① 元矩碑
 間半兵衛元矩が詠じた歌詞を取り入れ、七代間鷲郎が親族一同に図り父の3年祭に当たる明治27年(1894)8月26日に建てた顕彰碑であります。山半(やまはん)の六代目を継いだ元矩は、中津川の戸長を8年、初代町長を2年、約10年にわたり町村の行政を担い、当公園を開いた中の一人であり、園内に父秀矩碑、土衛(ひじもり)碑を建てたのち、49歳の若さで世を去りました。
 扁額は、天神碑と同じ中納言菅原為栄の書であり、撰文を認めたのは熱田神宮の大宮司・角田忠行であります。忠行は小説 「夜明け前」 に暮田正香の名で登場し、その行動を島崎藤村が詳しく伝えております。

⑫ 秀矩歌碑説明

石像群

⑫ 秀矩歌碑
  くにのため 死におくれとる 老の身は 書(ふみ)の林に すてむと思う   秀矩
 作者の5代間半兵衛秀矩は、酒造業山半(やまはん)十八屋の主、22歳で家を継ぎ、中津川宿の問屋と年寄役とを兼務し、幕末平田門人になり、郷土における尊王思想家の一人として東西に活躍、明治維新政府に召し出され神祇官に就く。明治4年(1871)に病を得て帰宅、養生の効なく同9年1月23日に55歳で死去、同18年生前の功により神祇権少教正の職位が追贈されたことを6代元矩が記念し、13年祭に当たる同22年祥月を繰り下げ、実りの秋9月23日この碑を建てました。
 小説 「夜明け前」 には、秀矩は蜂谷香藏、また姉婿靖庵は宮川寛斉の名で描出されています。、

⑫ 秀矩歌碑

⑦ 芭蕉句碑(俗称月塚)
  三井寺の門 敲(たたか)はや けふの月   (碑陰左側)指月亭糸甘(しかん)拝
 松尾芭蕉の句。元禄4年(1691)8月15日に近江の国義仲寺の無明庵にて、仲秋の名月を吟じた句であり、糸甘はもと上金台地にあった茶店 「指月」 にかかわりある女性らしく
 その亭内に建てたものであろうと思われる。これも大津を思い浮かべて建てられた、すみれ塚、三井寺観音と一連のもので、馬風句碑を建てた菅井馬良が園内の淋しさを補うために、明治15年 「指月」 への登り道の現在地へ移建したものです。

⑦ 芭蕉句碑

⑥ 石仏三井寺観音

⑥ 石仏三井寺観音説明

④ 蝶哉(ちょうさい)句碑
   83叟 蝶哉 旧作
  無為にして 祖田を守る 案山子かな
 昭和甲午(29年)4月建立。この句は昭和21年(1946)農地改革直後の作で生前地主の心境を自ら碑に託したもの。蝶哉は、明治4年(1871)市内中村の素封家に生まれ、名を成木長治郎といい、俳句は初め美濃派であったが、菅井馬良に次いで正岡子規の日本派ホトトギスに参加。子規亡きあと高浜虚子、吉田冬葉らと交わり、傍ら青年時代、京都で学んだ漢詩、印刻、日本画にも打ち込み秀作を残しております。又明治・大正にかけては、各種の議員を勤め、晩年中風症に罹り病床中も句作にふけり、昭和31年(1956)5月4日満84歳で世を去りました。

④ 蝶哉(ちょうさい)句碑説明

④ 蝶哉句碑

③ 芭蕉句碑(俗称すみれ塚)
  山路来て 何や羅遊かし 寿み連草  はせを
 松尾芭蕉の句、貞享2年(1685)の3月27日ごろの吟、前書きに 「京都より大津に出る道山路をこえて」 と 「甲子吟行、別名野ざらし紀行」 にある句で、碑は大津出身の菅井家先祖が、ここから見た宿場の佇まいが近似しているところから、常にその情景を孫子に語り伝えてきました。3代菅井嘉兵衛高伯(たかとき)のとき、郷愁にふさわしいこの秀句を選び、安永2年(1772)芭蕉の80回忌に祖父の慰霊を兼ね、中山道に面して建てられましたが、30年前に保護するため、道筋からはずし、昭和53年(1978)3月、昔の面影を残すため、この場所に移しました。

③ 芭蕉句碑

② 経王書写塔

② 経王書写塔説明

② 経王書写塔
 この台石の下には、法華経の経文を一字づつ約3㎝の丸い小石360個に墨で書いたものが納めてあります。
 江戸時代には文盲が多く、この塔を拝むと読経したのと同じ功徳があるとされ、それらの人々をはじめ、中山道を旅した人の安全を祈願して、愛知県稲武町の古橋源六郎義伯(よしあき)に嫁いだ三代菅井嘉兵衛高伯(たかあき)の長女伊志が夫の死別後、盲目になり、髪を剃り落とし仏門に入り、一字一石心を込めて法華経を書上げ、実家所有の中山道沿いの土地に安永8年(1779)に建立したものであります。銘文は手賀野松源寺の8世菴礼和尚が認めたものであります。

青面金剛の庚申塔

⑪ 宝暦の御神灯

⑤ 馬風句碑

➄ 馬風句碑説明

① 元矩碑

① 元矩碑説明

⑪ 宝暦の御神灯
  (正面) 宝暦3癸酉年(1753)  (側) 6月24日
 今は火袋がなく、入母屋風の屋根に棹石と台座が無惨な姿で残っており、その台座には寄進者市岡長右衛門をはじめ苗字を許された本町、横町の人の名が連刻されております。もちろん天満宮に奉納したものでありますが、もともとこの社は、寛文4年(1664)中山道の道路改修、枡形新設などの工事の折、横町の天満屋敷と呼ばれているところから連座したもので、それより以前に創建されたことは確かであります。境内には元文3年(1736)に横町にいた大屋氏が寄進した灯籠もあり、これら残存11基の灯籠から、はじめは宿場全域で奉仕しており、のち文化の頃より四ツ目川を境に氏子が別れたことが分かります。

⑪ 宝暦の御神灯説明

⑦ 芭蕉句碑(俗称月塚)説明

⑥ 石仏三井寺観音
 この変哲もない石仏は、むかしから土地の人は俗に歯観音といって虫歯の痛みを治す仏と伝えられ、今でも参拝者がいるようです。それはおそらく容姿から想像した迷信であろうと思われます。この姿は滋賀県大津市の天台宗寺門派総本山円城寺にある観音堂の本尊如意輪観世音菩薩の座像を菅井家の先祖が、ふる里をしのぶよすがとして文化年間(1804~)石に刻ませたもので、背を大津に向け遥拝できるように安置してあります。
 ちなみに、三井寺は別名圓城寺附近の地名が 「三井」 と呼ばれていることから、広く通り名になったものと云われております。

➄ 馬風句碑
  菊折て すててまた折る 山路かな
 馬風は、美濃以哉派中津川の四世宗匠の俳名で、旅籠田丸屋10代目の主・名を肥田九郎兵衛通光(みちてる)といい、中津川宿最後の庄屋を勤めた傍ら俳諧をよくし、門人も多く、自らは平田門人になり、市岡段政(しげまさ)門秀矩らとともに水戸浪士横田元綱の首埋葬および東山道軍の先導隊にも加わり、明治13年(1880)67歳で死去。雅宮道光大人とおくり名され、その3年祭に当たる明治15年(1882)5月29日に馬風の三男菅井守之助馬良こと菅井蠖(かく)ら親族門人一同によって、この句碑が建てられました。
  なお馬風は 「中津川にその人ありと知られた小野三郎兵衛・・・」 の名で小説 「夜明け前」 に登場しております。