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中山道   (美乃坂本~武並)

坂本立場跡から先に進むこととなり、大井宿を経て西行塚などの林間の街道を進み、大鍬宿の手前の武並(深萱)までの15.8㎞の道程である。

平成26年11月25日(火) ☂  美乃坂本~恵那  5.8㎞
前日に中津川に宿泊したため美乃坂本まで1駅中央本線に乗り、前日の続きのため坂本立場跡まで出て先に進むこととなったが、雨がいよいよ強くなり雨粒が写真に写るほどになった。

美乃坂本駅 坂本橋 茄子川村の高札場跡 尾州白木改番所跡
9時05分美乃坂本駅でカッパを着こんで出発することとなった。雨のため辺りは薄暗く、こういう状況も街道歩きにはあってもいいと納得しながら先に進む。 坂本立場跡から坂道を下ると坂本川に突当り、坂本橋で渡って行く。 街道を進んで用水路を小さな橋で渡ったところに茄子川村の高札場跡がある。
この辺りは水田が広がっており、高札場跡の標柱の近くに整田記念碑が建っている。
高札場の少し先右手に木曽産出の材木の監視を行った尾州白木改番所跡がある。
この番所がいつ設けられたか記録はないが、尾張藩が享保16年(1731)に茄子川下新井に 「川並番所」 を設置したのに対応して設けられのであろうと説明がある。

篠原家 明治天皇御小休所碑 常夜燈 常夜燈
街道を進むと左手に篠原家が建っている。
篠原家の当主は代々「長八郎」を名乗り、茄子川村の村方役人、尾張領の庄屋などを務めており、篠原家は中山道通行時の休泊施設として本陣や脇本陣の役割を担っていた。
篠原家の角に明治天皇茄子川御小休所、御膳水の標柱が建っている。
この表門をはじめとして、和宮、明治天皇が休憩した部屋、厠が残っている。
篠原家の角から左に入る道があるが、この両脇に大きな常夜燈が建っている。
中山道から遠州秋葉道への分岐であり、この常夜燈には、秋葉大権現、享和3年(1803)と刻まれている。
もう一つの常夜燈には、秋葉大権現、是よりあきはみち、安永5年(1776)と刻まれている。

道標 馬頭観音 石祠 永代燈
暫く緩やかなアップダウンのある道を進んでいくと左手に大きな中山道の道標が建っている。
中山道の文字の左には、是より大井と刻まれており、ここから恵那市に入って行く。
中山道の道標の直ぐ先で緩やかな広久手坂になるが、その右手に三面八臂の馬頭観音が安置されている。
広久手坂を上り詰めて岡瀬坂を下ると旧岡瀬澤村であり、檜の根元に氏神と金神の二つの石祠が祀られている。
岡瀬沢交差点に大きな永代燈があり、灯篭には 「ひだりあきばみち」 と刻まれている。
ここは、遠州秋葉山(現静岡県の秋葉神社)への追分で、東野、岩村の方からは村人の物資輸送の道であり、これを 「うしみち」 (中山道へ向かう道)と呼んでいた。
永代燈の隣には 「中山道岡瀬澤」 の石碑が建っている。

富士浅間神社 岡瀬沢観音堂 庚申塔 甚平坂
岡瀬澤交差点で街道を外れて右方向正面に富士浅間神社が見えたので寄ってみた。
この神社は、岡瀬澤の産土神として勧請されたが由来は不詳ということである。
薬泉が湧出する池に囲まれた本殿は貞享2年(1685)の創建で、祭神は木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)である。境内社は神明神社、八幡神社など10社のほか恵那峡稲荷神社がある。
街道に戻って直ぐ濁川に架かる筋違橋を渡ると左手に岡瀬沢観音堂がある。
観音堂の境内には、馬頭観音のほか5基の石塔が建っているが、苔むしていて文字が判読できなかった。
岡瀬沢の集落を進んでいくと左手の木々の中に庚申塔が建っている。
岡瀬沢では庚申講がとても盛んで、「庚申待ち」 といって、講元の家に集まり青面金剛の掛け軸をかけて、お茶飯と汁、漬物の夕食を食べて夜が明けるまで話をしていた。近くにもう一つ丸石の庚申塔が建っていた。
庚申塔の先の坂道を直進すると甚平坂である。
甚平坂は、根津甚平是行に由来する名称である。 根津甚平是行は、信濃国根津の領主で、武勇秀でた武士であったが、40歳を過ぎても子ができなかった。 そこで長興寺に七夜に亘ってお参りをしたところ嫡子小次郎惟清を授かった。 そこで甚平は長興寺に仏像を寄進したという。坂の途中には休憩所があり、東屋、トイレ、石碑などがある。

馬塚と犬塚 根津神社 関戸一里塚跡 正善寺
甚平坂の左手に馬塚と犬塚がある。
昔、信濃国の桔梗ヶ原に八重羽のきじという化け鳥がいて、里人や旅人の命を奪ったという。鎌倉幕府は根津甚平に化け鳥退治を命じ、甚平は馬に乗り、犬と鷹を連れ、多くの家臣と背子(せこ)を引き連れて化け鳥を追い、この坂に追い詰めた。しかし馬はここで倒れ、犬と鷹はなおも追い続けたが、犬は日吉(現瑞浪市)で力尽きたため、里人はこの坂に馬と犬を葬ったという。
甚平坂を登りきると左手段上に祖霊社根津神社がある。
石段の上った正面に拝殿(門だけ)があり、本殿の裏に関戸宝篋印塔(岐阜県重要文化財)が安置されている。この宝篋印塔は源頼朝の御家人で信州の人と云われる根津甚平の墳墓または供養塔と云われている。
根津神社から5分ほど進むと左手に関戸一里塚跡碑がある。江戸日本橋から数えて87里目である。 県道401号線に突き当たる手前右手に正善寺があるが、この寺は堂宇などが無くて寺という感じはしない。
ここには南無多宝佛如来、大井鬼子母神が安置されている。境内には廻國供養塔、小社がある。

石塔群 旅人の墓群 菅原神社 馬頭観音
県道401号線を下った左手に石塔群がある。
馬頭観音、三界萬霊塔、大乗妙典千部之塔、妙法蓮華経塔、五輪塔と背の高い長石塔である。長石塔は大井宿の長国寺和尚が村内安全を祈願し、延宝8年(1680)に建立したものである。
中央高速道路に架かる恵那峡橋の手前を左に入ると斜面に墓地がある。
墓地の中には、北は秋田県、南は鹿児島までの広い地域の人々が旅の途中、大井宿で亡くなった方が埋葬されている。ここには60余基の墓があり、主に男性で、女性は4人である。
街道に戻って恵那峡橋を渡った右手に菅原神社がある。
拝殿には菅原天神社と脇に秋葉大権現社と秋葉大権現碑が祀られている。
境内には牛の像があり、台座に 「東風吹かば匂いおこせよ梅の花主なしとて春を忘るな」 と刻まれている。
菅原神社神社から石段を下って行くと右手に馬頭観音が建っている。
上宿の女講連中で建てたと脇の標柱に書かれている。

寺坂の上宿石仏群 山本用水 南無阿弥陀仏碑 大井宿高札場
馬頭観音の先に上宿石仏群がある。
庚申塔、五輪塔、南無観世音菩薩、南無阿弥陀仏碑、痰切地蔵尊、高僧徳本の南無阿弥陀仏碑などである。
上宿石仏群の先に山本用水が流れている。
恵那市の東野西部及び大井町学頭、上宿、大井長島では水不足で大変困っていたため江戸時代に5,400mほどの長さの用水路造り、安永元年(1772)に東野の山本から阿木川の水を灌漑用水として引いたものである。
明知鉄道線のガードをくぐると左手に大きな南無阿弥陀仏碑が建っている。
この碑は、武蔵国(現埼玉県)の新井長左衛門が建てたものである。伊勢参りの帰りに母が病にかかり、1か月余りの闘病の末に亡くなったため、その供養に建立したものである。
五妙坂の途中に大井宿高札場跡があり、8枚の高札が復元されている。

延寿院 大井宿本陣跡 内城稲荷 中山道大井宿碑
横町川に架かる上横橋の手前右手の坂道の上に小御堂があり、境内には常夜燈、南無妙法蓮華経題目碑がある。上横橋を渡ると大井宿に入り、枡形の角に延寿院がある。
延寿院は天文年間(1532~55)に創建され、本尊 「薬師如来像」 は行基の作と云われている。
延寿院の正面を直進すると左手に大井宿本陣跡がある。
大井宿本陣は、昭和22年に母屋部分は火災で焼失してしまったが、表門周辺は焼け残り、安土桃山様式を伝えている。屋根は反りをもたせた瓦葺で、破風板や小屋組みの細工、彫刻も丁寧に仕上げられている。
門の傍らに立つ松は、樹齢300年を越すと思われる老松である。。
本陣跡を枡形に右折して行くのが中山道であるが、左の塀沿いに進んでいくと本陣跡の裏手に内城稲荷と和宮が東下の際に飲んだという井戸の和宮泉がある。 大井宿本陣跡の向かい側に上本町自治会館があり、その前に中山道大井宿碑が建っている。

ひし屋資料館 宿役人の家 大井宿下問屋場跡 明治天皇行在所跡
ひし屋資料館は、古山家住宅を改修、復元して平成12年9月から公開している。
大井宿の有力な商家であった 「ひし屋」 古山家は、江戸時代中期以降、大井村の庄屋を務めた家柄で、明治以降は郵便取扱役、恵那郡役所掛屋(銀行)に任命され、養蚕研究や俳諧文化の推進にも力を尽くしている。
ひし屋資料館の先右手に宿役人の林家がある。
林家は文化2年(1805年)に本陣家より分家し以来、明治に至るまでの60余年間、代々大井宿役人の問屋役を務め、名字帯刀を許された家柄である。
宿役人の林家の隣に下問屋場跡がある。
ここは脇本陣の高木家跡でもある。
大井宿問屋場は本町上(上問屋)とここ(下問屋)の二か所にあった。
問屋場は人や荷物の継立事務を行うところで、宿役人(問屋・年寄)や下役人(人足指・馬指・書役など)が月を半分にして、上問屋と下問屋に交代して勤務していた。
下問屋場跡の先右手には明治天皇大井行在所碑と明治天皇行在所舊址碑を両側に建てた岩井家がある。
明治13年(1880)の巡行に際し、旅籠兼商家を営む伊藤家(現岩井家)に宿泊し、使用された部屋、風呂場、便所は当時のまま残っているという。

旅館いち川 大井村庄屋古谷家 市神神社 白木番所跡
旅館いち川の手前を右に曲がる枡形道路である。
旅館いち川の壁には、旅籠と木賃宿の説明があり、明治初年に撮影された旅籠角屋が写っている。
旅館いち川の直ぐ先左手に長い塀に囲まれた大井村庄屋古野家が建っている。
この家は江戸時代には商業を営み、天保元年(1830)から20年間ほど庄屋を勤めた家柄である。街道に面した右側に表門があり、北側屋根には卯建が建っている。
街道の突当りに市神神社があり、ここで道は左に曲がる枡形になっている。
市神神社の創建は室町時代中期、大井町字市場田に霊石を安置し八大龍王の分霊を勧請したのが始まりと伝えられている。
拝殿の右には名前は分からないが境内社の社があり、左には赤い鳥居の稲荷社がある。
市村神社の先の右手路地口に白木番所跡がある。この路地の小路を番所みちといい、奥に尾張藩の白木番所があった。
この番所には尾張藩の役人が常駐して、木曽の材木流しや木材製品の監視のほか、領内の山林の見回・各村々の木材の伐採申請の検分などを行っていた。

枡形前の霊場 大井橋 恵那駅
街道を進むと左に曲がる枡形道となる。
この右手角の小沢家前に恵那峡弘法大師八十八所霊場があり、弘法大師像が安置されている。
赤いポストの左手には、福崎日精の造ったライオン像がある。大井ダムの犠牲者供養のために白衣観音を造るために来られた仏師の作である。
枡形道を進んでいくと阿木川に突き当たる。
阿木川に架かる大井橋で跨いでゆくが、この大井橋には、広重の「木曽街道六十九次」の画がはめ込まれている。
雨がいよいよ強くなり薄暗くなってきたため、今回はここで終了とする。

平成27年5月3日(日) ☀  恵那~深萱  8.4㎞ (深萱~武並3.8㎞)
昨年11月から中断していた中山道の再開である。東京からの行程を考えると今日は恵那(大井宿)から深萱までの山道を歩くだけで夕刻になってしまう。深萱は山の中で最寄り駅の武並駅までは3.8㎞を下ることになる。

恵那駅 津島神社 大井宿の行燈 中野村庄屋の家
昨年11月は大雨の中の恵那駅前であった、今日は快晴で気持ちも晴れやかである。
今回はいつも峠道を一緒に歩いている友人と二人での旅である。中央通り商店街には安藤広重の69次が埋め込まれた標柱などがある。
中央商店街通りには小さな鳥居の津島神社がある。
大正7年(1918)に大井町中心部に疫病が流行し神にすがるのみであったという。当時、町内各戸より津島神社総本社にお祓祈祷をなし、御分霊を仰ぎ駅前高台の地に祀ったのが始まりのようである。
旧街道に入ると大井宿の道標を兼ねた行燈が建っている。
街道脇には大正から続く趣のある和菓子店菊水堂があり、近くには大正から昭和の大井町の写真が掲載された案内が建っている。
本町通りに入ると左手に屋号を本酒屋と云った中野村庄屋の家が建っている。
文久元年(1861)和宮降嫁の際、岩村藩代官より強制的に賄役(まかないやく)を強要された野井村百姓代熊崎新三郎は、和宮通行後、庄屋宅に滞在していた代官吉田泰蔵に斬りつけた。
これは後に事件となったが、代官による強制的な賦役が慣例となることを恐れて岩村藩相手に裁判に訴えたところ、代官は罷免され、野井村に金二十五両が下付されたと云う。

中野観音堂 長島橋 長栄寺 中野庚申堂
永田川の手前左手に中野観音堂がある。
御堂の左手には寛政8年(1796)の常夜燈があり、堂内にはたくさんの観音像が安置されている。
中野観音堂の前を流れる永田川に架かる長島橋(おさしまはし)を渡って行く。 長島橋を渡って中町交差点を左に進むのが街道であるが、直進して中央本線を越えると右手に曹洞宗の長栄寺がある。
山門は龍宮門と言われる珍しいもので、脇に六地蔵が並び、境内には弁財天、役行者、十三重塔、仏足石などがある。
長栄寺から街道に戻る途中右手の段上に中野庚申堂の幟が見え、坂道を上がって行くとお堂が連なったような中野庚申堂がある。
御堂には三面の青面金剛像、不動明王の掛け軸、弘法大師の掛け軸などがある。

豊玉稲荷神社 妙浄寺 上町観音堂 西行硯水公園
街道に戻って坂の上交差点に来ると交差点の左段上に豊玉稲荷神社がある。
石鳥居の先には奉納のされた赤い鳥居が石段を覆い、石段の途中には忠魂碑や慰霊塔があり、拝殿の中に本殿、境内社がある。
豊玉稲荷神社の下方に日蓮宗の妙浄寺が見え、恵那市内も一望できる。
境内には加藤清正公の南無妙法蓮華経題目碑などの石像がある。
街道を進むと左手に上町観音堂の標柱が有り、突当りに観音堂がある。
御堂内には、確認できる範囲で薬師如来、聖観音、如意輪観音が安置されている。
上町観音堂の先の街道左手に西行硯水公園がある。西行は文治2年(1186)に二度目の奥州の旅に伊勢を出発し、鎌倉で源頼朝に会い、平泉で一年滞在したのち、木曽路を経てこの地を訪れ三年間暮らしたという。西行はこんこんと湧き出るこの泉の水を汲んで墨をすったと言われている。近くには西行の句碑、奚花坊の句碑がある。

神明神社 西行塚道標 道標 十三峠口
西行硯水公園の先左手に神明神社がある。
鳥居の前には天保14年(1843)の常夜燈が建ち、参道は田圃の中を進み、二の鳥居の脇に手水舎がある。
石段を上ると拝殿があり、奥に本殿と末社が並んでいる。夫婦杉の先にも南からの入口がある。
街道右手に西行塚への道標が建っており、この一角は西行公園となっていて近くに大井宿の解説などがある。 西行公園から中央本線の踏切を渡ると直ぐ左手に旧街道が山に向かって延びており、入口に西行塚350mの道標が建っている。 街道を進んで田違川に架かる西行橋を渡り、中央自動車の高架下をくぐって進むと右手に十三峠の道標が建っている。
石畳の坂道に踏み込むと直ぐ右手に寛永13年(1636)の馬頭観音がある。

西行塚入口 石畳 槙ヶ根一里塚 桜百選の園碑
坂道を上って行くと右手に西行塚への入口があり、階段脇に西国四国巡礼供養塔がある。
登り詰めると丘の上には五輪塔が建ち、近くに北原白秋に師事した町野浦二良歌碑、西行歌碑、松尾芭蕉句碑があり、東屋からは恵那山を望むことが出来る。
西行塚から街道に戻ると林の中の石畳道が続いている。 石畳の道から土道になった西行坂を登り詰めると槙ヶ根一里塚がある。
ここは江戸日本橋から数えて88里目の一里塚である。塚は両塚とも残っているが、塚上にあった榎は両塚とも残っていない。塚の近くには東屋があり、駐車場の脇にはトイレもある。
一里塚のある一帯は西行の森として整備されており、平成元年に恵那市制35周年を記念して寄贈された桜百種類が植樹されている。

茶屋槙本屋跡 槙ヶ根石仏群 旧道口 槙が根立場跡
土道の旧道を登り詰めると車道に突当り、ほぼ正面に茶屋槙本屋跡の標柱がある。この先左手には茶屋水戸屋跡の標柱がある。 車道を進むと左手に槙ヶ根石仏群の標柱があり、脇の道を入って行くと左手に太陽光発電パネルが一面に広がり、右手に南無観世音菩薩、南無妙法蓮華経題目碑、南無地蔵菩薩などが建っている。 車道を進んで右手のセントラル建設の建物脇から旧道が復活する。
建物脇には茶屋東国屋跡の標柱が建っており、その先に茶屋松本屋跡の標柱が有る。
茶屋松本屋跡の先に開けた場所が見えて来る。ここは槙が根立場跡で追分でもある。東へ西行坂を下って中野村を過ぎ、阿木川を渡れば大井宿であり、西へ約2里半で深萱立場や炭焼場の十三峠を越せば大湫宿である。ここには伊勢神宮遥拝所があり、伊勢までの旅費や時間の無い人は、ここで手を合わせ遥拝したという。
この立場跡には、井戸、かまど跡、炊事場跡、境界石などの遺構が残っている。

追分 緑のトンネル 馬頭観音 姫御殿登り口
槙が根立場跡の先に追分があり、解説と道標が建っている。
左は名古屋や伊勢方面へ行くことのできる 「下街道」 と呼ばれる道で、右は中山道の西方面への道である。
追分の先からは木々の緑のトンネルの中を進んで行く。 先に400mほど進むと右手に馬頭観音があり、近くに祝坂の標柱が建っている。 馬頭観音から程なく右手に姫御殿の登り口があり、丸太の階段を上がると姫御殿跡がある。
ここは祝峠といい、周囲の展望が良いので中山道を通る旅人にとっては、かっこうの休息地だったためお姫様行列の時などには仮御殿を建てて休息をすることが多くあったという。文久元年(1861)の皇女和宮の降嫁のときも檜の無節の柱や板と白綾の畳を敷いた御殿を建てて休息された。この近くには子持松という松かさの多く付く大木があったという。

首なし地蔵 乱れ坂 乱れ橋 道標
姫御殿跡から程なく左手段上に首なし地蔵がある。この地蔵尊は宝暦6年(1756)に地元(武並町美濃)の人たちが、旅人の道中安全を祈って建てられたものである。伝説では二人連れの中間が道中、地蔵前で昼寝をしていたが、一人が眼を覚ますと仲間の首がない。怒った中間が 「仲間が襲われたのに黙ってみているとは何事」 と地蔵の首を刀で斬り落としてしまったという。 首なし地蔵から先は急な下り坂が続き、右手には乱れ坂碑が建っている。
この坂はとても急なため、旅人の息が乱れたり、大名行列が乱れたりしたことから、この名が付いたと言われている。
乱れ坂を下りきると乱れ川に架かる乱れ橋を渡る。
ここに流れる乱れ川は、往時は石も流れる急流であり、飛脚たちが出資して宝暦年間(1751-63)に長さ7.2m、幅2.2mの土橋を架け、「乱れ橋」 または 「祝橋」 といい、荷物を積んだ馬(荷駄)1頭につき2文づつ銭を徴収する有料橋のときもあったという。
乱れ橋を渡って進むと四ツ谷の集落がある。集落のほぼ中央辺りに道標があり、根元に小さな「石州さま」 という標柱が建っている。
近くを歩く地元のご夫人に聞いてみると、右手の坂道を上って行くと石碑があると言うので上ってみると石碑というよりは墓石と思える石塔が建っていた。

うつ木原坂 竹折村高札場跡 旧道口 かくれ神坂
四ツ谷集会所の手前にうつ木原坂の標柱が建っている。ここは別名 「お継原坂」 とも言うようである。 四ツ谷集会所を過ぎると右手に道標があり、緩やかな坂道の左手に竹折村高札場跡がある。この辺りは街道左手に水田が広がっている。 竹折村高札場の先で舗装の車道から左に入る砂利道の旧道がある。
ここには久し振りに見る 「熊出没!入山注意」の看板がある。
旧道に入って間もなく 「かくれ神坂」 の標柱が建っている。この先には 「妻神」 と刻まれた石祠があり、近くには藤の花が満開である。

平六坂碑 びやいと茶屋跡 紅坂一里塚 紅坂の石畳
妻神の先で小さな国集橋を渡り、Y字路を右に進むと左手に平六坂碑がある。
砂利の平六坂を上って行くと右手に平六茶屋跡の標柱がある。
平六茶屋跡の先で開けた場所に出ると右手の水田の脇にびやいと茶屋跡がある。
びやいととは 「枇杷湯糖」 と書き、枇杷の葉に薬草を加えて煎じたものをこの茶屋で売っていた。
左手の水田が無くなる辺りの先にこんもりとした紅坂一里塚が見えて来る。
ここは江戸日本橋から数えて89里目の一里塚で両塚とも残っている。
紅坂一里塚を過ぎると紅坂の石畳が始まる。
街道脇には 「うばヶ出茶屋跡」 があり、石畳の中には400年も前から 「ぼたん岩」 と呼ばれる名物岩がある。これはオニオンクラックと言われ、玉ねぎ状に剥離している岩である。

集落入口 稲荷神社 神明神社 藤村高札場跡
うばが茶屋跡を過ぎると木製欄干のある小さな橋に出る。この先は深萱の集落が始まり、黒すくも坂の下りになる。 黒すくも坂を下ると左手に稲荷神社がある。
ここには佐倉宗五郎大明神、稲荷神社、二十二夜塔が祀られており、手前に四国西国巡拝供養塔がある。稲荷神社の向かいには三社灯籠が建っている。
元禄の頃岩村藩で農民騒動が起きそうになったとき、竹折村庄屋田中与一郎が将軍に直訴して農民を救ったがその罪で斬首となった。その行動が佐倉藩の佐倉宗五郎に似ていることから祀られているという。
三社灯籠から右手に入って行くと神明神社の鳥居がある。地図上では御岳神社となっている。
鳥居の先の石段前には14基の句碑が並んでおり、向かい側には霊神碑が建っている。
神明神社から街道に戻って藤川に架かる藤大橋を渡ると右手段上に藤村の高札場跡がある。
高札場の隣には庚申塔、馬頭観音、四十八夜念佛供養塔が建っている。

深萱立場本陣跡 山形屋 深萱立場絵図 西坂
藤村の高札場の先に深萱立場の解説が建っている。
深萱立場は大井宿と大湫宿の中間にあり、茶屋や立場本陣、馬茶屋など10数軒の人家があって旅人にお茶や餅、栗おこわなどを食べさせていた。立場本陣は大名などの身分の高い人の休憩所で立派な建物であった。
深萱立場解説から斜め右に入って行くと山形屋の標柱が有り、道標を兼ねている。 街道を進むと右手に大きな深萱立場絵図がある。立場本陣は和宮をはじめ多くの姫君や大名行列の殿様も御小休されたという。
街道はこの先のY字路を右に入って行く。
Y字路を右に進んで行くと急坂の西坂がある。
坂の途中には西坂碑があり、坂を上がったところに 「ちんちん石」 と書かれた標柱があるが、近くを探してもそれらしき石は見つからなかった。

山道入口 舗装路横断 みつじ坂 中山道碑
西坂の先の民家の前で舗装路は途切れ、この先は土の山道になる。踏み込むと左手に馬茶屋跡の標柱が建っている。 馬茶屋の先で石畳の道を進むと左手に井戸があり、道標の建つ場所で舗装路を横断して向かいの石段を上って行く。 石段を上って先に進むとみつじ坂であり、直ぐにみちじろ峠に上り詰める。
みちじろ峠には婆が茶屋を開いていたことに由来する 「ばばが茶屋跡」 の標柱と茶屋坂碑が建っている。
茶屋坂を下って行くと右からくる車道に突当り、左に下ると右手に大きな中山道碑が建っている。
今日はここまでとして最寄り駅の武並駅まで出ることにしたが、途中舗装路を横断したところまで戻り、舗装路をひたすら下り3.8㎞歩くこととなった。

武並神社 長福寺 大井橋
中山道碑からひたすら下って中央自動車道のガード下をくぐって武並駅に向かう途中に武並神社がある。
岩村城主の命により、建武2年(1335)の創建と言われ、境内には雨乞い石、境内社の弁財天、白山神社、神明神社及び天神神社が祀られている。
武並神社の隣に長福寺がある。
境内には馬頭観音が5基安置されている。

長福寺から12~3分で武並駅である。
武並駅前には宿泊施設が無いため、恵那駅に出て駅前のビジネスホテルに宿泊した。

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