かぶと観音は、平安末期の源氏の武将木曾義仲が、以仁王や源頼政の平家打倒の呼び掛けに応じ、治承4年(1180)に挙兵して北陸道を京都に向う際、木曽谷の南の押さえとして妻籠城を築き、その鬼門に当たる神戸に祠を建て、義仲の兜の八幡座の観音像を祀ったものが起こりと伝えられています。境内には、義仲が弓を引くのに邪魔になるので、巴御前が袖を振って倒した 「袖振りの松」 や、義仲が腰掛けたという 「腰掛石」 が.残されています。
 そうした伝承故か、かぶと観音は古くから、木曽にゆかりの武将たちに手厚く保護され、同17年(1589)には山村良候が大檀那となって堂舎が造立されました。江戸時代中期の宝暦7年(1757)に書かれた 「吉蘇志略」 には 「俗に神戸観音と日ふ、乃ち馬頭像也、村民香花を供ふ」 と記されているように一般庶民からも尊崇を受け、堂内には正保4年(1647)の絵馬をはじめ、俳句額など多数が奉納されています。幕末の弘化4年(1847)の 「観音堂勧化帳」 によれば、堂舎の改修に際してその寄進の範囲は、木曽谷中はいうに及ばず、木曽家旧臣が領する東美濃の各村にまで及んでおり、その信仰がいかに広かったかが分かります。
 観音堂は、間口2間半、奥行4間、入母屋造りの建物で、西側面には2間四方の庵室が設けられ、ほとんどの時期、三留野等覚寺と関わりが深い庵主がいました。堂舎の建築年代は内陣・外陣境の虹梁や絵様蟇股の様式から、貞享・元禄期(1684-1703)と推定され、中の厨子も正徳5年(1715)頃のものと思われます。また格天井の絵は、上松町東野の阿弥陀堂と同じく、山村代官お抱え絵師池井裕川が描いたものと考えられます。
 このようにまぶと観音は、木曾義仲伝説の重要な地であり、堂舎も木曽の中では古く貴重なものなので、南木曽町教育委員会では堂舎と境内を含めて平成6年10月1日町史跡に指定し、平成9年度には半解体保存修理工事を実施しました。

金箔の厨子<正徳5年(1715)>に納まった観音像

かぶと観音説明

観音堂

境内の観音像

石壇施主念仏講中の碑

左から馬頭観音、如意輪観音、聖観音、馬頭観音大士、地蔵菩薩