岡田将監善同は慶長18年(1613)より寛永8年(1631)まで二代目美濃代官でありました。
 善同は織田信長に仕え、加藤清正に従って加藤姓を名乗ったこともありましたが、関ヶ原戦では東軍(徳川方)に属しました。慶長6年(1601)6月采地5000石を与えられ、可児郡姫村に住み、慶長10年から初代美濃代官であった大久保長安の配下であったが、長安の死去により二代目美濃代官になりました。
 当時大井村には、名古屋築城の際の 「材木番所」 があり、木曽材木持出奉行として当地方に駐在していたようです。
 善同の子義政も寛永8年(1631)父の死後、美濃代官を勤め、正保2年(1645)には幕府の命により、美濃国図を調整して提出しました。恵那郡史には、坂本村千旦林に岡田将監の墓と伝えるものが間地三ツ屋地内にあって、旧中山道の北の一小丘で五輪塔の石塔(実際は宝篋印塔)が建っている。
 これを 「ショウグン塚」 と呼んでいるが、 「将監塚」 の訛伝であろうと記されているし、併せて、この付近には将監乗馬の塚と云うのがあり、地名を岡田ということも記されています。
 (坂本地区文化遺産保存会)

将監塚説明

将監塚