新茶屋
 この辺りの地名を 「新茶屋」 という。江戸の頃、宿場と宿場の間にある茶屋を 「立場茶屋」 といった。かつての茶屋は、ここから岐阜県側に数百メートルほど入った場所にあったが、江戸の終わりころに現在地に移った。そのためここを新茶屋と呼ぶようになった。わらび餅がこの茶屋の名物だった。

「是より北 木曽路」 の碑
 ここは長野県と岐阜県の境、木曽路の入口にもあたる。昭和15年(1940)7月、当時68歳だった藤村が、地元の要請によって揮毫したものである。藤村は60歳ころから自らを 「老人」 と記すようになった。
 この碑は、藤村記念館の落成10周年を記念して、昭和32年(1957)11月に藤村記念館建設の実行母体である 「ふるさと友の会」 によって建立された。

芭蕉の句碑
 松尾芭蕉が門人の越智越人を伴って、信州姥捨山の月見と善光寺参りを兼ねて中山道を旅したのは貞享5年(1688)のことであった。その旅を 「更科紀行」 として世に出した。
   送られつ送りつ果は木曽の穐
 この碑が建てられたのは天保13年(1842)のことで、この頃、岐阜県の美濃地方には芭蕉を祖とする 「美濃派」 の俳人が多くいて、これらの人々によって芭蕉の供養として建てられたものである。

一里塚
 街道の両側に 「一里塚」 が昔の姿で残っている。江戸幕府は街道整備の一環として一里を36町と定めて、一里ごとに道の両側に土を盛って塚を築き、塚の上には榎または松を植えて、旅の行程や駄賃・運賃の目安とした。現在中山道では殆どが失われており貴重な遺構である。

庭園の池の畔に建つ芭蕉句碑

民宿新茶屋

説明板

「是より北 木曽路」 の碑

芭蕉句碑

街道脇に建つ2基の常夜燈

送られつ 送りつ果ては 木曽の穐