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東海道   (日本橋~保土ヶ谷)

日本橋から保土ヶ谷までは、街道の面影を残す品川宿の先で多摩川を渡り、川崎宿、神奈川宿を経て保土ヶ谷宿までの約34㎞の道程であるが、途中の神社仏閣などの寄り道を入れると42~43㎞の市街地、住宅地の中の道である。

平成27年3月2日(月) ☀  日本橋~京急蒲田  16.0㎞
中山道は恵那でストップしているが暖かくなったら再開することとし、近場の東海道をスタートさせることとした。このところ天気がコロコロと変わり、晴れ間を見ての街道歩きである。午前7時に日本橋をスタートし、途中泉岳寺までは以前歩いた赤穂浪士の歩いた道と重なる部分もある。

日本橋 白木の名水 ヤンヨーステン像 歌川広重住居跡
甲州街道、中山道に続き三度目の日本橋である。橋向こうの元標の広場には日本道路元標のレプリカと里程標、乙姫広場には日本橋魚市場発祥の地碑と乙姫像があり、これから向かう方向の橋詰めの滝の広場には晒し場跡、双十郎河岸碑があり、花の広場には高札場跡のモニュメントがある。 街道の左側を進みCOREDO日本橋の手前を左に入って行くと小公園があり、名水白木屋の井戸碑が建っている。
小公園の周囲には水が流れており、近くには夏目漱石の名作の舞台碑がある。
日本橋三丁目交差点の東京駅八重洲口へ向かう道路中央分離帯にヤンヨーステン像がある。慶長5年(1600)ウイリアム・アダムスと共にリーフデ号で豊後に漂着したオランダの航海士で、徳川家康より屋敷を与えられ、日本名を耶楊子(やようす)といい、八重洲の名の起こりという。像の奥には平和の鐘のモニュメントがある。 日本橋三丁目交差点のブリジストン美術館の角を左に入って行くと右手の路地に歌川広重住居跡がある。嘉永2年(1849)から死去するまで10年間程を過ごしたという。
近くには江戸時代から続く婦人薬 「實母散」 発祥の地碑が建っている。

江戸歌舞伎発祥之地碑 京橋跡 煉瓦銀座之碑 銀座発祥の地碑
街道を進むと首都高速道路の高架右手に江戸歌舞伎発祥之地碑が建っている。初代中村勘三郎が中村座を開いた地である。碑の側面には猿若中村座之史跡と刻まれている。
この碑の右手には、京橋大根河岸青物市場蹟碑が建っている。
京橋川河岸は江戸時代から大根を中心とした野菜の荷揚げ市場で、江戸八百八町の住民たちに新鮮な野菜を提供していたという。
江戸歌舞伎発祥之地碑の道路向かい側には京橋の親柱が立っている。この石造りの親柱は高架先の派出所の脇にも1基ある。高架下にはコンクリート造りの親柱もあるが、これは大正11年(1922)に架け替えられた時のものである。 コンクリート造りの親柱の隣に煉瓦銀座之碑がある。明治5年(1872)2月26日、銀座は全焼し、延焼は築地方面にも及んだことから不燃性建築を建策し、煉瓦造二階建アーケード式の建築となり、煉瓦通りと呼ばれた。 銀座一丁目交差点を過ぎて左側TIFFANYの前に銀座発祥の地碑が建っている。
慶長17年(1612)徳川幕府は、ここに銀貨鋳造を行った銀座役所を設置した。当時は新両替町と称していたが、通称された銀座町が明治2年に公式名称となった。この通りは日本の道100選にも選ばれており、近くに標柱が建っている。

三越玄関 芝口御門跡 新橋跡 日比谷神社
銀座4丁目角の三越デパート玄関の柱に銀座出生地蔵尊の案内板がある。
この時間はデパートが開いていないので先に進んだが、後日、屋上にて三十三間堀から出土したという地蔵尊を拝顔した。脇には向島に御本社のある三囲神社が祀られている。
銀座8丁目交差点の手前角を左折すると芝口御門跡がある。
芝口御門は、宝永7年(1710)、朝鮮の聘使の来朝に備えて、新井白石の建策により我が国の威光を顕示するために建設されたものである。現在の桜田門のような城門が建設されて、芝口御門と呼ばれていた。
首都高速道路の高架をくぐると左側にコンクリート造りの新橋の親柱が建っている。
かつて、芝口御門には芝口橋が架かっていたが、享保9年(1724)正月に焼失し、後に新たに架橋されて新橋となった。この脇の植え込みの前に銀座柳の碑があり、碑の後ろに銀座の柳2世が植えられている。
街道を進んでJR東海道線のガードをくぐると交差点角に日比谷神社がある。
創建年代は不詳であるが、元は現在の日比谷公園の大塚山に鎮座しており、江戸城の拡張で東銀座に遷座し、明治時代に鉄道の施設のため、新橋4丁目に遷座した。
虫歯封じに霊験があると言われている。造りは全て真新しい。

芝大神宮 増上寺大門 松原の復元 浜松町由来碑
大門交差点の手前右側に芝大神宮の社標があり、突当りに芝大神宮が鎮座している。
芝大神宮は、天照大神と豊受大神の二社が主祭神となっており、平安時代の寛弘2年(1005)に創建された神社である。境内には、星野立子、椿、高士三代の句碑、力石、生姜塚などがある。
芝大神宮の奥に徳川将軍家の菩提寺である浄土宗大本山増上寺がある。
増上寺には、二代秀忠公、六代家宣公、七代家継公、九代家重公、十二代家慶公、十四代家茂公の、六人の将軍の墓所が設けられている。境内には、阿弥陀如来の鎮座する大殿、安国殿、西向観音、千体地蔵尊、鐘楼堂などがある。
増上寺三解脱門の前の公園に松原が復元されている。芝公園のうち増上寺三門前の辺りは古くから松原と呼ばれていた。松はその後の災変によって焼失し景観は楠木に変わっている。園内にはペルリ提督像、遣米使節記念碑、モニュメントが建っている。 大門交差点の先左側の芝エクセレントビルの前に浜松町由来碑が建っている。
江戸時代初期は門前町であったが、遠州浜松出身の権兵衛が名主となり、浜松町と改められたという。

金杉橋 西郷・勝会見の碑 札の辻 元和キリシタン遺跡
金杉橋北交差点の先の金杉橋で首都高速高架下を流れる古川を渡る。
金杉は、かつては荏原郡内にあり、金州崎、金曽木または金杉と呼び、漁夫が住む村であった。次第に商家が増えて金杉町となり、寛文2年(1662)には町奉行支配となって11ヶ町に分けられた。町名の由来については、暗夜に金色の光を発して沖合より目印になった杉のような大木があったなどと伝えられているが、定かではない。
芝五丁目交差点にある三菱自動車前に西郷南洲・勝海舟会見之地碑がある。
慶應4年(1868)ここ薩摩藩邸において江戸城無血開城の話し合いが行われた。
碑の裏面には、本芝町会の建立記念文が刻まれている
地下鉄三田駅を過ぎると札の辻交差点で、かつてここには高札場があったが、後に高輪大木戸に移設された。 住友不動産三田ツインビル西館の敷地奥の高台に元和キリシタン遺跡がある。
将軍家光が元和9年(1623)10月、智福寺のあった西の丘の中腹で50名のキリシタンを処刑した。なお、寛永15年(1638)12月にも同じ場所でキリシタンが処刑されている。

御田八幡神社 高輪大木戸跡 泉岳寺 高輪神社
住友不動産三田ツインビル西館の先右手に御田八幡神社がある。
御田八幡神社は、和銅2年(709)8月に東国鎮座のため創建したと言われている。
境内には、五光稲荷神社、御嶽神社、伏見稲荷神社などの境内社がある。
御田八幡神社を過ぎて街道の左手に石垣が見えるところが高輪大木戸跡である。
ここは江戸の南口にあたり、夜は治安維持のため閉められた。天保2年(1831)には札の辻から高札場が移され、幕末期には伊能忠敬がこの大木戸を全国測量の基点としたと言われている。
地下鉄泉岳寺駅の先右手に播州赤穂家の菩提寺である曹洞宗の萬松山泉岳寺がある。
写真の中門には萬松山の額が架かっている。境内には、赤穂義士の墓、首洗い井戸、血染めの石、主税の梅などがある。
泉岳寺から街道を進むと右手に高輪神社がある。創建は室町中期といわれ、参道の石鳥居は右の柱に寛文7年(1667)と刻まれており、境内には聖徳太子を祀った太子堂、力石、狛犬2対などがある。(拝殿脇の狛犬は宝永6年(1709)のものである。)

高輪海岸の石垣石 東禅寺 高山稲荷神社 八ツ山橋
高輪二丁目交差点の手前右側に高輪海岸の石垣石がある。
この石は江戸時代に高輪海岸に沿って造られた石垣に使われたものである。石垣には、主に相模湾から伊豆半島周辺で採石された安山岩が用いられた。発掘調査では3段の石積みを確認し、最上段は江戸時代の終わり頃に積みなおされたものと言われる。
高輪二丁目交差点の先右手に臨済宗妙心寺派の佛日山東禅寺がある。
東禅寺は、安政6年(1859)、最初の英国大使館が置かれた場所である。文久元年(1861)には尊王攘夷派の水戸藩浪士に、翌2年には松本藩士により東禅寺襲撃事件が起きている。境内には、三重塔、鐘楼、地蔵尊などがある。
品川駅前右手に高山稲荷神社がある。
高山稲荷神社は、京都伏見稲荷大社の御分霊・正一位福聚稲荷大明神の御分霊を祭祀している。境内には、おしゃもじさまという石灯籠があり、もとは切支丹燈籠で、一説には高輪海岸で処刑された外国人宣教師を供養するために建てられたといわれ、また海中より出土したともいわれている。
品川駅を過ぎて八ツ山橋交差点を左折してJR線の架橋八ツ山橋を渡る。
渡り詰め右手角に旧八ツ山橋の親柱が建っている。左手には東屋があり、東海道品川宿のまち歩きマップがある。

道標 問答河岸跡 土蔵相模跡 鯨塚
品川第2踏切を渡ると左手に道標の標柱が建っている。
正面に 「一番 八ツ山口」、左側面に 「左 品川駅」、右側面に 「右 品川宿」 と刻まれている。この先、こうした標柱が25番の鈴ヶ森口まで続いている。
一番の道標の直ぐ先に問答河岸跡の標柱が建っている。
将軍家光が東海寺を訪れ、河岸まで見送りに来た沢庵和尚に 「海近く東(遠)海寺とは如何に」 と問うと、「大軍を率いて将(小)軍というがごとし」 と答えたという。
北品川郵便局の先のファミリーマートの前に土蔵相模跡がある。
ここは高級妓楼の 「相模屋」 があったところで、外壁が土蔵のような海鼠壁だったので 「土蔵相模」 と呼ばれた。幕末には志士が出入りし、文久2年(1862)12月12日夜、高杉晋作や久坂玄瑞らが、この土蔵相模で密議をこらし、御殿山に建設中の英国公使館を焼き払った。
北品川病院の先を左に入り2車線道路を横切ったところにある利田神社の脇に鯨塚がある。
この鯨碑(鯨塚)は、寛政10年(1798)5月1日、前日からの暴風雨で品川沖に迷い込んだところを品川浦の漁師達によって捕らえられた鯨の供養碑である。大きな鯨で、江戸中の評判となり、ついには11代将軍家斉が浜御殿 (現、浜離宮恩賜庭園) で上覧するという騒ぎになった。

法禅寺 一心寺 品川宿本陣跡 荏原神社
品海公園の先の右手路地奥に法禅寺がある。法禅寺は、芝増上寺の末寺で至徳元年(1384)の創建といわれ、 幕末の品川台場築造の際に品川御殿山から出土した中世の板碑121基を保存している。
境内には、天保の飢饉で亡くなった人の供養搭 「流民叢塚碑」 、文化7年(1810)の南無阿弥陀仏碑と刻まれた萬霊塔、推定樹齢400年のイチョウの大木、境内社の杉森稲荷社がある。
法禅寺の先に街道に面して一心寺がある。
本尊は成田山分身の不動明王である。
江戸時代末期安政2年に当時の世上開国日本幕開けの頃、品川の土地に 町民一体となり町内発展と守護の為に創建されたと言われている。平成4年に江戸三十三観音札所の三十番札所に認定されている。
街道左手に 「聖蹟公園」、「品川宿本陣跡」 と書かれた二本の木柱と 「8番 品川宿本陣跡」 の道標があるので、進んで行くと聖蹟公園がある。
公園内には、明治天皇が休憩した行在所として使われたことから 「聖蹟」 としたという聖蹟公園由来の碑、灯籠、聖徳の碑、御聖蹟の碑などがある。
街道を進み品川橋の手前を目黒川に沿って右に入ると荏原神社がある。
ここは南品川の鎮守であり、境内には明治天皇御東幸内待所奉安所碑、恵比寿像、御神木の寒緋桜などがある。鳥居の横には目黒川に架かる赤い鎮守橋がある。

品川橋 脇本陣跡 品川宿の松 天妙国寺
街道に戻り品川橋で目黒川を渡る。
品川橋は旧東海道の北品川宿と南品川宿の境を流れる目黒川に架けられ江戸時代は 「境橋」 と呼ばれていた。
また別に 「行合橋」、「中の橋」 とも呼ばれていたようである。
品川橋を渡った左手の城南信用金庫品川支店の前に脇本陣跡がある。
この高札の場所は、脇本陣跡で、百足屋(むかでや)(広瀬)治兵衛が営んでいた。
品川宿を南北に分けていた目黒川は、大正時代末頃まで大きく蛇行し、荏原神社の北側を流れていた。
南品川宿に入って街道を進むと右手に小公園があり、松が植えられている。
この松は、旧東海道品川宿のシンボルとなる 「街道松」 として、東海道が取持つ縁で29番目の宿場があった静岡県浜松市の有賀氏より寄贈された樹齢80年の黒松である。
この先のトイレのある小公園にも三島市から寄贈された松がある。
街道右手奥に赤い山門の天妙国寺がある。
弘安8年(1285)日蓮の直弟子の天目上人の創建と伝えられ、徳川歴代将軍が宿舎にしたことで徳川家との縁が深いと言われる。墓所には、お富与三郎や一刀流の開祖伊藤一刀斎の墓、遠州流元祖の本松斎一得の墓がある。
境内には、天明3年(1783)の手水鉢、本松斎一得師の碑、元禄15年(1702)に焼失した五重塔の礎石などがある。

諏訪神社 品川寺 海雲寺 海晏寺寺標
天妙国寺の先右手に南品川諏訪神社がある。
南品川諏訪神社は、天妙国寺の開基天目が自身の生国信州の諏訪神社を勧請して、弘安年中に創建されたといわれる。
境内には、竿石に彫刻の施された常夜燈、境内社の稲荷社などがある。
池上通りを横断して進むと右手に品川寺(ほんせんじ)がある。
山門前の参道横に江戸六地蔵の一つの銅造地蔵菩薩坐像、溺死者供養之塚、亀の台座の宝篋印塔、観音菩薩像などがあり、境内には七福神、神変大菩薩(役の行者石造)、庚申塔、弁天堂、稲荷堂、推定樹齢600年というイチョウの古木などがある。
品川寺に次いで海雲寺がある。
山門をくぐって右が海雲寺本堂で左が千躰荒神堂である。境内には、烏枢沙摩明王、平蔵地蔵、力石、筆塚などがあり、千躰荒神堂内には信者から奉納された27面の扁額があり、天井には纏図が描かれている。
街道の右手に京急本線の高架が見える路地に海晏寺の寺標が2基建っている。
手前には贈太政大臣岩倉公御墓参拝道と刻まれ、奥には鮫洲正観世音菩薩道と刻まれている。

海晏寺 鮫洲八幡神社 坂本龍馬像 浜川砲台跡
寺標の前を通って行くと国道15号線に突当り、道路を渡った先に海晏寺がある。
海晏寺は、鎌倉時代の建長3年(1251)に北条時頼が、鎌倉の建長寺の蘭渓道隆を迎えて開いたと伝えられている。
墓所には、岩倉具視、白井鳥酔などの墓があり、境内には、阿弥陀如来、出生弁財天、富士山元大菩薩などの石仏石碑がある。
都道420号線を渡り鮫洲駅方向へ進んで行くと右手奥に鮫洲八幡神社がある。
創建の年代は明らかではないが、拝殿前には嘉永2年(1849)の狛犬が鎮座している。境内末社として出世稲荷神社、脇にある池の中に厳島神社(弁天社)と漁呉玉(なごたま)神社(水神社)が祀られている。
立会川駅に近い公園の前に坂本龍馬像がある。
嘉永6年(1853)黒船4隻によるペリー艦隊来航の折、坂本龍馬は土佐藩品川下屋敷の近くにあった浜川砲台の警護に当たっていた。当地は、後に海運貿易の亀山社中の設立・薩長同盟の斡旋など、近代を切り開いた龍馬が志を立てたゆかりの地と言える。
浜川橋の手前を立会川に沿って左に行くと浜川砲台跡がある。
ここは、かつて土佐藩の抱屋敷で土佐から送られてくる物資の荷揚げ地であり、土佐藩は幕府の許可を得てここに砲台を造ったのである。
階段を上がると前面の建物の壁に黒船と坂本龍馬の絵が描かれている。

浜川橋 天祖諏訪神社 鈴ヶ森処刑場遺跡 磐井神社
立会川に架かる浜川橋は、別名を 「涙橋」 という。
慶安4年(1651)、品川に仕置場(鈴ヶ森処刑場)が設けられ、そこで処刑される罪人が裸馬に乗せられて江戸府内から刑場に護送されてきた。この時、それを親族らが秘かに見送りにきて、この橋で涙を流して見送ったことから 「涙橋」 と呼ばれるようになったという。
浜川橋を渡ると右手に天祖諏訪神社がある。
天祖諏訪神社は、古くは神明宮、諏訪社と称し、かつては両社とも東京湾に面し、立会川を挟んで並び祀られていたが、昭和40年に合祀したものである。
境内末社に厳島神社がある。
国道15号線に合流するところに鈴ヶ森処刑場遺跡がある。
ここには、火炙りの刑に使用された火炙台、磔の刑に使用された磔台、首洗の井が残され、南無妙法蓮華経題目碑、無縁供養塔、鈴ヶ森刑場受刑者之墓塔などの石塔石碑が建っている。
国道15号線に合流して進むと右手に磐井神社(別名鈴ヶ森神社)がある。
ここには叩くと鈴のような音がするという鈴石(非公開)と鳥の模様が浮き出た烏石(非公開)ある。境内には、江戸文人石碑群、境内社の海豊稲荷神社、御神木のイチョウの巨木があり、国道拡幅のため歩道上に残された磐井の井戸がある。

道標 美原不動尊 美原通り 王森稲荷神社
平和島口交差点の先で左に入る旧道が残っており、入口に旧東海道美原通りと刻まれた道標が建っている。
大正7年(1918)より旧東海道を拡張改修し、京浜国道を建設する工事が始まった。旧東海道であったこの美原通り付近は、商店や人家が密集していたことから、新国道は旧道の西側に建設されることとなった。そのため美原通りには、江戸時代から続く店が今も残っている。
旧道に入って間もなく右手に美原不動尊がある。
本尊は不動明王で本堂には18体の仏像が安置され、境内には御堂があり生長地蔵菩薩が安置されている。
大正7年から国道15号線の拡幅工事が行われたが、美原通りは商店や人家が密集していたことから、国道は旧街道の西側になったため昔の面影を残すことができた通りである。
街道脇には旧東海道と刻まれた石柱や町の説明が記された立札が所々に建っている。
街道右手の路地奥に赤い幟の立つ王森稲荷神社がある。
小さな神社で狛狐は金網で保護されている。境内には、日露戦争に出征して無事に帰還された者が奉納した征露紀念碑が建っている。

道標 大森区役所跡 貴船神社 梅屋敷跡
内川に架かる内川橋を渡ると渡り詰めに道標が建っている。
この道標には羽田道(するがや通り)と刻まれており、この道標から左に入る道がするがや通りである。これは内川のたもとに旅籠駿河屋があったことに由来するもので、羽田弁天や川崎大師への参拝道であった。
旧街道から国道15号線に合流して三叉路に建つ大森警察署の裏の路地に大森区役所跡がある。
昭和7年から昭和15年まで大森区役所があったところで、現在は大森警察署となっている。
大きな碑は日清戦役従軍記念碑で、小さい碑は西南戦役従軍記念碑で、いずれも山形有朋の筆による。
大森町駅入口交差点を過ぎて街道右手に貴船神社がある。
この付近にはもう一つ大きな貴船神社があるが、ここは旧大森村のうち、東海道に面した本宿の鎮守である。
神社の隣に小御堂があり、閻魔大王と寛文5年(1665)の延命地蔵尊が安置されている。
街道を進むと右手に梅屋敷公園がある。
ここは文政年間(1818~30)の初めに、和中散という道中常備薬を商う山本久三郎が、梅の名木を集め、東海道を往来する旅人を相手に茶店を開いたところである。
園内には、明治天皇行幸所蒲田梅屋敷碑、梅路の句碑、狂歌堂真顔の歌碑、復元された里程標などが建っている。

夫婦橋 妙安寺 蒲田八幡神社
呑川に架かる夫婦橋を渡ると京急蒲田駅前に出る。
昔は橋のすぐ上流に堰があり、呑川の水を分けた小さな用水が脇を流れており、呑川と用水に架かる二つの橋が並んでいたことから夫婦橋と呼ばれ、江戸時代からその名が知られていたそうである。
京急蒲田駅の北側に妙安寺がある。
この地の地頭行方修理亮義安の室、妙安尼は義安の死後この地の豪族、兄斎藤政賢の屋敷内に庵を結び、天正17年(1589)に没し、その後この庵室が妙安寺になった。
ここには慶長17年(1612)に造立された日蓮上人座像(非公開)、寛永20年(1643)に造立された妙安尼供養塔がある。
妙安寺の隣に蒲田八幡神社がある。
創祀は不祥であるが、境内に小円墳があったことや伝説、史実などから、縄文・弥生時代を経て古くから聖地として村人の信仰の場であったと言われている。
鳥居をくぐると左手に満願火伏稲荷神社、中央に拝殿・本殿、その右手に天照皇大神と日本武尊を祀る天祖神社がある。


平成27年3月5日(木) ☀  京急蒲田~保土ヶ谷   18.0㎞
天気予報ではこの先も雨が降ったりなど安定した日は少ないとのことで、終日晴れ間が続くという今日を逃すことはできないと朝5時に起床し、通勤ラッシュの始まる前に家を出て京急蒲田には7時前に到着した。

京急蒲田駅前 六郷神社 旧道口 北野天神
京急蒲田駅前の横断歩道上からこれから歩く国道15号線を望む。
道路も京急蒲田駅も立体構造になっていて何となく味気ないが、この先街道らしいところもあるだろうと思って出発した。
街道を進んで東六郷三丁目交差点の先左側に六郷神社がある。
社伝によれば天喜5年(1057)源頼義、義家の父子が石清水八幡に武運長久を祈ったところ、前九年の役に勝利をおさめたので、凱旋後、その分霊を勧請したのが創建という。
境内には源頼朝寄進の手水石、梶原景時寄進の神橋、貞享2年(1685)の狛犬、旧六郷橋の親柱などがある。
六郷神社の先に六郷川(多摩川)までの短い旧道が残っている。
六郷橋の手前右手に北野天神がある。
別名 「落馬止め天神」 または 「止め天神」 と言い、徳川8代将軍吉宗が乗る馬が暴走し、あわや落馬というときに、将軍の落馬を止めたのがこの天神様の御加護だと言われている。
境内には、平癒塚、止め塚、千年石、万年石などがある

六郷橋 道標 田中本陣跡 一行寺
北野天神から東側に出て六郷橋を渡って行くと渡り詰めに川崎大師の燈籠が建っている。
ここは六郷の渡場跡で明治天皇六郷御渡碑が建っており、碑面に舟橋のレリーフが描かれている。傍らには長十郎梨のふるさと解説、橋の欄干には渡し船のモニュメントがある。
六郷渡跡から六郷橋をくぐって旧道へ入ると左手に旧東海道の標柱が建っている。この先所々で見かける標柱である。
この向かい側には六郷の渡しと旅籠街の解説がある。
旧道に入ると稲荷横丁の標柱、新宿という町の解説などがあり、次いで田中本陣跡の標柱と解説がある。
田中本陣は、寛永5年(1628)に設けられた宿内最古の本陣であり、ここ出身の田中休愚は宿の財政再建に尽力した人物である。
街道右手の本町一丁目に浄土宗の一行寺がある。
生憎門扉は閉ざされて境内には入れなかったが、一行寺は江戸時代の初め川埼宿の整備が進む頃に開創した寺で、閻魔信仰で賑わったという。また非常の際には、田中本陣の避難所にも当てられていた。

宗三寺 砂子の里資料館 問屋場跡 稲毛神社
一行寺の隣に曹洞宗の宗三寺がある。
宗三寺は中世の河崎庄において信仰を集めた勝福寺の後見とみられる宿内一の古刹で、墓所奥に川崎宿貸座敷組合の建立した遊女の供養碑がある。
生憎本堂の修繕中で墓所には入れなかったが、墓所前の六地蔵を見ることはできた。
街道に戻ると右手に海鼠壁風の江戸町屋の外観の砂子の里美術館がある。
ここは東海道川崎宿をテーマにした資料館で浮世絵を中心に企画展示を行っている。
砂子の里資料館の直ぐ先の左手のセブンイレブンが問屋場跡である。
ここでは、約30名の問屋場役人が伝馬人足、飛脚、本陣の休泊などの宿場業務を監督していた。
川崎市役所の先の国道15号線に面して稲毛神社がある。
江戸時代には 「山王社」 として社領20石の御朱印状を拝領し、川崎宿および河崎七ヶ村の鎮守として崇めれている。
境内には、小土呂橋遺構、天地睨みの狛犬、御神木の大銀杏、正岡子規の句碑、たくさんの境内社などがある。

いさご通り 佐藤本陣跡 旧橘樹郡役所跡 小土呂橋跡
京急川崎駅前から延びる市役所通り(県道9号線)を横切るといさご通りの大きな標柱が建っている。
標柱の左側のビルは川崎信用金庫である。
街道を進むと川崎信用金庫の角に佐藤本陣跡がある。
ここには佐藤惣之助生誕の地碑があり、佐藤惣之助のレリーフが描かれている。佐藤惣之助は、この佐藤家の末裔にあたり、昭和5年頃から歌謡曲の作詩を手がけ始め、赤城の子守唄、東京娘、人生の並木道、湖畔の宿などがある。
佐藤本陣跡の直ぐ先の川崎消防団第二分団の横に旧橘樹郡役所跡記念碑がある。
明治維新後、川崎市のほぼ全域と横浜市鶴見区・神奈川区などは神奈川県橘樹郡という行政区に含まれており、大正2年(1913)に川崎宿の中心であった砂子に建てられた。
新川通りの小土呂橋交差点を横断すると右手に小土呂橋の親柱が保存されている。
小土呂橋は、幅5mほどの新川堀(現新川通り)に架かっていた橋であり、先に寄って来た稲毛神社に橋の遺構が残っている。

教安寺 川崎宿京入口 芭蕉句碑 人骨慰霊塔
小土呂橋跡から最初の信号機のある交差点を右折すると浄土宗の教安寺がある。
山門前の石灯籠は冨士講の信者によって建てられたもので、天保11年(1840)と刻まれている。また境内の梵鐘は江戸時代に鋳造されたものである。
教安寺から程なく街道右手に川崎宿京入口跡がある。
幕末には外国人警護のために関門番所が置かれていた。
ここには宿場に泊まる大名の関札が掲げられていたが、その複製が掲げれれており 「加藤遠江守宿」 と書かれている。
街道を進んで川崎警察署の先右手に祠に納まった芭蕉句碑がある。
元禄7年(1694)、江戸深川から郷里の伊賀に返る途中川崎宿に立ち寄り、門弟たちとの別れを詠んだ句である。碑には 「麦の穂をたよりにつかむ別れかな」 と刻まれている。句碑の先には小祠に地蔵尊が安置されている。
芭蕉句碑の先は京急八丁畷駅で、京急の踏切を渡ると左手に人骨慰霊塔が建っている。
八丁畷付近では、江戸時代から多くの人骨が発見され、戦後になっても掘り出されているが、江戸時代の大火・洪水・飢饉などの災害で落命した者を川崎宿の外れなどに埋葬したと言われている。付近には川崎中学校生徒による歌川広重の絵がパネルで作成されている。

熊野神社 専念寺 市場村一里塚跡 庚申塔
八丁畷駅から市場東中町に入ると右手に熊野神社がある。
御祭神は、国常立尊、伊邪奈岐尊・伊邪奈美尊である。境内には植栽が無くて非常に明るく、拝殿前には慶應2年(1866)の狛犬、明和元年(1764)と刻まれた石柱、改元記念碑などがある。
街道を外れて京急鶴見市場駅前に浄土宗の一応山専念寺がある。
ここには紫式部の持念仏 「市場観音」 、天正年間富士大噴火の際に飛来したという夜光石が祀られている。
境内には弘安2年(1272)の延命子育地蔵尊、富士浅間大菩薩、境内社の伏見稲荷がある。
街道に戻ると左手に市場村一里塚跡がある。
日本橋から数えて5里目である。
ここは左側の一里塚であり、昭和初期までは塚上に榎の大木があった。
塚に当たるところに稲荷社があり、手前に武州橘樹郡市場村一里塚碑、一里塚由来記碑が建っている。
程なく街道右手に祠に納まった宝暦4年(1754)の一面六臂の青面金剛の庚申塔がある。
この隣には赤い鳥居の下町稲荷社がある。

金剛寺 鶴見川橋 鶴見橋関門旧跡 道標
下町稲荷社の先を右手に入っていくと真言宗智山派の光明山金剛寺がある。
金剛寺は、東海三十三所観音霊場第9番となっており、
境内には弘法大師御遠忌供養塔と供養碑、子育地蔵尊、廻國供養塔などが建っている。
金剛寺の先は鶴見川に架かる鶴見川橋を渡って行く。
鶴見川橋は、大正末期までは鶴見橋と呼ばれており、初代の橋は徳川家康が東海道を整備した慶長6年(1601)頃に架けられたと云われている。
鶴見橋を渡ると左手に鶴見橋関門旧跡がある。安政6年(1859)横浜開港とともに神奈川奉行は外国人警護の為に各所に関門を設け、厳しく取り締った。
ここ鶴見橋関門は万延元年(1860)に設置された。さらに文久2年(1862)の生麦事件発生により、川崎宿から保土ヶ谷宿に20か所の見張り番所が設けられた。
街道右手に寺尾稲荷道の道標が建っている。
ここは江戸時代の寺尾稲荷社へ向かう道との分岐点である。
この道標はレプリカで、当時の道標は鶴見神社の境内に保存されている。

鶴見神社 信楽茶屋跡 鶴居堂跡 さぼてん茶屋跡
鶴見駅東口入口交差点を右手に進むと鶴見神社がある。
鶴見神社の社名は平安時代の末期、源頼朝が京へ上洛する祭に、富士の裾野、現静岡県磐田市の鶴ガ池で放った鶴がこの地に飛来して舞う姿が見られたことに由来している。境内には移設された寺尾稲荷道の道標、浅間神社ほか6社の境内社がある。
鶴見神社から街道に戻ると左手に信楽茶屋跡がある。
らーめん信楽茶屋の辺りに解説があり、信楽茶屋は東海道の立場として栄え、鶴見村の中でも大きい茶店であったという。
信楽茶屋跡の直ぐ先の住まいの情報館前に鶴居堂跡がある。
ここには咳の特効薬 「苦楽丸」 で街道筋に知られた 「鶴居堂」 を営む黒川四郎左衛門の屋敷があった。鶴居堂の名は、ある日、4羽の丹頂鶴がこの屋敷の庭先に舞い降りたことに由来するという。鶴居堂は明治の末頃に姿を消したというが、「苦楽丸」 の看板を掲げた 「黒川薬局」 の建物が、昭和20年代の初めまで、現在の鶴見銀座商店街にあった。
京急鶴見駅を越えて直ぐのパン屋エスプランの前にさぼてん茶屋跡の石碑がある。
石碑には、「旧東海道鶴見 覇王樹茶屋跡 みぎひだり つのを出して世の中を 見たるもおかし さぼてんの茶屋」 と刻まれている。
なお、さぼてんは鶴見大火(1911)で焼けてしまい、昭和27年(1952)にパン屋になったという。

慶岸寺 正泉寺 道念稲荷 生麦事件発生現場
下野谷町入口交差点で国道15号線を跨いで鶴見線のガードをくぐって行くと右手に浄土宗の入倉山究竟院慶岸寺がある。開山は慶岸上人(天正9年(1581))示寂)であり、本堂には、阿弥陀三尊、善導・法然両大師、開山像等が祀られている
参道脇には宝永6年(1709)の子育地蔵尊があり、境内には文化3年(1806)の廻國供養塔、六地蔵尊などがある。
街道を進むと左に正泉寺がある。
正泉寺は、真言宗智山派の寺院で南海山と号し、寛永元年(1624)に創建したという。
境内には、弘法大師御遠忌塔、稚児大師普濟供養碑、地蔵尊などがある。
正泉寺の直ぐ先、街道の右手に赤い鳥居の道念稲荷がある。
鳥居の前には明和3年(1766)の地蔵尊、寛文8年(1668)の地蔵尊が建ち、境内には蛇も蚊も発祥の地碑がある。蛇も蚊もは、約300年前に悪疫が流行したときに萱で作った蛇体に悪霊を封じ込めて海に流したことに始まるという。
街道を進むと右手に生麦事件発生現場がある。文久2年(1862)8月21日、島津久光の行列を乱したイギリス人を薩摩藩士が殺傷した事件である。イギリスは幕府・薩摩藩に犯人引き渡しと賠償金を要求し、幕府は償金を支払ったが薩摩藩は拒否したため薩英戦争の原因となった。
この直ぐ近くに小さな社の御社母子稲荷神社がある。

神明神社 生麦事件碑 才兵衛稲荷 遍照院
街道を進んで県道6号線を渡ると右手に神明神社がある。
鳥居の横には、延宝5年(1677)の庚申供養塔、青面金剛の庚申塔などがあり、境内には安政6年(1859)の手水石、境内社の稲荷社がある。
神明神社から程なく生麦事件碑が祠に納まっている。
この事件碑は、横浜環状北線建設工事のため平成28年まで仮移設をしている。
生麦一丁目交差点で国道15号線に合流し、街道左側を進んで行くと駐車場奥に才兵衛稲荷がある。
その昔、浄財の5両の金を預かった僧が子安の茶屋で金を紛失してしまい、落胆した僧は海に身を投げてしまったが、その死体は何度沖へ運んでも茶店の裏へ流れ着くので不憫に思った村人が稲荷社を建てて祀ったと云う。
才兵衛稲荷の先の子安通り交差点の右手に遍照院がある。
参道には京急線が横切っているので踏切を渡って行くと山門の脇に青面金剛の庚申塔があり、境内には六地蔵尊、弘法大師一千年御忌塔、御神木のタブの木がある。

庚申塔 良泉寺 笠のぎ稲荷神社 能満寺
街道を進んで入江橋の袂を右に入ったところに祠に納まった青面金剛の庚申塔がある。
京急本線の神奈川新町を過ぎた右手に良泉寺がある。
良泉寺は海岸山と号し、浄土真宗大谷派に属している。開港当時、諸外国の領事館に充てられることを快よしとしないこの寺の住職は、本堂の屋根をはがし、修理中であるとの理由を口実にして、幕府の命令を断ったと言われている。
良泉寺を出て街道右手の社標を右に進むと京急本線のガードをくぐった先に笠のぎ稲荷神社がある。
境内には、横浜市指定有形文化財の板碑があり中央に南無阿弥陀仏の六文字が薬研彫り刻まれている。また御神木の大楠がある。
程なく街道右手に高野山真言宗寺院の能満寺がある。
能満寺は、正安元年(1299)に内海新四朗光善という漁師が、海中より拾い上げた仏像を安置するために創建したと伝えられており、本尊は木造座像の虚空蔵菩薩で海中より出現したと伝えられている。

神明宮 金蔵院 熊野神社 高札場
能満寺の隣に神明宮がある。
神明宮の草創は定かではないが、別当能満寺の草創と同じ正安元年(1299)年の勧請と言われ、この神社と能満寺が極めて密接な関係にあったと言われている。
境内には、舞殿、社務所、金生水と書かれた手水石などがある。
神奈川二丁目交差点の右手に金蔵院がある。
金蔵院は、京都醍醐三宝院の開祖勝覚僧正により平安末期に創られた古刹である。その後、徳川家康から十石の朱印地を許された。境内には、弘法大師像、宝篋印塔、大震火災横死者供養塔、浪切不動尊、徳川家康の御手折梅などがある
金蔵院の隣に熊野神社がある。
熊野神社は、平安末期に紀伊の熊野権現を祀り 「権現様」 として親しまれ、元々は権現山(幸ヶ谷山上)にあったが、江戸中期に金蔵院境内に移り、神仏分離令により金蔵院から分かれたものである。
鳥居の前には嘉永年間(1848~54)の狛犬が鎮座し、境内には御神木の推定樹齢400年のイチョウの大木、神奈川一番組之碑などがある
熊野神社前を進んでいくと横浜市神奈川地区センターの前に高札場が復元されている。
かつて神奈川宿の高札場は、現在の神奈川警察署西側付近にあった。
その規模は、間口約5m、高さ3.5m、奥行1.5mと大きなものであった。

神奈川町本陣跡 宗興寺 青木町本陣跡 洲埼大神
国道15号線に戻ると小野モータース前に本陣跡の解説がある。
神奈川宿には、滝の川を挟んで東の神奈川町、西の青木町に本陣が置かれ、神奈川町本陣跡は小野モータース辺り、青木町本陣跡は神奈川公園の東側辺りで、神奈川町は石井家(源左衛門)、青木町は鈴木家(源太左衛門)が勤めたという。
この先で滝の川を渡って行く。
滝の川を越えると右手に宗興寺がある。
宗興寺は、曹洞宗寺院で開塔山日輪院と号し創建年代は不詳だが古くから存在していたと考えられている。
開港当時、アメリカ人宣教師で医者であったヘボン博士がここに施療所を開き、これを記念する石碑が境内に建てられている。
国道15号線の左側のランドシティ横浜ポートサイドの角に本陣跡の解説がある。
慶長6年(1601)、東海道に宿駅・伝馬が定められたとき、市域では神奈川、保土ヶ谷の二宿が設けられた。神奈川宿は、滝の橋を挟んで、東の神奈川町、西の青木町に本陣が置かれ、神奈川町は石井家(源左衛門)、青木町は鈴木家(源太左衛門)が勤めたという。
ここは青木町本陣跡があった辺りである。
中央公園市場交叉点の先の右手に宮前商店街入口があり、間もなく右に洲崎大神がある。
洲崎大神は源頼朝が安房国(現、千葉県)一宮の安房神社の霊を移して建久2年(1191)に創建したと伝えられている。
二の鳥居の左手に境内社の稲荷社が有り、狛犬は岩山に動きのある姿を見せている。拝殿は閉ざされており、これまでの神社とは趣が違う

普門寺 甚行寺 本覚寺 大綱金刀比羅神社
次いで街道右手に普門寺がある。
普門寺は洲崎山と号し、真言宗智山派に属し、山号の洲崎は洲崎大神の別当寺であったことによる。また、寺号の普門は洲崎大神の本地仏である観世音菩薩を安置したことにより、観世音菩薩が多くの人々に救いの門を開いているとの意味である普門とされたと伝えられている。江戸後期には本堂・客殿・不動堂などの建物を持ち、開港当時はイギリス士官の宿舎に充てられた。
普門寺の先の右手の路地を入って行くと浄土真宗高田派の真色山甚行寺がある。
明暦2年(1656)第1世意円上人が本山専修寺の第14世を招いて、この寺を草創したと伝えられている。開港当時、本堂は土蔵造りであったが、改造を加えてフランス公使館に充てられたといわれている。大正12年の関東大震災で全ての建物を倒壊焼失し、その後、本堂・客殿を鉄筋コンクリート造で再建している。
甚行寺の先はJR東海道本線、京急本線が走っており、青木橋を渡ると右手の坂上に曹洞宗の青木山本覚寺がある。
本覺寺は、栄西禅師が嘉禄2年(1226年)に創建したと伝えられ、開港当時はアメリカ領事館となっており、山門を白ペンキで塗られた。
境内には、子育地蔵、涅槃佛、横浜市名木古木指定のスダジイ、全国塗装業者合同慰霊碑などがある。
旧道に入ると右手に赤い鳥居の大綱金刀比羅神社がある。
この神社は平安末期の創立で、もと飯綱社といわれ、境内後方の山上にあった。江戸時代には一里塚が置かれていた。日本橋から数えて7里目である。
境内には、金刀比羅宮、稲荷社、荒神社、弁財天と書かれた龍神社、御神木の松から彫りだした天狗の面がある。

安藤広重の神奈川 田中家 神奈川の台 神奈川台関門跡
街道左手の料亭 「滝川」 の壁面に安藤広重の東海道五十三次之内神奈川が貼られている。
絵の隣には、十返舎一九の東海道中膝栗毛から 「たどり行くほどに金川の台に来る。ここは片側に茶屋軒をならべ、いづれも座敷二階造、欄干つきの廊下、桟(かけはし)などわたして、浪うちぎはの景色いたってよし」 が記されている。
料亭 「滝川」 の先に田中家がある。
田中家は文久3年(1863)の創業で、坂本龍馬の妻・おりょう所縁の老舗料亭である。
安藤(歌川)広重の神奈川宿台之景に田中家の前身 「さくらや」 が、二階建ての旅籠として描かれている。おりょうが田中家で働き始めたのは明治7年(1874)、勝海舟の紹介で働いていたと伝えられている。
田中家の向かいに神奈川の台の解説がある。
ここ台町あたりは、かつて神奈川の台と呼ばれ、神奈川湊を見下ろす景勝の地であったという。描かれている絵には、田中家の前身の 「さくらや」 が描かれている。
坂を上ると右手に神奈川台関門跡がある。
開港後、外国人が相次いで殺傷されたが、その犯人がなかなか捕えられないため、イギリス総領事オールコックを初めとする各国の領事たちが、幕府を激しく非難した。そこで幕府は、横浜周辺の主要地点に関門や番所を設け、警備体制を強化した。
ここには神奈川台関門跡碑と権大納言鳥丸光広の歌碑がある。

勧行寺 浅間神社 追分 松原商店街
街道を進んで行くと首都高速神奈川2号三ツ沢線高架の右手に勧行寺がある。
勧行寺は文禄4年(1595)に創建された法華宗の寺院である。
境内には、天然理心流の開祖近藤内蔵助藤原長裕の墓があり、墓石には近藤先生之墓と刻まれている。
宮谷小学校入口の先に浅間神社がある。
浅間神社の創建年代は不詳であるが、承暦4年(1080)に富士浅間神社の分霊を奉祀したと言われている。
一の鳥居の周囲には文政12年(1829)の石灯籠などがあり、二の鳥居の先の丘の上に拝殿がある。境内の斜面には十基の横穴墓があり、そのうち開口したものが 「富士の人穴」 と称され富士山まで続いていると信じられていたという。
街道を進むとY字路があり、追分道標がある。
右は八王子道で、安政6年(1859)の横浜開港以後は、八王子方面から横浜へと絹が運ばれるようになり、「絹の道」 とも呼ばれた。
追分から左の街道を進んで行くと、道路まで品物を並べた松原商店街の中を通る道となる。

江戸方見附跡 橘樹神社 帷子橋 旧帷子橋跡
混雑した松原商店街を抜けると左手に江戸方見附跡がある。
江戸方見附は、各宿場の江戸側の出入り口に設置され、土盛をした土塁の上に竹木で矢来を組んだ構造のため土居とも呼ばれている。
ここから京都側の出入口に設置された上方見附まで19町(約2㎞)ほどあった保土ヶ谷宿に入ることになる。
江戸方見附の先の右手に橘樹神社がある。
橘樹神社は、かつて牛頭天王社と称し、天王町の由来ともなった神社で、文治2年(1186)に京都祇園八坂神社を勧請して創建したといわれる。
境内には、明治天皇東幸遺蹟碑、力石、延宝6年(1678)の石盥盤、庚申塔3基、神田不動尊などがある。
橘樹神社の先で帷子川(かたびらがわ)に架かる帷子橋を渡る。この先には相模鉄道本線の天王町駅がある。
相模鉄道本線のガードをくぐると天王町駅前公園があり、旧帷子橋が復元されている。
帷子川の流れが相模鉄道本線の南側から北側に付け替えられたため帷子橋の位置も変わっており、かつては、この天王寺町駅前公園の一部にあった。

庚申塔 神明社 香象院 見光院
大門通り交差点を右に進むと左手に庚申塔が2基祠に納まっている。
この庚申塔の脇には、古東海道の道標が建っている。
庚申塔の先に神明社がある。
神明社は、平安時代中頃(970年)の創建と伝えられ、横浜市内では最も由緒の深い神社の一つとされている。
鳥居の先の参道脇には御神燈があり、境内には人形流し、水神社、稲荷社などたくさんの境内社がある。
街道に戻って進むと右手に香象院がある。香象院は高野山真言宗の寺院で新四国東国二十六番薬師如来である。
境内には、延命地蔵尊がある。
香象院の隣に浄土宗の大誉山見光院がある。見光院の開山は江戸時代初期(1629)で、保土ヶ谷の住人で熱心な浄土宗の信者、茂平夫妻が開祖と言われる。
境内には旅立ちの法然像などがある。

天徳院 大蓮寺 遍照院 保土ヶ谷駅
見光院の先に曹洞宗の天徳院がある。
天徳院の開山は安土桃山時代(1573)で、本尊は運慶作といわれる地蔵菩薩坐像である。山門前には、本尊地蔵大菩薩曹洞宗天徳院と刻まれた寺標が建っている。
天徳院の隣に日蓮宗の大蓮寺がある。
大蓮寺の開山は江戸時代初期(1625)で日蓮上人が泊まった家を法華堂に改修したのが寺の始まりと言われている。
内には、徳川家康の側室おまんの方お手植えのざくろの木、百薬の泉がある
反則センター交差点を右に入ると高野山真言宗の医王山遍照院がある。
境内には、弘法大師像、地蔵尊、仏足石などがある。
今回の街道歩きは日暮れも近いので保土ヶ谷で終了した。

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