妻籠城は、いつ誰によって築かれたか明らかでない。伝承では木曽家村が室町時代に築いたと言われているが、戦国時代に木曽氏の南の押さえとして、木曽義昌によって整備されたものと思われる。
 妻籠城は、天正12年(1584)の小牧・長久手の戦いの折、ここも戦場となり、木曽義昌の家臣山村甚兵衛良勝(たかかつ)が、家康配下の菅沼、諏訪、保科の率いる伊那、諏訪の軍勢を退けている。また慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いの時も、妻籠城に軍勢が入っている。
 妻籠城は、典型的な山城で、木曽川と蘭川の合流する断崖上に位置し、いくつかの平地、空堀、帯曲輪、さらには南木曽岳へのびる妻の神土塁という土塁をも備えており、江戸時代の古絵図によると規模の大きな構えであったことが知れる。
 現在でも、いわゆる主郭と言われている所は整備され公園になっているが、帯曲輪や空堀などはまだ原形を留めている。

妻籠宿を望む

木曽谷恩賜金由来之碑

妻籠城説明

御嶽山大権現

八海山神社

林君記念乃碑

土橋

帯曲輪

堀切

本丸の周囲にめぐらした防御陣地

1600年代は木橋、それを1900年時に土橋に変えた。

敵から城を守るための溝