⑬ 土衛(ひじもり)歌碑
  朝日の岡の公園を拓きたる時に 七十五叟 土衛
  真木たてる あら山中を 香細(かぐわ)しき 花の園生(そのう)と なしたるや たれ
 歌詞は、公園が開設された明治20年(1887)に旭ヶ丘と名付けて読んだもので、土衛は雅号、名を市岡長右衛門殷政(しげまさ)といい、のち正蔵と改め、中津川宿本陣最後の主、また平田門人で幕末から明治初期に渉り郷土の長老として多くの業績を残し、明治21年(1888)8月24日、76歳で死去。小説 「夜明け前} には浅見景蔵の名で登場。なお勤王の女傑松尾たせ子は従妹になります。
 ちなみに、前田青邨(せいそん)画伯は、殷政、秀矩の肖像画に 「郷土の先覚」 と題して、昭和22年の院展に出品されました。

⑨ はだか武兵
 「はだかぶひょう」 このほか碑陰はなく、本名も生死も不明の伝説の人。武兵衛とも呼ばれ、中山道で篭かきを業とし常にふんどし一本のはだか姿のまま、中津川宿を根城にして美濃路と木曽路を往来して暮らしていました。
 言い伝えでは天保年間に木曽御嶽山で、ある霊神から悪病退散の秘法を特に授かり、その後、西国の大名のお姫様が道中で不明の高熱病に冒され、数日間宿に伏していたのを一晩で治したことが評判になり、頼まれては近郷近在で悪病を追い払っていたようであります。彼の死後、尊敬する人たちが碑に疫病除けの神として祭り込み、街道筋に建立し、のち現在地に移されましたが、今でも祈願者は絶えません。

樹霊之碑

⑨ はだか武兵説明

⑨ はだか武兵

参道石段

常夜燈

天満宮

如意輪観音、地蔵菩薩、聖徳太子、地蔵菩薩

⑩ 天神碑
 間秀矩が茶屋坂、淀川、新町の天満宮氏子有志に図り、慶応3年(1867)に儒学者菅原為栄に依頼、維新の大綱が定まった翌年に除幕しました。
 江戸時代に起こった各論に対して 「純粋な日本独自の国学論が必要、それは我国の奥深くにあるのではないか・・・」 と更に学究するよう示唆しております。
 作者為栄は、菅原道真の支流であり、公郷で明治政府になり、子爵に列しております。園内にある秀矩碑建立のときには、五條に姓を改め、
  あさひのおか この石文に曇なき こころのあとを いまもみるかな
と、長歌を手向けております。

⑬ 土衛歌碑

⑬ 土衛歌碑説明

⑩ 天神碑

⑩ 天神碑説明