右の歌碑は、島崎藤村の父正樹翁<天保2年(1831)~明治19年(1886)>の自筆の長歌と反歌を刻したものです。長歌・反歌とも、翁が生まれた故郷の木曽谷の神坂(みさか)をほめたたえたものです。
 みすず刈る信濃の国の真木(まき)立つ木曽谷の外名に負へる神坂の邑は山並みの宜しき里川の瀬の清亮(さや)けき里ぞ春去れば霞たなびき開(さ)く花に鳥は数鳴き秋立てば霧たちわたる往く水を月こそ照らせ四つの時環(めぐ)り来へつつ山河の眺めは断えず尽きせざるらし
恵那の山高く聳えて渓川(たにがわ)の清く流るる里よろしも  島崎正樹

 「宿場あるき」 という旅では、史蹟や資料あさりなど何一つしなくとも、宿場町とその街道筋を歩くだけで何かが心に響いてくるものである。
 馬籠は坂の町だから、西から来るとずっと上り坂になり、その坂の町を振り返り、振り返りしてここ陣馬まで来た。
 「陣馬」 とは、小牧・長久手の合戦<天正12年(1584)>尾張の小牧と長久手で行われた徳川家康と豊臣秀吉との合戦の時、徳川勢の菅沼・保科・諏訪の三武将が馬籠城を攻めるために.、ここに陣を敷いたのでこの名が付いたと言われる。
 馬籠城は、馬籠宿の南西の入口荒町の中程左手の小高い所にあった。
 木曽義昌が島崎重通(島崎藤村の祖)に守らせたが、徳川三武将に攻められ妻籠城に逃れた。その後、島崎重通が馬籠を開いたと言われる。
 ここ陣馬から、眼下に一望できる馬籠宿は、世界遺産に匹敵できるような、実に素晴らしい景色だ。特に夕日はたまらない程美しい。かつてこの町でどのくらいの人が体を休めて、次の宿場町へと旅立って行ったであろう。
 住みたくなるような馬籠宿だ。

男女双体道祖神

馬籠上陣馬跡説明

島崎藤村ニーチェ言葉碑

 古代、東国、西国と呼ばれた時代以来、木曽を含むこの地は美濃の国(岐阜県)でありましたが、信濃の国(長野県)より京へ上る道として利用が増すにつれて信濃の国の地となり約400年を経過して、昭和の合併昭和33年(1958)10月14日、平成の合併平成17年(2005)2月13日により目の前の恵那山と同じく足元のこの地も岐阜県中津川市馬籠となりました。

 「あの山の向こうが中津川だよ美濃は好い国だねぇー」 島崎藤村-夜明け前より

越県合併記念碑

島崎藤村の父正樹の漢文歌碑

恵那山(2192m)

馬籠上陣馬跡の東屋