峠の集落
 この坂を上り詰めると、峠の集落がある。
 宝暦12年(1762)に集落の殆どを焼失する大火があった後、火災が無いことから、この集落の家屋は江戸中期以降の姿を今に留めている。
 江戸時代、この集落の人々は、民間の荷物を運搬する 「牛方」 を稼業としており、俗に 「岡船」 と呼ばれ、美濃の今渡から遠くは長野の善光寺辺りまで荷物を運んだ。安政3年(1858)8月の、この牛方と中津川の問屋の間に起きたストライキは、藤村の 「夜明け前」 にも登場する。

水車塚の碑
 山家にありて 水にうもれたる 蜂谷の家族四人の記念に
 明治37年(1904)7月、水害のためにここにあった家屋は一瞬にして押し流され、一家四人が惨死した。
 難を逃れた家族の一人、蜂谷義一は、たまたま藤村と親交があったことから、後年に供養のため藤村に碑文を依頼して建てたものがこの 「水車塚」 である。碑の裏には、「信濃の国」 の作詞者である浅井冽の撰文が刻まれている。

名物栗こわめし
 古くから峠の名物は栗こわめしであった。江戸期の戯作者十返舎一九は文政2年(1819)に木曽路を旅して 「岐蘇街道膝栗毛」 の馬籠宿のくだりで、このような狂歌を詠んでいる。
 渋皮の むけし女は見えねども 栗のこわめし ここの名物

水車小屋脇にある説明板

右志ん道  左旧道

中山道水車塚の道標

山家にありて 水にうもれたる 蜂谷の家族四人の記念に

水車塚碑

石畳入口の中山道道標

石畳途中の男女双体道祖神

川を越えたところにある水車小屋

梨子ノ木坂標柱と熊除けの鐘