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中山道   (木曽福島~ 南木曽)

木曽福島から南木曽までは、上松宿、須原宿、野尻宿、三留野宿の4宿であり、比較的平坦でのんびりとした木曽路を味わうことができる約40kmの道程である。

平成26年11月4日(火) ☀  木曽福島~須原  21.6㎞   
むらちやの夕食はとても美味しくて宿のおかみさんも話し好きで快適な一夜であった。今朝の午前5時45分の外気温は1℃でとても寒くて、シャツの上にトレーナーを着込んで6時15分に宿を後にした。木曽福島駅で友人は東京へ帰り、私は一人先へ進むこととした。

民宿むらちや 津島神社 御嶽大神 旧道口
朝6時15分にむらちやの前で撮影。
空は晴れているものの薄暗く、木曽福島の駅に向かう道には街灯が点いている。
木曽川の対岸に津島神社があるので寄って行くこととした。
中島橋を渡って行くと突当りの駐車場脇に西行法師の句碑が建っており、その奥の山手に津島神社がある。境内には芭蕉句碑があり、「かけはしや命をからむ蔦かつら」 と刻まれている。
街道に戻って木曾福島駅前を左に行くとY字路の真ん中に御嶽大神がある。御嶽大神とは、.国常立命(くにとこたちのみこと)、大己貴命(おおむなちのみこと)、少彦名命(すくなひこなのみこと)の三神をいうそうである。
境内には、老朽化した拝殿、御神水、御神像奉安殿、白河大神像がある。
御嶽大神の脇を歩道で下に降りていくのが旧道口である。
右手に御嶽大神の本殿を見ながら進むと木曽町役場に突き当たる。

旧道 塩淵一里塚跡 石碑群 中平旧道口
木曽町役場を回り込むように細い下り坂を降りると、右手前方に塩渕の木曽合同庁舎が見えてくる。
塩渕の地名は、昔、中山道を馬の背中に塩を積んで運んできたところ、その馬が木曽川に転落して塩を撒いてしまったことから塩淵という名が付いたと言われている。
塩淵の集落に入ると塩淵くらぶの庭の前に一里塚之跡碑が建っている。
碑面にも刻まれているが、江戸日本橋から数えて70里目、京へ67里である。
近くには塩渕地名由来板、中山道説明板が設置されている。
一里塚の先の左斜面の畑の上段に石碑がいくつか安置されている。
廿三夜塔、勢至大菩薩、新田記念碑、堤防記念碑、塩淵開発記念碑である。
塩淵の集落を抜けると県道461号線に合流し、間もなく左手に中部北陸自然歩道の標柱の建つ坂道がある。
坂道を上って行くと右下木曽川に水門と県立木曽病院の建物が見えてくる。

津島神社 国道19号線高架 御嶽遥拝所 御嶽山
坂を登り詰めると中部北陸自然歩道道標と中山道道標が建つ車道に合流する。合流して間もなく左手のせせらぎの奥に津島神社の祠がある。祠の脇のせせらぎには、透き通った清らかな水が流れている。 津島神社の先でY字路の左の坂道を進み、国道19号線の高架下をくぐってトンネルの前に出る。
本来は、トンネルを抜けて行きたいのだが、廃道になっていて入口が塞がれているので高架脇にある階段を上って国道19号線に出る。国道19号線に出ると右手に冠木門のモニュメントがある。
国道19号線を進んで元橋交差点で左のJR中央本線神戸架道橋をくぐって神戸の集落に入る。集落が途切れた右手の林の上に御嶽遥拝所がある。ここには御嶽神社・八海山神社・三笠山神社の石碑と常夜燈が建っている。林のためか、ここから御嶽山は見ることは出来なかった。 御嶽遥拝所の林を抜けて右手にJR中央本線の金網が設置された辺りに来ると遠くに御嶽山(3,067m)の峰が見える。
峰は雪で覆われているが、噴煙を上げているのが確認できる。御嶽山は今年(2014)9月27日に噴火を起し、57名の方が命を落としている。ご冥福をお祈りします。

沓掛観音堂 一里塚跡 かけはし 木曽の桟
御嶽山を望めた先は登り坂が続き、やがてJR中央本線脇を下り、右手のガード下をくぐって一旦国道19号線に出て、その先で左の細い道を進むと線路脇に沓掛観音堂がある。御堂前には、庚申塔、観音像などが安置され、御堂内には瓶子が祀られている。
木曽義仲の名馬が木曽川に転落して亡くなったことから金の観音像を造らせて一堂を建てて馬の菩提を弔ったと言われている。
沓掛観音堂から国道19号線への下り口に沓掛の一里塚碑が建っている。
ここは江戸日本橋から数えて71里目で、京へ66里である。
説明では、「明治43年(1910)に中央本線の鉄道施設工事の折に山側の1基は取り壊され、川側の1基が残っている」 とのことだが、これが沓掛馬頭観音堂のある場所である。
国道19号線を進むと、木曽川に架かる赤い 「かけはし」 が見えている。
木曽の桟は、国道19号線の下に組まれた石垣である。
この 「かけはし」 を渡ると芭蕉句碑 「かけはしや命をからむ蔦かつら」 と明治天皇聖跡碑、馬頭観音がある。
昔は険しい岩の間に丸太と板を組み、藤づる等で結わえた桟であったが、正保4年(1647)に通行人の松明で焼失した。
そこで尾張藩は翌慶安元年(1648)に長さ56間(102m)中央に8間(14.5m)の木橋を架けた石積みを完成させた。
その後、何度か改修を行っているが、石垣積みの部分は、ほぼ全貌が完全な形で残っている。

賽の河原地蔵 歩道の終点 上松宿入口 宿並み
民宿根がかり宿の先の国道19号線の山側の道路フェンスの裏に賽の河原地蔵が安置されている。昔、この付近一帯は 「賽の河原」 と呼ばれ、此の世とあの世の境目とされていた。中山道を南から来た旅人はこれから越える 「桟」 の難所を思い、北から越えてきた旅人は無事に通過できたことを感謝して、子供の為に木曽川の小石を拾い、お地蔵様の前に積んでお詣りをしたと伝えられている。 暫く国道19号線を進むと、やがて歩道は無くなってしまう。
大型トラックの行き交う道を予想していたが、意外に交通量が少なく安全に歩く事が出来た。先へ行って分かったことだが、2014年3月29日に 「あげまつ大橋」 が全面開通したためである。
あげまつ大橋の先の笹沢交差点でトンネルの手前右手の道を進むと十王沢に突当り、十王橋の袂に上松宿入口の標柱が建ち、傍らに石仏石塔群がある。
かつて十王橋の袂の十王堂に祀られていた大きな地蔵尊と馬頭観音、道祖神である。
十王橋を渡ると直ぐに上松宿の出梁作りの家並みが続く。

若宮八幡宮 玉林院 本陣跡 本町一里塚跡
街道左手に若宮八幡宮がある。
ここは玉林和尚が甥の木曽義豊(上松蔵人)のために、源氏の守護神である八幡社を館の近くに勧請したものと言われ、上松宿で最も古い神社である。
境内には、津島神社、山の神神社、稲荷神社の境内社があり、鳥居脇には大きな廿三夜塔が立っている。
若松八幡宮の先には、臨済宗妙心寺派の聖岩山玉林院がある。
玉林院は、木曽家16代目木曽義元の次男 「玉林」 が創建したと伝えられているお寺で、推定樹木200年といわれる黒松がある。境内には、観音堂があり沢山の金の観音像が安置されている。また山門は明和3年(1766)に建立された鐘楼門となっており、門手前には地蔵尊や観世音菩薩像が安置されている。
玉林院の先の塚本歯科医院が本陣跡であり、その角に男女双体道祖神と水速女命(みずはのめのみこと)の石塔がある。
水速女命は、日本神話に登場する水の神である。
本陣跡の先で枡形に右に曲がる角に本町一里塚跡の碑が建っている。
江戸時代には、本町(枡形の町並み)の角を曲がり、中町に入ったところに2基の一里塚があった。ここは江戸日本橋から数えて72里目で、京へ65里である。この先中町に入ると、上松町消防団脇の路地奥に稲荷神社がある。

石碑群 上松小学校 上松材木役所跡 諏訪神社
下町交差点を左折して坂道を上って行くと左手に石碑群がある。
駒嶽大神碑、心明霊神碑、庚申塔などである。ここから木曽川方向を望むと寝覚発電所の建物が見える。
石碑群の先の斜面に大乗妙典の石柱があり、その先の上松小学校角に斎藤茂吉歌碑 「駒ケ嶽見て そめけゐを背後にし 小さき汽車は 峡に入りゆく」 が建っている。
また小学校内の植え込みには、島崎藤村の文学碑 「山は静かにして 性をやしない 水は動いて 情をなぐさむ」 が建っている。
小学校の校庭斜面には、尾張藩上松材木役所跡の標柱が建っている。
寛文3年(1663)から4年にかけて尾張藩は木曽総山の検見を実施し、その大半が伐られ、尽山も多いことに驚き山村代官から山に関する一切の業務を取り上げ、上松の原畑の地に直轄の材木役場を作ったと云う。
上松材木役所跡の先に諏訪神社の鳥居が建っているが、拝殿は上松小学校の校庭の先にある。校庭を横切って行くと階段があり、正面に拝殿がある。諏訪神社には、建御名方命(たてみなかたのみこと)、事代主命(ことしろぬしのみこと)の二神が祀れている。境内には、五社神社、津島神社・秋葉神社の境内社がある。

国道19号線跨道橋 石塔群 越前屋 寝覚の床
諏訪神社の先は下り坂になり県道266号線に合流して中沢橋を渡ると上り坂となる。
上り詰めると国道19号線の跨道橋に出る。この辺りは景色が良くて駒ヶ岳の山頂もちょっと見ることができる。
国道19号線跨橋から程なく左手の杉林の下に常夜燈と石塔群がある。
良く見ると墓石のようである。
この先の左段上にも西国三十三所供養塔、南無阿弥陀仏碑、馬頭観音などの石碑があるが、その奥は墓地になっていた。
先に進むと街道右手に赤いポストがあり、かつての茶屋本陣、現民宿の多瀬屋(たせや)が建っており、この向かいに寿命そばの越前屋が建っている。越前屋は、寛永元年(1624)の創業で、日本で二番目に古いそば屋と言われている。 松尾芭蕉や十返舎一九が立寄ったと言われている。
この角を右に曲がると寝覚の床の入口である。
越前屋と多瀬屋の間を通って国道19号線を跨ぐと寝覚の床の入口であり、入場料200円を払って臨川禅寺境内を通って木曽川へ降りていく。境内には、明治天皇寝覚御小休所碑、明治天皇御駐輦跡碑、弁財天堂、亀の家、浦島太郎姿見などがある。

桂の木 南無阿弥陀仏碑 駒ヶ岳 石畳道
街道に戻って進むとY字路に桂の大木が立っている。この桂の木は現存する上松町の桂の木の中で一番太く幹回りは4.1mある。
根元には、津島神社、大宮神社の祠があり、その傍らには、南無勢至大菩薩、青面金剛王、南無阿弥陀仏名号碑が安置されている。
桂の木の先でY字路中央に寝覚簡易郵便局があり、街道は左に進んでいく。
左に入って間もなく、左手に南無阿弥陀仏名号碑があり、その先は墓地で、入り口に六地蔵尊が安置されている。
墓地の奥に駒ヶ岳の山並みを見ることができる。 墓地の先には上松中学校があり、その先を進むと石畳道が有るので、そこを下って再び車道に出ると木曽三大橋の一つと言われた滑川に架かる滑川橋を渡ることになる。
橋の直ぐ先には、小さな馬頭観音があり、その先は林の道が続く。

中央本線沿いの下り坂 小野の滝 紅葉の木曽路 荻原一里塚跡
林の道を抜けると前方眼下に中央本線が見えてくる。
左斜面には、御嶽山講中の碑が建っている。下りきるとJR中央本線のガードをくぐって国道19号線に出る。
国道19号線を進むと間もなく左手のJR中央本線の高架下に小野の滝が見えてくる。この滝は木曽八景の一つであり、広重・英泉の合作による 「中山道六十九次」 にも浮世絵として描かれている。滝の落差はおよそ20m、姿は昔から変わっていない。
滝の淵には、文政4年(1821)の常夜燈、南無阿弥陀仏歓喜天が安置されている。
小野の滝の先は、木曽川沿いのモミジが真っ赤に色づいていた。 国道19号線を暫く進むと石垣の擁壁の先に左に上がる荻原旧道口があり、その入り口に荻原一里塚跡がある。
この一里塚は荻原集落の北の入口に位置し、左右とも榎が植えられていたというが、残念ながら現存していない。
一里塚碑には、江戸より73里、京へ64里と刻まれている。

石碑石塔 宮部旧道入口 民家脇の道 神明神社
荻原集落の外れには、廿三夜塔と南無阿弥陀仏名号碑が建っており、その角を左に入った民家の前に和水(なごみ)と書かれた水場がある。近くには、お地蔵さまが安置されている。この先で荻原集落は終わり、国道19号線に合流する。 国道19号線を暫く進むと右手に大きな道路標識があり、その向かい側に左に上る宮部旧道口がある。
旧道に入って直ぐ左にあるJR中央線のガードをくぐるり、右に進むとやがて上り坂になり、途中に石仏石像群が段上に安置されている。
旧道を進むとやがて民家の前を通り、JR中央本線を右下に見ながら草道を進んでいく。その先でJR中央本線に突当り、ガードをくぐって進むと国道19号線に合流する。 国道19号線に合流した左手に神明神社の鳥居があり、階段を上って行くと、その先はJR中央本線の線路に突当り、拝殿はJR中央本線の擁壁上の林にある。
渡れないので一旦ガードまで戻って拝殿まで行ってみた。拝殿を覗くと本殿脇に武者が二体安置され、拝殿脇には、境内社が三社ある。

立町旧道口 水場 吊り橋 倉本駅
神明神社の直ぐ先で左に入る立町旧道口がある。
旧道に入って直ぐ国道19号線に突き当たるので、歩道橋で横断して向かいの立町の集落に入って行くと直ぐ左に水神碑がある。
立町集落には3か所ほど水場があるが、集落のほぼ中央の空澤橋を渡ると左手に荻原簡易郵便局があり、その先には滔々と流れる水場がある。 水場の少し先へ行くと木曽川に架かる吊り橋がある。
この吊り橋は、諸原橋と言い対岸の諸原の集落につながっている。吊り橋から見る木曽川の流れは澄んでいて美しい。
立町から国道19号線に合流して進むと左手に倉本旧道口があり、JR中央本線のガードをくぐって倉本駅を回り込むように進むと写真のように左に倉本駅を見ることになる。

倉本の集落 常夜燈と石碑石塔群 倉本一里塚跡 池の尻旧道口
倉本駅を過ぎて先に進むと、右にヘアピン状に曲がる急カーブがあり、緩やかに登って行くと中山道道標の先に静かな倉本の集落が続いている。 倉本の集落の外れには、、常夜燈と石塔群がある。
南無阿弥陀仏名号碑、百万遍念仏供養塔、庚申塔、石仏などである。中でも笠を被った庚申塔は、「除三尸之罪」 と刻まれており上松町では最も古いものである。
この先右手の草道を抜けて、再び舗装路に出て130m程進むと国道19号線に合流する。
国道19号線に合流して大沢川に架かる大沢橋を渡り、そこから400m程進むと右手の非常駐車エリアに倉本の一里塚跡がある。ここは上松で4番目の一里塚であり、一つの町村で4つも一里塚があるのは珍しい。ここは江戸日本橋から数えて74里目で、京へ63里に位置する。 一里塚跡の直ぐ先で右に下りていく池の尻旧道口がある。
狭い集落の道を進むと右手木曽川に架かる赤い桃山橋が見え、下流には桃山発電所の建物も見える。旧道を進むと草道に突当り、旧ドライブインの廃屋の脇を抜けて国道19号線に出る。

エドヒガン桜 枝垂れ桜 夫婦大杉 国道脇道
国道19号線を進むと左に細い旧道口が有るので入って行くとJR中央本線の線路に突き当たる。その先に道が有るので確認して線路を越えて行くと大きなエドヒガン桜の木が立っている。エドヒガン桜は村の天然記念物で彼岸の頃に花を咲かせるという。
近くには鱒(マス)の養魚場がある。先に進んで再び線路を越えて国道19号線に出る。
エドヒガンから国道19号線に出て進んでいくと右手の道路標識の先に旧道が500mほど残って入る。
その旧道を抜けて国道19号線に出ると正面に枝垂れ桜の大木が立っている。
国道19号線の左手にJR中央本線をくぐる小さなガードがあり、手前に神明神社・夫婦大杉の看板が立っている。
ガードをくぐって行くと神明神社の鳥居がある。その先に拝殿があり、両脇に注連縄を巻いた大杉が立っている。近くには同様の杉がもう一本ある。
国道19号線に戻って進んでいくと、左手に糸瀬山登山口があり、その先で猿沢に架かる猿沢橋がある。猿沢橋から270~80m程先の左側に中山道碑が建つ国道脇道がある。
この道は300mほど国道19号線に並行して進み、パイプフェンスの橋を渡った先で国道19号線に合流して須原宿に入る。

須原宿へ 須原の一里塚跡 高札場跡 上町上の水舟
国道19号線から左に上って行くと須原駅であり、この分岐に 「左 中山道 須原宿へ」 と刻まれた道標が建っている。しかし、国道19号線を少し進んだところに左へ上がる細い旧道が残っており、上り口に小さな 「中山道」 の道標がある。この旧道を進むと民家の間を通って須原駅の少し先に出てくる。 須原駅のほぼ正面に須原宿の一里塚跡があり、石碑が建てられている。
江戸から数えて75里で、京へ62里であるが、石碑には京へ57里と刻まれている。須原駅前のロータリーの横には、幸田露伴が明治22年冬に須原に訪れた縁で書いた出世作の小説の一部が記念碑として刻まれている
須原駅前をを過ぎて、先程国道19号線から上がってきた旧道の出口付近に高札場跡の立札がある。 須原駅前を過ぎると街道のいたるところに水舟が見られるようになる。

上町下の水舟 本陣跡 脇本陣跡 正岡子規歌碑
水舟から下に三段に水を流し落としている。 本町に入ると左手に本陣跡があり、立札には木村平左衛門と書かれている。 本陣跡の右手先には、旧脇本陣の西尾家があり、塀の前に板碑が建っている。西尾家は木曽義仲の家臣であり、中山道の宿場が出来るのに伴い須原宿の脇本陣・問屋・庄屋を兼ねてきた。
酒造業は江戸時代から続いている蔵元で、銘酒 「木曽のかけはし」 を生み出している。
脇本陣の向かい側には水舟があり、その後ろに正岡子規の歌碑が建っている。
歌碑には、「寝ぬ夜半を いかにあかさん山里は 月いつるほとの 空たにもなし」 と刻まれている。正岡子規は、明治24年(1891)に須原宿で一泊している。

清水医院跡 常夜燈 茶屋町の水舟 柏屋
脇本陣の先に清水医院跡がある。
黒板塀の前に立札があり、「島崎藤村の ”ある女の生涯” の舞台となった清水医院跡、現在、愛知県犬山市明治村の中心地に移転、保存されている」 と記されている。
清水医院跡の少し先左手に文化10年(1813)の常夜燈が建っている。
正面に秋葉大権現、横に金毘羅大権現と刻まれている。
常夜燈の右奥には、鹿島神社仮宮がある。
常夜燈を過ぎて街道を進むと往時の旅籠街となり、須原食料販売店の向かいの下松田屋の屋号の家の前に立派な水舟がある。
この水舟の覆屋の軒には木札があり、「”水舟の水のきをめぐりて” と歌われているように須原は中山道に面して数多くの井戸があり、生活の場として親しまれたこの水舟もその面影を残す」 と記されている。
街道左手の定勝寺の手前に旧旅籠柏屋がある。軒下には、大阪を講元に京都・江戸を世話方とする 「三都講」 、御嶽講の一つ宮丸講の 「宮丸北之組」 の看板が下がっており、協定旅館という意味だったようである。

定勝寺 和村橋 民宿いとせ
枡形の角に臨済宗の定勝寺がある。
この寺は、木曽三大寺中の最古刹で木曽川洪水の後、慶長3年(1598)に移建され本堂、庫裏、山門は桃山建造物として国の重要文化財に指定されている。山門前には、明治天皇須原行在所碑、廿三夜塔、法華塔が建っており、境内には鶴亀蓬菜庭園、香取正彦作の大梵鐘、十六羅漢が安置されている。
本日は定勝寺を最後にして、本日の宿がある和村へ行くため、木曽川に架かる和村橋を渡る。
和村橋の上流には、古い吊り橋の橋脚が残っている。
大桑村民体育館の脇を抜けると民宿いとせがある。
早く着いたため先客がいなかったので、大きな湯船に一人で悠々と浸かった。18時過ぎには合宿の学生が数人、観光客が数人と多くの泊り客が入って来た。
部屋は8畳間に一人で広々としていた。

平成26年11月5日(水) ☀  須原~南木曽   18.1㎞
朝食を済ませて6時45分には民宿いとせを出発した。良く晴れているが日の出前で辺りはまだ薄暗く、若干寒い。昨日の続きのため須原交差点から大桑保育園の前を通って枡形まで行くこととした。

和村橋 鍵屋の土蔵 枡形鍵屋の坂 道標
大桑村スポーツ公園前から和村橋を渡ると前方に大桑保育園の赤い屋根が見える。大桑保育園前を通って旧須原小学校の校門を右に行くと旧街道である。右手にレトロな郵便局がある。 郵便局の先に 「枡形鍵屋の坂」 と書かれた立札があり、塀の奥に 「鍵」 の紋が付いた土蔵が建っている。 土蔵の先が枡形道路である。
この枡形は須原宿の京口に設けられ、幕府に反乱を起こした敵を防ぐために造られたもので、脇に昔ながらの用水路があり、往時の姿をよく留めている。鍵屋の坂を下り、道なりに左に進むと左手の消火栓の段上に水神碑がある。
須原宿の外れにY字路があり、左の道脇に 「左 中山道 野尻宿へ」 と刻まれた道標がある。

第9中山道踏切 大桑村公民館橋場分館 岩出観音 神明神社
街道は坂道となり、やがて第9中山道踏切でJR中央本線を跨ぐ。
この先街道は更に急坂となり、登り詰めた辺りで木曽川対岸に須原発電所が見え、下流域には白い花崗岩が目に入ってくる。
街道を下って橋場集落に入ると、左手に大桑村公民館の橋場分館が建っている。この脇に小さな水舟があり、岩出観音の標識が立っている。 大桑村公民館橋場分館を左に入っていくと崖上に岩出観音がある。岩出観音は木曽街道69次版画の英泉画 「伊奈川橋遠景」 の背景に描かれた堂として有名であり、本尊は馬頭観音で木曽三大馬頭観音の一つである。境内には沢山の馬頭観音が安置されており、御堂の前は舞台になっており、橋場の集落が一望できる。 岩出観音から下って来ると正面に神明神社がある。
拝殿前の狛犬は、かなり迫力ある表情をしている。神社の傍には、真新しい橋場地区公衆トイレがある。

伊奈川橋 大島の水舟 天長院 常夜燈
街道に戻って進むと伊奈川に架かる伊奈川橋があり、橋の袂には、木製道標と自然石の道標が建っている。自然石の道標には、「是より岩出観音」 と刻まれている。
橋を渡って右折し、振り返ってみると伊奈川橋の奥に岩出観音が見え、まさに英泉画の 「伊奈川橋遠景」 である。
伊奈川橋から木々に囲まれた緩やかな坂道を上って行き、その先で中部北陸自然歩道道標が建つY字路を左折すると、その先に左手に水舟がある。間もなく右手に 「左 野尻宿へ 右 須原宿へ」 と刻まれた道標があり、道標の向かいの道を左に入って行く。街道左手には、念三夜塔と供養塔らしきものが安置されている。 街道を進んでT字路に建つ道標 「右 野尻宿 左 須原宿」 を右折すると左手の田畑の中に天長院が見える。この寺は、室町時代木曽家祈願所であり、武田軍・山賊の焼き討ちにより廃絶してしまったが、その後文禄年間(1594~)定勝寺七代天心和尚によって天長院として開山したという。
境内には、沢山の地蔵尊、南無阿弥陀仏名号碑、庚申塔などが安置され、本堂の奥に鐘楼がある。
街道に戻り寺沢に沿って街道を下って行くと右手の斜面に秋葉山大権現・金毘羅大権現と刻まれた常夜燈が建っており、その脇の階段を上ると三つの社が安置されている。

大桑駅 石灯籠 石塔群 大桑一里塚跡
更に街道を下って旧弓矢村集落に入ると、上田沢に架かる長野宿橋があり、橋を渡った右手に大桑駅がある。この駅は住民の執念によって開設されたものであり、駅前には記念碑が建っている。
碑には、「皆ができぬという駅が村を一つにと祈る執念と地元の二旬余の汗の結晶によって誕生云々」 と刻まれている。
大桑駅の先の大桑郵便局前を過ぎ、ししご沢に架かる長野橋を渡ると左手の林の前に奉塔と刻まれた2基の石灯籠が建っている。
石灯籠が向いている方向をみると駒ヶ岳の峰が見える。
この先で街道は、JR中央本線を越えて国道19号線に合流する。
JR中央本線を跨いで国道19号線を右に進み、左手の道を下ってくと一里塚とは反対方向(西方向)に屋根に覆われた石塔が安置されている。
西国三十三所供養塔、南無阿弥陀仏名号碑、庚申塔などである。
石塔群とは反対の道を進むと墓地の裏手に、江戸初期の古中山道大桑一里塚の南塚が残っている。
ここは江戸日本橋より数えて76里目、京へ61里である。

関山関所跡 分岐 題目碑 東のはずれ
大桑一里塚から国道19号線に戻って先に進むと関山関所跡に石碑が建っている。碑面には、「関所跡モーテル関」 と刻まれているが良く分からない。
ここは木曽義仲が北陸へ平家追討の際、この地へ関所を置いたところである。近くに関山という蕎麦屋と廃業したホテルらしき建物がある。
道の駅大桑を過ぎると右手の大きな道路標識 「のぞきど森林公園7㎞」 の先に、右に下りて行く旧道がある。
先に進むと第11中山道踏切があり、更に進んで野尻宿の道標がある辺りで木曽川の対岸に大桑発電所が見え、その先で第12中山道踏切を越える。
第12中山道踏切を越えると、急な倉坂(くらんざか)となり、2ヶ所の分岐に建つ野尻宿碑に従って進むと、左角に大きな南無妙法蓮華経題目碑が建っている。台座になっている大きな石は 「いぼ石」 と呼ばれ、その昔、イボのできた人がこの石に触れるとイボが治ったと言われている。この後ろの石垣は高札場の名残である。題目碑の先は、野尻宿の家並みが続いている。 題目碑の先は、野尻宿の東端にあたり 「はずれ」 と呼ばれ、石塀に説明板が設置されている。この説明板には、「ここが東のはずれで、この家の屋号も 「はずれ」 という。野尻宿は木曽11宿のなかでも旅館、茶屋など30余軒をもって繁昌した場所である。野尻宿の特徴は外敵を防ぐための枡形が随所に設けられ、「七曲り」と言われる。」 と記されている。

常夜燈 明治天皇御小休所碑 脇本陣跡 庭田屋
はずれの先から街道は緩やかな下りとなり、街道の角に常夜燈と社が建っている。この脇の筋を上って国道19号線を越えた先に、臨済宗妙心寺派の妙覚寺がある。境内には十字架を左手に持ったマリア観音があるというが、寄らずに先に進んだ。 常夜燈の先の五又路を越えると左手に明治天皇御小休所碑が建っている。
ここは問屋を兼ねた本陣跡であるが、明治27年(1894)の大火で焼失してしまった。
明治天皇御小休所碑の先のクリーニング店の前に脇本陣跡の碑が建っている。ここは問屋と庄屋を兼ねていたが、明治27年(1894)の大火で焼失してしまった。脇本陣跡から左にカーブすると野尻警察官駐在所の所に新しい 「御大典記念町内安全」 と刻まれた石柱があり、傍らの大石の上に小社が安置されている。 野尻警察官駐在所を右に曲がると昭和53年公開の 「男はつらいよ」 のワンシーンに出てくる庭田屋が建っている。

地蔵菩薩 七曲り 須佐男神社 下在郷一里塚跡
庭田屋の左の路地を入って行くと、大きな地蔵菩薩が宿並みを見下ろすように立っている。
傍らには廿三夜塔、庚申塔、僧侶の墓石が安置されている
野尻宿は外敵を防ぐため曲がりくねった町並みが特徴で、「七曲り」 と呼ばれて左右に蛇行している。
この先に地域のお年寄りが集まるという 「地域の茶の間ますや」 が建っており、その先の野尻郵便局の先の十字路左手に小社と常夜燈がある。
野尻宿の西のはずれを過ぎて二反田川を越えるとY字分岐がある。街道は右手を行くが、左に入って国道19号線を越えたところに須佐男神社がある。
杉林の参道を登って行くとて静かな林の中に拝殿・本殿がある。ここまでは結構な山道であるため須原宿内に仮宮が置かれている。神社から下って街道に戻る途中に上部が折れた廻国供養塔がある。
街道を進むと左手に下在郷一里塚跡碑が建っている。
ここは江戸日本橋から数えて77里目、京へ60里である。
ここからは緩やかな下り坂で、前方に三角形の飯盛山が見え、この山に向かって道が続いている。

旧第3中山道踏切 道標 石仏石塔群 常夜燈
飯盛山に向かって行くと右手に旧第3中山道踏切があるが、街道は更に真っ直ぐ進んでいく。国道19号線のガード下を通り、右手のJR中央本線に沿って進み、第13中山道踏切でJR中央本線の右側に出て、木曽川沿いを進んでいく。
その先の第14中山道踏切で再びJR中央本線を越えていく。
第14中山道踏切を越えた先で国道19号線に突き当たる。
左手に道標があり、「左 野尻宿 右 三留野宿」 と刻まれている。
街道は、国道19号線を渡った先の左手の坂道を上って行く。
坂道を上って行くと左手段上に石仏石塔群がある。
南無阿弥陀仏名号碑、観音像、馬頭観音、廿三夜塔などである。ここから十二兼の集落である。
十二兼の集落に入ると左手に常夜燈が建っており、正面に天照皇大神宮、右側面に金毘羅大権現と刻まれている。
傍らには、馬頭観音らしき石像がある。

熊野神社 地下道 一里塚跡 石像
街道を進むとY字路になり、中山道の木札がある右の道を下って行くと、左手段上に熊野神社がある。鳥居を潜ると正面に拝殿があり、拝殿奥の石段の上の本殿覆屋に鍵が懸かった本殿が祀られている。
本殿覆屋脇には、熊野神社、八釼(やつるぎ)神社、天照皇大神などの石碑が建っている。
熊野神社の先で街道は国道19号線に突当り、国道脇の水路の中の架設道を抜けて行く。地下道を抜けるとJR中央本線も越えて旧国道に出る。左方向に進むと程なく十二兼駅前に出る。十二兼駅の階段を上って行くとホーム脇に十二兼駅開業二十周年記念碑が建っている。 一里塚跡は国道19号線にあるというので十二兼駅から国道19号線に出て京方向に進むと十二兼南信号機脇に一里塚跡の碑が建っている。ここは江戸日本橋から数えて78里目、京へ58里である。
再び十二兼駅を抜け、旧国道に出て先に進むと右手に木曽川の流れが見える。
暫くJR中央本線を左に見て進み、十二兼の集落が途切れて、道幅がやや広くなる辺りの左手擁壁上に2基の馬頭観音らしき石像が建っている。ここから先は、右手に木曽川の流れが一気に広がる。

柿其橋 八釼(やつるぎ)神社 明治天皇御小休所跡 石碑
石像の先右手に木曽川に架かる柿其橋がある。橋からは寝覚の床に勝るとも劣らない景色が見える。南寝覚とも呼ばれている。 柿其橋を渡ると橋の袂に八釼神社がある。境内には、推定樹齢530年という大杉が本殿の後ろに立っている。柿其橋はかつては吊り橋だったようで、神社の脇には橋脚の一部が残っている。
この橋の袂で暫し昼食休憩をとった。
街道に戻ると柿其橋の先に小さな公園があり、明治天皇御小休所記念碑と明治天皇中川原御膳水碑が建っている。
明治天皇は明治13年(1880)に山梨県から木曽路に入り、6月27日寝覚で御小休、須原定勝寺で御昼食、ここ中川原には夕方に着き、羅天の難所を前にして、桜井太助宅にて御小休されたという。
明治天皇御小休所跡を過ぎると国道19号線に合流し、緩やかに左にカーブする辺りの駐車帯の斜面に石碑が建っている。石碑には、椎河脇神社、金刀比羅神社と刻まれている。

羅天橋 与川渡の石地蔵 金知屋集落 三留野入口
柿其入口交差点から国道19号線に合流して先に進むと、羅天沢に架かる羅天橋がある。柿其入口から与川入口までは、木曽路屈指の難所と言われた 「羅天の桟道」 である。江戸時代は木曽川に迫る山側に、辛うじて道を造った状態で道らしい道ではなかったようである。木曽川に迫る山は紅葉が始まったところである 国道19号線の左手に与川に沿って山側に入る道がある。JR中央本線ガードをくぐると左手の与川発電所の脇に石地蔵が安置されている。この地蔵尊は、天保15年(1844)5月27日の夜に発生した蛇抜け災害によって犠牲になった人々を弔うため、尾張藩によって弘化2年(1845)2月に建立されたものである。傍らには2基の馬頭観音と南無阿弥陀仏名号碑が安置されている。 国道19号線を進むと右手に旧道がわずかに残る金知屋集落がある。
かつては牛方の集落であったが、現在は数軒程度の家が立ち並び、直ぐ先で国道19号線に合流する。
金知屋集落から300~400m先の左手に、国道19号線から分岐する県道264号線の上り坂があり、入口の傍らに中山道の道標が建っている。先に進んで行くと左手に馬頭観音があり、その先でJR中央本線のガードをくぐり、ひたすら山道を登って行くと三留野の集落に入る。

東山神社御仮宮 三留野集落 脇本陣跡 本陣跡
三留野の集落入口にある与川道の左手段上に東山神社御仮宮がある。
東山神社は三留野の集落を進んだ梨子沢川の脇にある神社で三留野地区の鎮守様である。
東山神社御仮宮の先は、古い家並みが続いいており、直ぐ先で下り道になる。 街道を下って行くと左手に脇本陣跡がある。本陣は江戸時代の初めに定められたが、脇本陣は交通が頻繁になる中期以降に設置されたもので、代々宮川家が務めており、三留野村の庄屋も務めた家である。 脇本陣の右手先に本陣跡がある。
本陣を務めた鮎沢家の建物は、明治14年7月の大火で焼失しているが、庭木の枝垂れ桜は南木曽町森林組合の前に現在も残っており、街道に面して明治天皇行在所跡記念碑が建っている。

階段入口 常夜燈 梨子沢川 等覚寺
本陣跡から間もなく道路が左カーブする手前にガードレールの切れ目から下へ降りる階段がある。
ここには中山道道標が、下り口・上り口にそれぞれ立っている。
階段を降り、旧道に出て間もなく左手に享和3年(1803)の常夜燈が建っている。
常夜燈の後ろには、前面を隠した社が鎮座している。
常夜燈の先で梨子沢川に架かる修復されたばかりの梨子沢橋を渡る。
ここ梨子沢川は、今年(2014)7月9日土石流が発生し、多くの家屋、橋梁、鉄道などが被災するとともに、1名の方が亡くなっている。まだまだ深い傷跡を残している。
梨子沢橋を渡り左手の坂道を上って、梨子橋の上流の修復された橋を渡った先に曹洞宗の日星山等覚寺がある。
仁王門の手前に六地蔵尊があり、仁王門をくぐると左手に鐘楼と円空堂がある。
円空は、美濃国に生まれた江戸時代初期の僧侶で一生で12万体の仏像を造ることを祈願したと言われ、等覚寺には韋駄天像、弁財天十五童子像、天神像の三体が安置されている。

東山神社 旧道 分岐 蛇抜橋
等覚寺の脇にある東山神社の社標から少し上り、鳥居の先から続く石段を上り詰めると東山神社の拝殿前に出る。
石段脇には、庚申塔、記念碑、水神碑などがあり、拝殿には沢山の絵馬などが奉納されている。
神社の先からは、等覚寺方向を一望する事が出来る。
梨子沢橋を渡って街道に戻ると、左手に南木曽小学校正面入口の立て看板があり、その右手の民家の間に中山道の旧道がある。まったく民家の庭先を歩くこととなり、砂利を踏みしめる音に気が引ける。
先を進むと大沢田川に架かる大沢田川橋の前に出る。
街道を進んで細い北沢を渡ったところにY字分岐がある。
ここには中山道道標が有り、旧道は左に進んでいく。
分岐から緩やかな坂道を上って行くと蛇抜沢に架かる蛇抜橋がある。
橋には警戒情報を流すためのスピーカーが幾つか設置されている。
橋を渡った先の林の中には小さな社が鎮座している。

貯木場 園原先生碑 桃介橋 民宿むらちや
蛇抜橋を渡ると右手に南木曽の貯木場が見える。 程なく左手の古めかしい石垣のところに園原先生碑があり、イチョウの大木の左奥に園原家住宅が建っている。園原旧富(ふるとみ)は、三留野村和合の東山神社の神官の家に元禄16年(1703)に生まれた尾張・美濃・信濃に門人多数を擁する大学者であった。園原先生の前に分岐があり、街道は右下の南木曽駅方向に下って行く。 本日はここまでとし、跨線橋を渡って南木曽駅前に出て、木曽川に架かる桃介橋に寄ってみた。この橋は大正11年9月に完成し、木曽川の水力発電開発に力を注いだ大同電力(福沢桃介社長)が下流の読書発電所(大正12年完成)の建設用資材運搬路として架けたものである。中央の主塔からは、木曽川へ降りる石段が設けられている。 南木曽から本日の宿のある木曽福島へ戻り、一昨日宿泊した民宿むらちやへ入る。

肥田亭 肥田亭店内
民宿むらちやは、水曜日は夕食が無いとのことで木曽福島の上の段にある肥田亭で夕食を採ることとした。 肥田亭は古民家風の造りで板の間の中央に囲炉裏があり、とても雰囲気のいいお店で料理も良かった。

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