている。二の鳥居前には秋葉社、手水舎があり、三の鳥居脇に弁天社、四の鳥居をくぐると舞屋があり、その奥の階段の五の鳥居の奥に拝殿・本殿がある。八幡宮は、大宝2年(702)の創建で、天正2年(1574)に戦火により焼失するが、天保3年(1832)現在の社殿を建立した。 坂本神社社標の直ぐ先右手に千旦林村の高札場跡がある。 街道を進んで東巣橋を渡った左手の民家の前に2基の石像が安置されている。
かなり風化されていて文字は分からないが如意輪観音(左)と三面六臂の馬頭観音(右)である。
馬頭観音の先でY字路となり、中央に道標が建っている。あいにく工事中で近くへ行けなかったが、手差し道標で左手差し 「旧国道大井町に至る」 と刻まれているのが確認できる。街道は左手差しのY字路を左に進んで行く。

秋葉山常夜燈 中平大師堂 中平神明神社 石仏石碑
Y字路から程なく右手前方の畑の前に弘化3年(1846)の秋葉山常夜燈が建っている。
正面に 「秋葉大権現」 と刻まれている。
街道を進むと左手に 「弘法大師七十七番」 と刻まれた標柱があり、奥の丘上に中平大師堂がある。
御堂には2体の石仏が安置され、境内には1面6臂、3面6臂の2基の馬頭観音が安置されている。
大師堂の先の緩やかな上り坂を進むと左手に中平神明神社の説明板がある。説明版の裏から山に向かって入って行くと道が整備されおらず、薮の中をかき分けて登って行くこととなり、開けたところに社が三つ建っている。大きな社が神明神社で天照大神が祀れており、小さな社は、津島神社と妙見社である。中平神明神社は、古くは坂本神社八幡宮境内社として祀られていたものである。 神明神社を過ぎると下り坂となり、街道の右手段上に石仏と石碑が並んでいる。
石仏は宝永8年(1711)の地蔵菩薩像で石碑は南無阿弥陀仏名号碑である。

将監塚 三ツ家一里塚跡 坂本立場跡 美乃坂本駅
石仏石碑から200mほど緩やかな坂道を進むと、右手の空き地に慶長18年(1613)から寛永8年(1631)まで二代目美濃代官を務めた岡田将監善同(よしあつ)の墓(塚)がある。当時大井村には名古屋城築城の際の 「材木番所」 があり、木曽材持出奉行として駐在していた。 将監塚の坂道を上り、その先下り坂の降り口右手に三ツ家の一里塚跡がある。ややこんもりとした塚があるが標柱が建っているのみである。ここは江戸日本橋から数えて86里目の一里塚である。この先で広い道路を越えてから上り坂となるが、途中、右手の民家の前に三面六臂の馬頭観音が安置されている。 街道を進むと下り坂になり二車線道路に突き当る。この道路を渡った右手角地に坂本立場跡がある。
坂本立場跡の先の急坂を下ると左手に南無阿弥陀仏名号碑や墓石などが10基並んでいる。本日はここで右折して美乃坂本駅に出て中津川駅前で宿泊する。
坂本立場跡から10分ほど歩き、美乃坂本駅には15時55分に着いたが、既に日没で薄暗くなり始めていた。

前へ  木曽福島~南木曽 次へ   美乃坂本~武並