平安時代の終わり頃、木曾義仲の家来であった落合五郎兼行が美濃口の押さえとして、落合に館を構えていたといわれている。
落合五郎兼行は平家物語巻7寿永2年(1183)5月の 「火打ち合戦」 の頃に名を連ねているが、出自は中原兼遠の末子である説や中原氏の一族説等あり、生没不詳で定かでなく、木曾義仲に仕えていたことは事実と思われる。
義仲の幼名は駒王丸といい、父源義賢と叔父にあたる義朝との合戦により父義賢が殺されたため、駒王丸は幼少のころから乳母の夫である中原兼遠のもとで養育された。
諸記録によると、中原兼遠には樋口兼光、今井兼平、落合五郎兼行と義仲の妻となる巴の三男一女があり、平家物語の中で義仲の有力な武将として取り上げられている。
館跡とされている所は 「オガラン」 と呼ばれ、「伽藍」(大きな寺院)という言葉からきたと推定され、近くには 「小姓洞」 という地名も残っている。
実際に兼行が当地の落合に居住していた説に関しては不明な点が多いが、江戸期に書かれた 「木曽名所図絵」 には、「落合五郎霊社」 と案内され、「新撰美濃誌」
は 「落合氏宗氏跡は駅の西の路傍にあり、老杉3~4株生い茂るうちに愛宕神社あり」 と書かれている。
また 「美濃国御坂越記」 には、「落合五郎兼行住居の跡地といえども、兼平か弟の兼行にてはあるべからざる」 と考察している。
兼行の館跡は後世に文献や地名から推定されたもので、平成元年に行われた発掘調査からは館跡の痕跡は認められなかった。
現在ここには、愛宕神社と寛延年間に建立された石燈籠や兼行の顕彰碑等があり、毎年8月には例祭が行われている。
(中津川市・おがらん四社)
落合五郎兼行之城跡碑
木曾義仲の家臣で、四天王の一人と云われた落合五郎兼行が、美濃の勢力に備えてこの地に館を構えたとされる。地元では 「おがらん様」 の名で親しまれている。
ここからは、縄文土器をはじめ8世紀から9世紀のものと思われる幣(ぬさ)の石製模造品、古代掘立柱建物遺構などが発見され、東山道と深いかかわりがあった場所であると推定される。
(中津川市)
落合五郎兼行説明
落合五郎城跡(おがらん様)説明
馬籠・十曲峠方向遠望
山之神神社、天神社、愛宕神社
落合五郎兼行神社
国道19号線を跨ぐ「おがらん橋」
おがらん四社の扁額が掛かる鳥居
鳥居脇の秋葉山常夜燈