舞殿

 千駄林(千旦林)の地は、神坂峠を眼前に望む山麓に位し岐蘇山道(中山道)要衝の地にして、人馬最も多く配備せる駅存在し繁盛す。往古より峠を越える旅人は恵那神坂の山霊を遥拝祭祀を行い、道中無事を祈願せし地なりとす。坂本神社の名号之に由来す。
 創建は大宝2年(702)にして、延長5年(927)醍醐天皇の勅命により撰進せる延喜式に美濃国恵那郡三座中筆頭に坂本神社とあるは即ち当社なり。
 祭神大山祇神は、天照大神の胞衣を恵那山に納められしと伝ふ胞山(恵那山)の名称亦之に起源す。
 八幡宮の呼称は、天平9年(737)続日本紀に初見され、千駄林の住人星野久左衛門尉光重により九州豊前宇佐八幡宮より勧請奉祀す。
 平安期以降、仏教の国教化に伴い本地垂迹思想(八幡神の本姿は阿弥陀如来)により神仏混淆盛んとなり、仏僧が神事を支配して明治に至る。即ち観応3年(1352)檀那宗信僧保沢木彫り神像13体(文化財指定)製作奉納せる中に僧形2体を認むる外、別当に大智山願成寺之に当たり、寛永・享保の年間大龍院権大僧都快春なる住職、社僧として神社を支配す。
 明治元年神仏分離令発布され、明治6年廃寺となる。梵鐘は宮寺たりし嶺松山大林寺に納む。その銘寛文6年(1666)丙午10月坂本神社八幡宮とあり。
 天正2年(1574)4月、武田勝頼軍の東濃侵攻の際戦火に因り、本殿一宇を残し全て灰塵に帰し、社宝、神領、没収され、社頭荒廃その極に達せり。その後徳川期に入り千旦林村領主山村甚兵衛候等の計らいにより、村民相協力し改修復元、社威一段と昂揚、今日に至る。

坂本神社全景

坂本神社八幡宮由緒

弁天社

拝殿門

二の鳥居前の御社宮祠、秋葉社

坂本神社本殿

参道右手には恵那山が見える

参道脇の常夜燈

参集殿、宜會殿

吽形の狛犬

阿形の狛犬

手水舎