「岐蘇路記」 宝永6年(1709)貝原益見著
 落合(美濃国恵那郡是より以下美濃)より中津川へ壱里
 落合の民家90軒ばかり、これより西に猶(なお)、坂所々あれども、既に深山の中を出て、嶮難なくして心やすくなる。
 木曽路を出てここに出れば、先ず我家に帰り着きたる心地する。・・・・・・・
 落合の南なる大山を横長嶽と云う茂山也。苗木の城北にみゆる小高き山の上にあり、木曽川城南を流れ、飛騨川に流れる。
 今は遠山和泉守殿居城なり。領地一万五千附く。

「壬戌紀行」 享和2年(1802)太田南畝著
 美濃と信濃境は十曲峠にあり。石まじりの道をゆくゆく坂を上り、山中坂を三四町ばかりまがりてのぼれば、落合の駅舎は遥かなる下に見ゆ。此のあたりより道いよいよけわし、ここを十こく峠という。
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 猶、松林の中を上りゆくに、右は山左は谷なり、向かうに近く見ゆる山あり、す山と伝う。草木茂れど大きなる木なし。
 道に大なる石多し、又石まじりの坂をのぼる事長し。

 市内には約20㎞の中山道が東西に延び、江戸から数えて43番目の馬籠、44番目の落合、45番目の中津川の3つの宿場町がありました。中山道67宿の全てが整備されたのは17世紀の終わり頃とされていますが、市内の宿場はそれぞれ新たに造られた宿駅ではなく、江戸幕府が成立する以前に宿の形態(村落)がすでに整えられていました。

馬籠宿
 木曽11宿の最南端に位置する馬籠宿は、町並みが3町33間(約386m)ある、中山道内でも珍しい傾斜地に設置された宿場町です。度重なる火災により往時の建物はほとんど遺っていませんが、道筋や建物の建つ地割は当時と変わっていません。島崎藤村の生家である馬籠宿本陣は、その遺構や隠居所が岐阜県史跡に指定されています。

落合宿
 落合宿は信濃国から美濃国へ入る最初の宿場町で、宿の長さは3町35間(約390m)、宿内は下町、中町、上町、横町に分かれ、家数は約70戸ほどでした。
 新茶屋から落合の石畳を経た落合宿までの道筋(約2475m)と、新茶屋の一里塚、落合宿の常夜燈、代々井口家が戸主を務めた落合宿本陣は、国史跡 「中山道」 の構成要素となっています。

中津川宿
 中津川宿の町並みは10町7間(約1.1㎞)、戸数175戸、人数は980人でした。
 宿内は、町並みの中央を流れる四ツ目川をはさんで、大きく本陣、脇本陣、問屋がある本町と、商家が多い新町に分かれていました。
 皇女和宮が降嫁のため江戸へ向かう際に、中津川宿本陣へ宿泊しました。また、幕末に桂小五郎などにより長州藩が尊王攘夷へ方針転換した 「中津川会議」 の舞台でもあります。

 中津川市は昭和63年度から平成7年度にかけて文化庁、岐阜県の補助を受けて歴史の道・中山道の整備を行いました。
 江戸時代の歴史的な環境がよく残る長野県境からの約1㎞を整備対象区間とし、道自体の整備としては石畳の敷設を行い、遺跡の整備としては道の左右に残っていた 「新茶屋の一里塚」 の修復、また 「休息所」 一基を活用施設として設置しました。
 従来から 「中山道落合の石畳」 として保存されていた石畳(3ヶ所延長70.8m)をつなぎながら復元した約840mの道は、周囲の景観と一体となって、けわしい木曽路とひらけた美濃路の2つの雰囲気をもっています。

歴史の道整備事業説明

中山道紀行文

中津川市内の中山道説明

東屋と説明版

石段を下った先の中山道標柱

石段脇に建つ中山道道標