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日本橋~保土ヶ谷 次へ   大磯~箱根

東海道   (保土ヶ谷~大磯)

保土ヶ谷から大磯までは、権太坂を上り、柏尾川沿いを下り、戸塚宿、藤沢宿を経て相模川を渡り、平塚宿、大磯宿の全体的には比較的に(権田坂を除けば)平坦な35㎞の道程である。

平成27年3月11日(水) ☀  保土ヶ谷~藤沢  17.4㎞
3月に入って天候が日々移り替わり雨の心配のない日を選んで歩いているが、今日も終日安定しているという予報だったので早朝5時30分の電車に乗り込み、午前7時に保土ヶ谷駅に到着。街道方向からのたくさんの会社員とすれ違いながら前回の途中まで出てスタートとなる。

旧道口 助郷会所跡 問屋場跡 高札場跡
保土ヶ谷駅前の分岐で右側の道に入って行くと、突当りが国道1号線である。 街道に入って直ぐ右側の自動販売機の隣に助郷会所跡がある。
宿場で賄いきれない人馬を指定された周辺の村々から動員することを助郷といい、指定された村を助郷村という。享保10年(1725)の保土ヶ谷宿の助郷村は全部で40ヶ村あったという。こうした助郷村々は、助郷動員の指示に対応するため、問屋場の近くに助郷会所という事務所を設けていた。
続いて、街道左側に問屋場跡がある。
大名行列の宿泊の手配を担っていた問屋場は、宿場の中でも最も重要な施設の一つであった。宿場ではこの業務を勤めるのに十分な数の人足と馬を用意するよう定められており、問屋場には問屋を筆頭に、年寄、帳付、馬指などの宿役人が詰めていた。
問屋場の先右手に高札場跡がある。
宝暦13年(1763)に普請された保土ヶ谷宿の高札場は、幅2間半(約4.5m)、高さ1丈(約3m)の規模であったという。宿場の高札場には一般の法令等に関するものだけでなく、隣の宿場までの荷物の運搬料金や旅籠屋の木賃(宿泊料)等を細かく記載した高札も掲げられた。

道標4基 脇本陣跡 本陣跡 脇本陣跡
JR東海道本線の手前角地に道標が4基残っている。ここは旧東海道の東側で、金沢・浦賀往還の出入口にあたり、通称金沢横町とよばれた。金沢・浦賀往還には、円海山、杉田、富岡などの信仰や観光の地が枝道にあるため、道標として4基が建立された。
国道1号線に合流した右手に大金子屋(八郎右衛門)脇本陣跡がある。
文化元年(1804)の記録によると旅籠と記載されており、文政(1820)年間になってから脇本陣として扱われるようになったといわれる。
天保(1830)年間の大金子屋の規模は、建坪119坪(約393㎡)、間口7間(約12.7m)、奥行17間(約30.9m)、室数14の玄関付であった。
脇本陣の向かい側に本陣跡があり、本陣門が残されている。
保土ヶ谷宿の本陣は、小田原北条氏の家臣刈部豊前守康則の子孫といわれる刈部家が代々務めている。また同家は、問屋、名主を兼ねる保土ヶ谷宿で最も有力な家で、安政6年(1859)に横浜が開港する際、当時の当主が総年寄りに任ぜられ、初期の横浜町政に尽力した。
本陣跡の直ぐ先に藤屋(四郎兵衛)脇本陣跡がある。天保年間(1830-43)の藤屋(四郎兵衛)の規模は、建坪119坪(約393㎡)、間口6間半(約11.8m)、奥行18間(約32.7m)、室数14の玄関付であった。

脇本陣跡 旅籠屋跡 大仙寺 茶屋本陣跡
藤屋脇本陣の先に水屋(与右衛門)脇本陣跡がある。天保年間(1830-43)の水屋(与右衛門)の規模は、建坪128坪(約423㎡)、間口8間(約14.5m)、奥行16間(約29m)、室数14の玄関門構付であった。
水屋脇本陣跡標柱の隣に、保土ヶ谷宿の宿泊・休憩施設の案内が建っている。
水屋脇本陣の直ぐ先に旅籠屋の本金子屋(伝左衛門)跡がある。この建物は明治2年(1869)に建替えられたものと言われている。
天保年間(1830-43)の本金子屋(伝左衛門)の規模は、建坪79坪(約261㎡)、間口7間(約12.7m)、奥行11間半(約20.9m)、室数13であった。
旅籠屋(本金子屋)跡の先の信号で国道1号線を渡ると、右手の東海道本線を越えたところに高野山真言宗の西方山大仙寺がある。
大仙寺は、天禄年間(970-73)の創建と言われ、その後、幾多の変遷を経て、応永年間(1394-1427)に現在の山号・寺号に改めたと言われている。
境内には、浄行地蔵菩薩、毘沙門天堂、地蔵堂、弘法大師像などがある。
街道に戻ると右手に茶屋本陣(九左衛門)跡がある。茶屋本陣は、本陣を休息所としない多くの大名がここで休息したと伝えられる。
元治元年(1864)の茶屋本陣(九左衛門)の規模は、建坪63坪(約208㎡)、間口10間半(約19.1m)、奥行6間(約10.9m)、室数8、門構付であった。

保土ヶ谷の一里塚 外川神社 樹源寺 稲荷神社
街道左側に保土ヶ谷の一里塚跡があり、小さな塚が復元されてる。この辺りは、保土ヶ谷宿の京都側に当たる上方見附があったところで、ここまでが保土ヶ谷宿であった。
ここは江戸日本橋から数えて8里目の一里塚跡である。
保土ヶ谷一里塚の先に仙人橋があり、その先に外川神社がある。
江戸時代から保土ヶ谷宿内に出羽三山講があり、幕末の頃、その講元で先達でもあった淸宮輿一が、湯殿 ・月山・羽黒の三山の霊場を参拝した際に、羽黒山麓の外川仙人大権現の分霊を勧請したものである。明治初年、神仏分離令の発布によって祭神を日本武尊とし、外川神社と改称した。
保土ヶ谷二丁目交差点で国道1号線から右手の旧道に入って行くと街道右手に日蓮宗の樹源寺がある。樹源寺の名称は大ケヤキに因んで 「樹を源とするお寺」 と命名されたが、残念ながら現在このケヤキは無い。
庫裏の前には、築山や流水であしらわれた見事な和風庭園がある。
街道に戻って進むと、左手に赤い鳥居の並ぶ稲荷神社がある。
参道には、屋根で覆われた庚申塔がある。

権太坂改修碑 権太坂道標 投込塚 立場茶屋若林家
元町ガード交差点を左折して今井川に架かる元町橋を渡り、右手の坂に入ると左手に赤い鳥居の小社が有り、小社の前に権太坂改修碑が建っている。旅人が坂の名を尋ねたところ、耳の遠い老人が自分の名前を聞かれたと思い込み、 「権太と申します」 と答えたのがその名の由来ともいわれる。 街道を進むと横浜横須賀道路に架かる権太坂陸橋があり、その先に権太坂の道標がある。
当時、権太坂の上から目の下に見える神奈川の海は大変美しかったそうである。旅人にとっては印象深い場所になり、浮世絵などにも描かれる保土ヶ谷宿の名所ともなった。
権太坂を登りきると、右手に富士山の頂が見える。
坂を下って横浜市立境木小学校・中学校に突当り、街道をそれて左に入ると投込塚がある。
権太坂は、旧東海道品濃坂に次ぐ難所であり、往時旅人の行倒れ者が多く、ここに埋葬したものである。
投込塚之跡碑の周囲には、庚申塔、馬頭観音などがある
街道に戻って先に進むと右手に門を構えた若林家がある。
ここは立場茶屋跡で茶屋本陣並みの格式を備え、参勤交代の大名が休息した。

境木延命地蔵尊 武相国境之木 道標 焼餅坂
若林家の隣に境木延命地蔵尊がある。
相模国鎌倉腰越の海辺に漂着した地蔵が、土地の漁師の夢枕にたち江戸へ運んでくれとお告げが有ったので運ぼうとしたが、境木で動かなくなったので、村人達が引き取り御堂に安置したところ村が繁盛したという。
境木延命地蔵尊の前の広場に武相国境之木が建っている。
ここは武蔵国と相模国の国境で、江戸時代にはその印として榜示杭あるいは境杭と呼ばれる木柱が建てられ、境木の由来になったと伝えられている。台座には武蔵国と相模国の地図が描かれ、周囲に宿名が刻まれている。
境木地蔵尊前交差点の旧道口に道標が建っている。
右環状二号、左旧東海道と刻まれている。
道標に従って左の坂に入ると、坂の途中に焼餅坂の解説がある。
焼餅坂は当時の品濃村と平戸村の境にあり、一町半(約160m)の坂道で、坂の傍の茶店で焼餅を商っていたので、焼餅坂と名付けられたという。別名牡丹餅坂(ぼたもちさか)とも呼ばれており、戸塚を描いた浮世絵には、山坂や焼餅の絵がしばしば登場する。

品濃一里塚 福寿観音 品濃坂 赤関橋
焼餅坂を下って品平橋(しなひらはし)を渡ると左手の丘上に稲荷社がある。その丘下の竹藪にある庚申塔を過ぎると上り坂となり、右手に品濃一里塚跡がある。ここは江戸日本橋から数えて9里目である。 一里塚から程なく右手に福寿観音がある。
東戸塚駅誘致に貢献した福原政二郎氏が観音菩薩を信仰していたこともあり建てられた近年の観音堂である。御堂の前には顕彰碑、子育地蔵尊がある。
福寿観音の先を道なりに進むと、左手に旧東海道の道標がある。ここは品濃坂といわれ、朝早く江戸を発ち、日暮れまでに戸塚宿へと向かう旅人には、宿場町までもう一歩のところであった。一方、江戸方面へ向かう人にとっては、最後の急な登り坂で、この難所を越えれば境木の立場まであと一息であった。
坂の途中には明治初期の品濃坂の写真と解説があり、横断歩道橋の手前からは富士山をb望むことができる。
品濃坂から品濃坂横断歩道橋を渡って、左に下りて行くと、直ぐ右に入る旧道がある。
旧道を進んで水路に沿って歩いていくと、平戸永谷川に出る。この平戸永谷川に架かるのが赤関橋であり、橋の親柱には旅人の姿が描かれている。

王子神社 益田家のモチノキ 大山前不動 史跡への小径
街道を進むと左手の小山の中に王子神社がある。本殿の下には護良親王の首が葬られているという。
境内は林の中ということもあるが、涼しくて静まり返っている。本殿脇には境内社の柏尾稲荷社、子の神社などがある。
不動坂交差点の左手高台に神奈川県指定天然記念物の益田家のモチノキがある。
モチノキ(モチノキ科)は暖地に育成する雌雄異株の常緑広葉樹で、高さは通常3~8mに達し、4月ごろに黄緑色の群生した小さな花を咲かせ、球形の果実を付けて赤く熟する。この樹皮より鳥もちを作ることからモチノキの名の由来があり、古くから人々によく親しまれている木である。
不動坂交差点の手前右手の道に入ると大山前不動がある。
ここは江戸時代の大山詣での大山道入口であり、御堂には正徳3年(1713)の不動明王が祀られ、御堂の前には従是大山道と刻まれた道標や庚申塔などがある。
不動坂交差点から左に旧道があり、入って行くと直ぐ左手に史跡への小径と書かれた石柱が建っている。
この小路を入って行くと護良親王の首洗い井戸がある。ここから200mほどのところにあるというが、場所がはっきり分からないため、先に進むこととした。

五太夫橋 宝蔵院 江戸方見附跡 宝蔵院観音堂
街道を進むと舞岡川に突当り、道なりに進むと舞岡入口信号で国道1号線に合流し、舞岡川に架かる五太夫橋を渡って行く。
石巻康敬五太夫は小田原北条氏の家臣で、豊臣秀吉の小田原攻めのとき、北条方の使者であった。北条氏滅亡後、鎌倉郡中田村で謹慎していた五太夫が、天正18年(1590)江戸に入る徳川家康をこの辺りで出迎えたことから五太夫橋の名が付いたという。
五太夫橋を渡って直ぐ左手に真言宗の宝蔵院がある。
本尊は不動明王で、境内には地蔵堂、日本舞踊芸道精進の翁塚などがある。
宝蔵院の先右手のフォルクスの前に江戸方見附跡がある。ここは戸塚宿の江戸側の出入り口で参勤交代の大名らを宿役人がここで出迎えた。 江戸方見附の先左手の路地を入ると小さな御堂の宝蔵院観音堂がある。
御堂の中には30㎝ほどの金の観音像があると言うが、鍵がかかっていて拝顔できなかった。

妙秀寺 吉田一里塚跡 木之間稲荷 大橋
宝蔵院観音堂の先を更に奥に入って行くと、日蓮宗の身立山妙秀寺がある。
妙秀寺は、池上本門寺を創建した池上宗仲の妻妙宗禅尼が開基で、延文元年(1356)日秀が開山・創建したと言われている。
境内には、安藤広重の戸塚宿に描かれている大橋の脇の道標が移されているが、途中で折れた形跡がある。
妙秀寺から国道1号線に戻ると左側に吉田一里塚跡がある。
ここは江戸日本橋から数えて10里目の一里塚である。吉田の一里塚は明治初期に取り壊されてしまったようである。
柏尾川の手前右手に木之間稲荷がある。
木之間稲荷は伏見稲荷大社より御分霊を勧請したとされ、相州戸塚宿の住民が五穀豊穣を祈願し、江戸時代中期に創建されたという。
木之間稲荷の先で柏尾川に架かる大橋を渡る。橋の欄干には広重の東海道五十三次之内戸塚の絵が組み込まれており、ここに大橋から妙秀寺に移管された道標が描かれている。

善了寺 清源院 内田本陣跡 脇本陣跡
大橋を渡って間もなく右手に浄土真宗本願寺派の大島山善了寺がある。
善了寺は、武田信玄の武将大久保伊豆守信唯(釋了唯)が中興したという。
現在、本堂を改築中で墓地を除いては更地状態になっていた。
JR東海道本線を横切って進むと右手に南向山長林時清源院がある。
清源院は、芝増上寺と所縁のある浄土宗の寺院で、徳川家康の寵愛を受けたお万の方が、徳川家康の菩提を弔うために、この地の廃寺を再建したものといわれている。
境内には、心中句碑、芭蕉句碑がある。
スルガ銀行横浜戸塚支店の先に内田本陣跡がある。
内は本陣は、戸塚宿に二つあった本陣の内の一つであり、間口18間(約32.8m)、奥行14間(約25.5m)で、畳数は152畳であったという。
内田本陣のやや先に脇本陣跡がある。
脇本陣は、本陣に差支えが生じたときなどに利用され、本陣とは異なり大名などの宿泊が無い時は、一般の旅人も使用することが出来た。
戸塚宿には3軒の脇本陣があった。

澤邊本陣跡 羽黒神社 海蔵院 八坂神社
戸塚消防署の手前に澤邊本陣跡がある。
本陣創設時の当主澤邊宗三は、戸塚の開設に当たって幕府に強く働きかけた功労者である。澤邊本陣は、明治天皇の東下の際には行在所になっており、明治天皇戸塚宿行在所阯碑が建っている。
澤邊本陣の敷地の一角に戸塚宿の鎮守の一つ羽黒神社がある。
弘治2年(1556)5月富塚郷の住人澤邉河内守信友が勧請したのが始まりといわれる。
境内には、天保9年(1838)の常夜燈、庚申塔などがある。
戸塚消防署の先右手に臨済宗の海蔵院がある。本尊は釈迦如来像である。
境内には俳人志行墓、手作りと思われるたくさんの可愛い地蔵尊がある。
海蔵院の先右手に八坂神社がある。
八坂神社は元亀3年(1572)に内田兵庫が造立した牛頭天王社に始まり、明治元年(1868)に八坂社と改称されたという。八坂神社では毎年7月14日の夏祭りにお札まきという神事を行う。男性が姉さんかぶりの女装で踊り、踊り終わると正一位八坂神社御守護と刷られた神札を撒き、人々はこれを拾って家の戸口や神棚に貼るという。
境内には庚申塔、御正体出現地碑などがある。

道標 富塚八幡宮 上方見附跡 第六天神社
八坂神社前交差点を渡った右手に道標が建っている。正面に 「これよ里 かまくら道」、左側面に 「庚申講中 宝永7年(1710)」、右側面に 「南無阿弥陀仏」 と刻まれている。
東海道と鎌倉道の交差するこの辺りに高札場があった。
戸塚町交差点の右手に富塚八幡宮がある。
平安時代前期の康平5年(1062)、「前九年の役」 平定のため、源頼義と義家が奥州に下る途中、応神天皇と富属彦命のご神託を霊夢によって授かり、その加護によって戦功を立てられたことに感謝し、延久4年(1072)、富塚山中腹に社殿を造り、両御祭神を祭ったのが始まりとされている。境内には芭蕉句碑、庚申塔、境内社などがある。
横浜富塚郵便局の先左手のサイゼリアの前に上方見附跡がある。
当時と同じように京に向かって左側に松の木、右側に楓の木が植えられている。
上方見附跡の先右手に第六天神社がある。
第六天神社とは、元々は第六天魔王を祀る神社として創建されたものであるが、明治の神仏分離の際に祭神が変更されたものである。
鳥居と社殿は、銅板で造られている。境内には産魂祠、藤行翁之碑がある。

坂木稲荷社 庚申塔群 大坂 大坂松並木
第六天神社の直ぐ先の段上に坂木稲荷社がある。
石段を上ると銅板で造られた鳥居があり、両脇にはかなり大きな銀杏の木が立っている。
小さな社の前には真新しい狛狐が鎮座している。
坂木稲荷社の先の坂道の途中右手に庚申塔が集められている。
青面金剛の庚申塔や三猿だけのものなど年代も色々である。
庚申塔郡からやや上った左側に大坂の石柱が建っている。
ここは当時、今よりずっと道幅が狭く勾配もきつく、旅人にとってはかなり辛い坂だったようである。また、かつては二つの坂か成り立っていたようで、「新編相模国風土記稿」 によれば、一番坂登り一町余(約100m)、二番坂登り三十間余(約54m)と書かれている。大坂では、嘉永6年(1853)に仇討ちがあったという記録がある。
当時は大坂上の松並木から富士山が望めたそうで浮世絵の画題にもなっている。
現在のなだらかな大坂になるまでには、数回の改修が行われたそうである。左手には戸塚の街並みを見ることができる。

お軽勘平道行碑 原宿一里塚跡 浅間神社 大運寺
松並木を右に見て進んでくると左手にお軽勘平戸塚山中道行の場碑が建っている。
仮名手本忠臣蔵の中、早野勘平は恋人・お軽と逢い引きをしたばかりに、足利館松の間の刃傷に間に合わないという失態を演じ、 面目をなくした勘平は、お軽とともに出奔する。 お軽の故郷山城国山崎に向かう途中、戸塚の大坂と見られる 「戸塚山中」での顛末を描いたのが 「道行き旅路の花婿」 である。
街道を下ってくると左手の段上に松の木が立った原宿一里塚跡がある。
松の木の脇には、原宿一里塚解説が有り、歩道脇には標柱が建っている。ここは江戸日本橋から数えて11里目であり、吹上の一里塚とも言われている。
原宿一里塚跡の前には浅間神社がある。鳥居の前には、安政5年(1858)の常夜燈が建ち、傍らに3基の庚申塔がある。
参道両脇にはスダジイという古木が立ち、境内にも庚申塔をはじめとした石塔がある。
浅間神社の先の横断歩道橋の右手に浄土宗の唐澤山大運寺がある。
大運寺は慶長元年(1596)の創建といわれ、ご本尊は木造阿弥陀如来立像である。境内にはかつて観音堂、庚申堂があった。また境内にあった弘法池は、今は大正団地内にあり、池の中の窟にあった弘法大師作の石地蔵は、現在本堂に移され、その複製品が窟に祀られている。境内には、法然上人の老幼の像が3体、法然上人歌碑などが建っている。

石塔群 龍長院入口 諏訪神社 茅葺門
大運寺の前の歩道橋を渡った橋下に、秩父西国坂東廻国供養塔、一面六臂の青面金剛の庚申塔、、五輪塔、三重塔、馬頭観音などの石造物が安置されている。 街道を進むと歩道橋の左袂に龍長院入口の標柱が建ち、歩道橋を渡った右手の横浜銀行角に不動明王像がある。ここを右に入って行くと眼下に曹洞宗の龍長院がある。
龍長院は室町時代に相模入道西林が、堅心和尚を開山とした真言宗の龍長庵を創立したのが始まりという。
境内には大銀杏の脇に六地蔵、地蔵堂が建っている。
街道に戻って先に進むと左手に諏訪神社がある。創建年代は不詳であるが、明治40年(1907)に山谷仲町から移転してきた神社で、周辺が鉄砲宿と呼ばれていたことから武神の諏訪神社を勧請したと言われている。
影取の地名の由来となった影取池は、この神社の奥にあったと伝えられている。
諏訪神社の直ぐ先の左手に茅葺門の家が建っている。

道祖神 東海道松並木跡碑 遊行寺一里塚跡 諏訪神社
藤沢バイパス出口の三叉路を左に進むと間もなく木の下に覆屋が有り、中に宝暦9年(1759)の双体道祖神が安置されており、近くには鉄砲宿の標柱が建っている。 街道の右手の松の間に東海道松並木跡碑と解説が建っている。 遊行寺坂の途中に一里塚跡がある。
ここは江戸日本橋から数えて6里目の一里塚で、解説では現在の遊行寺坂は切通として掘削しているので、当時の坂は崖上を通っていたという。天保12年(1841)の東海道分間絵図では、東海道がくの字に曲がるところに遊行寺が描かれ、その右手に一里塚が街道の両側に描かれている。
遊行寺坂の左手に諏訪神社がある。遊行寺坂の掘削前の地に有るためか長い階段を上った先に社がある。諏訪神社は、建御名方富神(たてみなかたとみのかみ)を祭神とし、農耕の神とも蚕業の神とも言われている。
階段脇には嘉永2年(1849)の常夜燈が建ち、鳥居の前にも一対の文化2年(1805)の御神燈が建っている。境内には太子堂、祖霊神、大黒天社などがある。

遊行寺 長生院 遊行寺橋 藤沢駅
遊行寺坂を下り枡形道路を右に入ると遊行寺(清浄光寺)の黒門がある。
門を入ると左の墓地に板割朝太郎の墓があり、参道を登って行くと正面に大銀杏と本堂がある。境内には一遍上人像、県指定重要文化財の銅鐘、南部右馬頭茂時の墓、歴代上人の墓などがある。
遊行寺境内の奥に長生院がある。
境内には、小栗判官伝説ゆかりの小栗堂が建っており、お堂の裏には小栗判官とその十勇士、馬、照手姫の墓がある。照手姫は小栗判官の死後、ここで尼となり余生を過ごしたと伝えられる。この日は墓所入口が閉まっていて入ることが出来なかった。
遊行寺を出ると正面に境川に架かる遊行寺橋がある。
遊行寺橋の手前のフェンスに解説が貼られており、遊行寺門前の広小路は日本三大広小路の藤沢広小路で三曲がりとして有名であったいう。当時の絵図と古い写真が載っている。橋の袂には高札場跡があり、藤沢宿の解説がある。
本日は、この遊行寺橋を最後に藤沢橋を越えて10分程歩いて藤沢駅から帰ることとした。


平成27年3月13日(金) ☀  藤沢~大磯   18.0㎞
今日も終日安定した天気が続くという予報なので5時の電車に乗り込み、藤沢駅に6:30に到着し2日前の続きの遊行寺橋まで10分程歩いて再開した。いつもの事ながら出勤する人の波と逆行して行く。遊行寺橋に出るまでに庚申堂があり、御堂の前には沢山の石像が安置されていた。

藤沢駅 庚申堂 紙問屋 明治天皇行在所跡
早朝の藤沢駅はまだ人もまばらである。藤沢駅は、東海道本線・小田急電鉄の駅であり、明治20年(1887)に官営鉄道の旧横浜駅-国府津駅間の開通と同時に開業した。
旧東海道からは約1㎞ほど南に位置するところにある。
藤沢駅から旧東海道へ向かうと、程なく右手に庚申堂あり、境内には稲荷社のほか庚申塔などが並んでいる。
この御堂には、木造の青面金剛立像が本尊として祀られていというが、生憎庚申堂の入口は鉄柵に鍵が架かっていて中に入れなかった。
旧東海道に出ると、遊行寺橋の先右手に重厚な蔵造の紙問屋が建っている。
壁には 「紙」 と貼られている。
街道左手の稲元屋本店跡には現在マンションが建っているが、その前に新しい 「稲元屋本店跡 明治天皇行在所記念碑」 の石柱が建っている。標柱側面には、「弘化2年(1844)、初代寺田三郎兵衛(満弘)が創業。質素と誠実を家訓とし、稲元屋呉服店の礎を築いた。明治24年亀井野の陸軍大演習のため行在所となった。石碑は皇紀2600年(昭和15年)町民の意気高揚のため建てたものである」 と刻まれている。

蒔田本陣跡 常光寺 妙善寺 荘厳寺
街道右手には、蒔田源右衛門が務めた本陣跡がある。江戸幕府は、東海道を往来する幕府の役人や大名・公家などの専用宿舎として、各宿場に本陣を指定した。
江戸時代に外交使節として日本を訪れた朝鮮通信使も国賓待遇の使節ということで、蒔田本陣に宿泊したという記録が残っている。
街道左手には浄土宗の八王山常光寺がある。常光寺は、元亀3年(1572)光明寺27世の名蓮社光誉が創建し、明治5年(1872)に藤澤駅邏卒屯所(警察署)が置かれた。
山門前には藤沢警察署発祥の地碑と藤沢警察署創設百年記念碑があり、境内には万治2年(1659)、寛文9年(1622)の庚申供養塔などがある。
街道右手には日蓮宗の長藤山妙善寺がある。妙善寺は、延暦15年(796)に密教寺院として建立されのが始まりで、永正元年(1504)に日純により創立された。
境内には正宗殿があり、鎌倉扇ヶ谷の刀工五郎入道正宗が祈願したと伝えられている正宗稲荷大明神が祀られており、その隣に正一位稲荷大明神がある。また、墓所には本陣を勤めた蒔田家の墓がある。
市民病院入口交差点の先左の路地を入って行くと高野山真言宗の荘厳寺がある。
荘厳寺は、元暦元年(1184)覚憲僧都により創建され、覚盛により中興再建されている。
本堂の不動明王は運慶の作と伝えられ、白幡大明神と書かれた源義経の位牌がある。

義経の首洗井戸 白旗神社 上方見附跡 眞源寺
街道に戻って白旗交差点手前の交番脇を入って行くと義経の首洗井戸がある。
兄頼朝から追われる身となった義経は、奥州平泉の藤原秀衡を頼るが、文治5年(1189)頼朝を恐れた秀衡の子泰衡に攻められ自刃した。首は首実検のあと腰越の浜に捨てられたが、波に乗ってこの辺りに漂着したという。これを里人がすくい上げ、洗い清めたという井戸である。
周囲には源義経公之首塚碑などが建っている。
白旗交叉点を右に入って行くと白旗神社がある。鎌倉時代より以前から寒川神社と呼ばれていたが、義経と弁慶の首が白旗川を上ってこの地に着いたことを知った頼朝が白旗が源氏の旗であったことから、白旗明神としてこの神社に祀るようにと指示したという。
境内には、江の島弁財天道標、芭蕉句碑などがある。
伊勢山橋で小田急線江の島線を越えると右手に上方見附跡がある。
見附は宿場の入口に設けられた見張所で、有事の際には関所としても機能しました。石垣の土居を築き榎が植えてあったようです。
伊勢山橋を渡った左手の小高い上に浄土宗の風早山眞源寺がある。
眞源寺は、安永元年(1772)に創建され、文政3年(1820)の火災により焼失したが、その後、再興され現在に至っている。
石段を登った境内には、二十三夜塔、左手の祠に2体の弘法大師像などがある。

おしゃれ地蔵 養命寺 七面地蔵 聖観世音菩薩碑
引地川に架かる引地橋を渡って緩やかな坂を上って行くと左手におしゃれ地蔵がある
よく見ると双体道祖神であるが、「女性の願い事なら何でも叶えてくださり、満願のあかつきには、白粉を塗って御礼をする」 と伝えられており、今でも白粉が絶えることがないという。
そのような事から誰言うとなく 「おしゃれ地蔵」と呼ばれるようになったという。
おしゃれ地蔵の向かい側に曹洞宗の引地山養命寺がある。
元亀元年(1570)に宗賢院第三世の暁堂元龍によって創建されたと伝えられている。本堂裏手の収蔵庫には薬師三尊像があり、運慶作といわれている。境内には首のない弘法大師像などがある。
メルシャン㈱藤沢工場の入口左手に地蔵尊がある。台座に七面地蔵尊と刻まれている。
昔、この辺りに榎の大木が一本そびえ、この木には人知れずこの周りに葬られた戦国時代の武人や百姓、行き倒れになった旅人など多くの霊魂が集まっていると伝えられてきた。昭和初期に工場や道路拡張のため山を切り開いたところ、人骨が多数掘り出されたという。こうした言い伝えから、榎の代りに地蔵尊を安置したと言われている。
街道を進むと、平成建設藤沢支店の先の横断歩道橋の下に聖観世音菩薩碑が電柱の裏に隠れるように建っている。

稲荷社 八坂神社 大山道道標 大鳥居
更に街道をどんどん進んで行くと、右手に稲荷神社の鳥居があり、階段を上って行くと小さな社が2つ建っている。
小社の中には木札で造られた狐の面が2枚祀られている
稲荷社を過ぎると国道1号線に合流する。合流地点の四ツ谷交差点を右に入ると四ツ谷町内会館の裏手に八坂神社がある。
四ツ谷町内会館の庭先には、庚申塔と弘法大師像が安置されている。
四ツ谷交差点の先右手の路地入口に緑の屋根の祠が有り、中に大山道道標が建っている。
東海道と大山道が交差する四谷辻に建てられていた道標で、大山不動尊の下に [大山道] 、両側面に [これより大山みち] と彫られている。延宝4年(1676)に江戸横山町の講中が建てたものという。
大山道道標の路地を入ったところに大山遥拝の大鳥居(一の鳥居)が建っている。
万治4年(1661)大山御師矢野清太夫が世話人となり建立し、天保11年(1840)に再建したものが現在の大鳥居の元となっている。
現在の鳥居は、昭和34年(1959)に復元整備されている。

四ツ谷の一里塚跡 二ツ家稲荷神社 巡礼西国坂東供養塔 明治天皇御小休所跡
羽鳥交番前交差点の先右手に四ツ谷の一里塚跡がある。
ここは江戸日本橋から数えて13里目の一里塚跡である。
名残松のある街道を進むと、二ツ家公民館前交差点の手前右手に二ツ家稲荷神社がある。
境内には寛文10年(1670)の庚申供養塔、五輪塔、天明元年(1781)の双体道祖神などがある。
松並木が点在する街道を進むと、大山街道入口の松の木の根元に享和3年(1803)の巡礼西国坂東供養塔が建っている。
供養塔には、「あふり山 わけいる道に しをり置 つゆのことのは しるしとぞなれ」 と刻まれている。
赤松町信号を過ぎた右手空き地の前に明治天皇御小休所跡碑が建っている。
慶応4年(1868)7月に江戸を東京と改め、その年の9月に元号を明治と改め、明治天皇は東幸することとなり、10月に南湖の本陣で小休した後、ここ小和田で再び休憩されたという。

上正寺 廣徳寺 熊野神社 千手院
東小和田交差点を過ぎると右手に浄土真宗本願寺派の上正寺がある。
境内には、徳川幕府の要職を務めた安藤重博が、第4代将軍徳川家綱の墓所(寛永寺厳有院)に奉献し、のちに此処に移されたという延宝9年(1681)の石灯籠がある。
上正寺の先右手に高野山真言宗の山王山観音院廣徳寺がある。
創建は定かではないが、初代慶海が元和5年(1619)に創始したと言われている。
境内には弘法大師像、親鸞聖人像、地蔵菩薩などがある。
廣徳寺から脇道を進むと熊野神社がある。熊野神社は小和田村の鎮守として平安時代末頃の創建と言われている。
参道入り口には赤い鐘楼が建っており、境内には道祖神、庚申塔、御嶽大神などたくさんの明神碑と豊受稲荷社、姥母神社、厳島神社などの境内社がある。
街道に戻ると左手に高野山真言宗の天応山千手院がある。千寿院は、藤沢市感応院の末寺で、延宝8年(1680)堅岸和尚によって建立されたと言われている。
境内には閻魔十王堂、稲荷大明神、小田原城主の眼病治癒で知られる木食観正の石碑などがある。

牡丹餅立場跡 東海道の松並木碑 海前寺 八王子神社
松林小学校入口を過ぎると、菱沼横断歩道橋の手前に牡丹餅立場跡がある。
徳川家康は慶長6年(1601)東海道に宿場を設けて伝馬の制度を定め、次いで宿場と宿場の間にも旅人が休んだりする立場という施設を設けた。藤沢宿と平塚宿の間には四谷、牡丹餅、南湖、八幡の4つの立場があった。
ここは牡丹餅が名物だったので牡丹餅立場と呼ばれるようになった。
神奈川県立茅ヶ崎高等学校前の松並木の中に東海道の松並木碑がある。
松並木の黒松は推定樹齢400年を越えるものもあり、この風景は安藤広重の東海道五十三次にも描かれている。
市立病院入口を右に入って行くと曹洞宗の東松山海前寺がある。
山門脇の石灯籠は徳川第二代将軍秀忠菩提の為、慶安4年(1651)築後久留米城主有馬中務少輔源朝臣忠頼が奉納し、また本堂右手の石灯籠は徳川第九代将軍家重菩提の為、宝暦11年(1761)播磨国安志城主小笠原信濃守源長逵が奉納し、更に本堂左手の石灯籠は同様に従五位下堀長門守藤原直寛が奉納したものである。
本村交差点を越えて最初の右手路地を入って行くと八王子神社がある。八王子神社の創建年代等は不詳であるが、旧社領地内に郷民が祖先の墳墓を築き、その霊を社に記して、八王子権現として敬神崇祖の誠を表したもと云われる。
境内には稲荷神社、天満宮、八坂神社、庚申供養塔などの石塔、関東大震災で倒壊した鳥居などがある。

茅ヶ崎の一里塚 旧寛永寺の石灯籠 クロマツの切株 円蔵寺
一里塚交差点左側に茅ヶ崎の一里塚の南塚がある。
ここは江戸日本橋から数えて14里目の一里塚である。北塚は、昭和に入って道路の拡張により取り除かれて、現在、歩道整備工事の一環として平成22年にポケットパークとして整備され、榎が植栽されている。
茅ヶ崎駅前交差点の右手にある茅ヶ崎市役所の前に旧寛永寺の石灯籠が4基建っている。
徳川家の菩提寺として栄えた上野寛永寺には、全国の大名から歴代将軍への供養としてたくさんの石燈籠が献上されており、それが茅ヶ崎市内に8基移されている。これは戌辰の役や関東大震災などで被害を受けた寛永寺への再建寄付の返礼として贈られたものである。
茅ヶ崎市役所の直ぐ先の歩道上にクロマツの切株が残っている。
このクロマツは樹齢200年以上で茅ヶ崎地区の中で一番の巨木であったが、平成21年3月腐朽のために伐採することになったもので、記憶の継承のためにモニュメントとして残したものである。
茅ヶ崎警察署の先左手に高野山真言宗の円蔵寺がある。
円蔵寺は、文安2年(1445)に没した善誉が中興の祖であると伝えられている。
境内には乃木希典像、203高地血染の岩片、水師営のなつめの木、弘法大師像などがある。

第六天神社 金剛院 南湖の左富士之碑 鶴嶺八幡宮鳥居
街道を進んで行くと、十間坂二丁目信号の先の横断歩道橋の右手に大六天神社がある。
第六天神社は、江戸時代まで金剛院(茅ヶ崎市南湖に所在)の守護神とされてきたが、明治5年(1872)に行われた神仏分離によって茅ヶ崎市十間坂の鎮守となった。
境内には頭の無い六地蔵、庚申供養塔などがある。
南湖入口交差点を左に入ると高野山真言宗の法林山長生殿金剛院がある。
金剛院は、室町時代の創建といわれ、江戸時代より南湖の閻魔寺と呼ばれた古刹で、明治41年(1908)に茅ヶ崎町となったときに町役場は金剛院に置かれた。
正門は閉じられており、通用門から入ると大師堂、弘法大師碑などがある。
千の川に架かる鳥井戸橋の渡り詰めに南湖の左富士之碑が建っている。
東海道のうちで左手に富士山を見る場所は、ここと吉原(静岡県)の二か所が有名。昔から茅ヶ崎名所の一つとして南湖の左富士が巷間に知られている。
南湖の左富士之碑の向かい側に、鶴嶺八幡宮の赤い一の鳥居が建っている。
鶴嶺八幡宮は、長元3年(1030)源頼義が京都の石清水八幡宮を勧請して創建したのが始まりといわれている。社殿は松並木の参道を800mほど進んだところにあるため、寄らずに先に進むこととしたが、鳥居を潜った直ぐ先の歩道上に弁慶塚碑が建っている。弁慶塚の場所は分からなかった。

神明神社 梅雲寺 旧相模川橋脚跡 上国寺
街道を先に進んでいくと、下町屋交差点の先左手に神明神社がある。
境内には清明井戸碑、厄神大権現、双体道祖神などがある。
往時、ここには安倍清明が東下りの折、喉を潤した井戸があったという。
神明神社を出ると右手に浄土宗の町屋山大廣院梅雲寺がある。
梅雲寺は、天和元年(1681)の創建といわれ、ご本尊は阿弥陀如来で、梅雲保育園を併設している。
梅雲寺の先は小出川に架かる下町屋橋があるが、この手前左手に旧相模川橋脚跡がある。
関東大地震のとき、鎌倉時代に相模川に架かっていた橋の脚が突然、液状化現象により田んぼの中から 飛び出してきたものであり、この様を復元している。本来の橋脚は復元した橋脚の下に保存されているという。
下町屋橋を渡って今宿交差点を過ぎると右手に日蓮宗の妙厳山大乗院上国寺がある。
上国寺は、南北朝時代に日祐によって創建されたと言われている。
上国寺には室町時代の木造日蓮座像が本堂に祀られている。茅ヶ崎市内の仏像彫刻の中でも古いものの一つである。

信隆寺 馬入橋 陸軍架橋記念碑 馬入渡川会所跡
上国寺の先に日蓮宗の妙厳山信隆寺がある。信隆寺は、寛永元年(1624)に新羅三郎義光の後裔・武田(勝沼)信就が、天目山の戦いの後、此の地に逃れ武田一族の菩提のため開創したものである。
ここには上国寺と同様、本堂に木造日蓮座像が祀られている。
境内には多くの南無妙法蓮華経題目碑と日蓮上人立像がある。
信隆寺の先で産業道路入口交差点を過ぎると、右手に男女双体道祖神があり、その先中島信号を越えた右手にも祠に納まった道祖神がある。その先で相模川に架かる馬入橋を渡って平塚に入って行く。相模川は、上流の山梨県では、桂川、河口近くの下流では、馬入川と呼ばれている。馬入川の名は、鎌倉時代に初めて相模川橋が架けられたとき、竣工式の帰途、源頼朝の馬が暴れて落ちたという伝説に因んでいる。 馬入橋の渡り詰め左手には陸軍架橋記念碑が建っている。
大正12年(1923)の関東大震災で馬入橋が倒壊し、交通が途絶えてしまったため、陸軍第15師団(豊橋)所属工兵大隊と第16師団(京都)所属工兵大隊が急遽派遣され、架橋工事が行われた。橋は、震災から一月後に完成し、この記念碑は馬入側を担当した第16大隊の事績を称えたものである。
陸軍架橋記念碑の街道を挟んだほぼ向かい側のホテルサンライフガーデンの前に馬入渡川会所跡がある。
川会所は、江戸時代に川越を取り締った役所で川役所とも言った。馬入の川会所は、間口一間半、奥行き二間ほどの家で、馬入川渡し場の西川端にあった。

明治天皇馬入御小休所跡 丁髷塚 馬入の一里塚跡 平塚八幡宮
馬入渡川会所跡から街道に出る途中に明治天皇馬入御小休所跡碑がある。碑の脇には由来碑が建てられている。
明治6年(1873)に天皇皇后両陛下が東海道御通行の際、ここに建っていた石垣と呼ばれた豪商の屋敷に立ち寄りご休息された。この先にちょんまげ最中の幟をたてた弘栄堂がある。力餅があったので購入した。
馬入交差点を右に入って行くと墓地の一角に丁髷塚がある。塚碑には 「むかし馬入村の若衆十六人のちょんまげを埋めた處という 丁髷塚 戸川貞雄」 と刻まれている。
天保の頃、寒川神社と平塚八幡宮の神輿の担ぎ手達が喧嘩になり寒川神社の神輿が相模川に投げ込まれてしまった事件で、馬入村の若者16人が斬首に処せられる事になったが、代官の温情で丁髷を刎ねられるだけで済んだ。その丁髷を埋めたところである。
街道に戻ると馬入交差点の左手に馬入の一里塚跡がある。
馬入の一里塚は、この付近にあり、旧東海道を挟んで南北に一つずつの塚があった。文化3年(1806)に出版された 「東海道分間延絵図」 には、北側の一里塚の前に井戸が、馬入の渡しに向かう東側に川会所や川高札が描かれている。ここは江戸日本橋から数えて15里目の一里塚跡である。
平塚駅前交差点を右に入って行くと国道1号線を越えたところに平塚八幡宮がある。
社伝によると仁徳天皇68年(380)、この地方を襲った大地震に際し、仁徳天皇の勅願により応神天皇を祭神として創建されたものであるという。境内には諏訪社、若宮社、神明社の境内社、横綱武蔵山の手形石、太子堂、湘南ひらつか七福神の弁財天などがある。

お菊塚 江戸方見附跡 脇本陣跡 高札場跡
街道に戻って平塚駅前の平塚紅谷郵便局の傍の小公園の角にお菊塚碑がある。
この塚の主は 「番町皿屋敷」 の主人公であるお菊と伝えられている。
お菊は平塚宿の宿役人であった真壁源右衛門の娘とされる。番町に住む旗本・青山主膳の屋敷に行儀見習いに奉公に出ていたところ、誤って家宝の南京絵皿十枚の内の一枚を割ってしまい、主膳が斬り捨てて井戸に投げ込んでしまったという。
市民プラザ交差点の先右手に江戸方見附跡がある。
平塚宿と加宿平塚新宿との間には、かつて松並木があり、その松並木の西端に平塚宿江戸見附があった。
街道を進むと茅沼酒商店の前に脇本陣跡がある。平塚宿の脇本陣は、享和年間(1801-03)頃の宿場の様子を描いた 「東海道分間延縁図」 には、西組問屋場より西に描かれたいるが、天保年間(1830~44)には、二十四軒町の北側の此の地に山本安兵衛が営んでいた。
この脇本陣の手前には、平塚の歌碑、平塚市指定保全樹のくすのきが立っている。
脇本陣跡の先の山口屋茶舗の前に高札場跡がある。
平塚宿の高札場は、二十四軒町のこの辺りにあり、規模は長さ2間半(約5m)、横1間(約1.8m)、高さ1丈1尺(約3m)であった。平塚宿には、平塚宿から藤沢宿、あるいは大磯宿までの公定運賃を定めた高札なども掲げられていた。

東組問屋場跡 本陣跡 宝善院 西組問屋場跡
高札場の道路を挟んだ向かい側の魚㐂代の前に東組問屋場跡がある。
平塚宿では、人馬の継立や御用旅宿の手配をする問屋場が二か所あり、西仲町にあったのを西組問屋場、二十四軒町にあったのを東組問屋場といった。
高札場の直ぐ先の神奈川相互銀行前に本陣旧跡碑が建っている。
平塚宿の本陣は、代々加藤七郎兵衛と称し、此の地に南面して建っていた。
記録によると徳川家茂が文久3年(1863)と元治2年(1865)の二回ここに休憩しており、明治元年(1868)と明治2年には明治天皇が御小休されている。
本陣跡の先の交差点を左に入ると真言宗の福生山宝善院がある。
建久年間(1190~99)に鎌倉八幡宮寺に下向した京都・東寺の学問僧らにより開山された。戦国時代は小田原北条氏の庇護を受け、今も寺紋は 「北条のミツウロコ」 である。
本堂には唐向拝を設け、彫刻を施しており、境内には庚申塔、ぼたもち地蔵、文殊菩薩像、宮本武蔵ゆかりの瓦がある。
宝善院の先を進むと旧道跡があり、旧道入口右手に西組問屋場跡がある。
八幡新宿は平塚宿の加宿となり、新たに平塚宿に問屋場を新設した。これにより従来からの問屋場を西組問屋場といい、八幡新宿の経営する問屋場を東組問屋場といった。この両問屋は10日置きに交替執務したという。

要法寺 平塚の碑 京方見附跡 花水橋
西組問屋場跡の脇を右に入って行くと日蓮宗の要法寺がある。弘安5年(1282)、病身を武州の池上邸で養うために身延山を出発した日蓮聖人は9月18日に平塚に到着し鎌倉幕府の執権北条泰時の次男泰知邸に一泊された。この宗祖の霊跡に建立されたのが要法寺である。境内には、宗派の鎮守神を祀る七面社や、日蓮に帰依し要法寺の開基となった泰知入道松雲院日慈上人の供養塔などがある。 要法寺の隣に平塚の塚緑地があり、平塚の地名の由来となった塚がある。
昔、桓武天皇の三代孫、高見王の娘政子が東国へ向かう旅をした折、天安元年(857)2月この地で逝去した。柩はここに埋葬され、墓として塚が築かれた。その塚の上が平らになったので里人はこれを 「ひらつか」 と呼んできたという。これが平塚の地名の起こりである。
街道に戻って進むと国道1号線に合流し、古花水橋交差点角に京方見附跡があり、石垣と榜示杭が復元されている。
平塚宿の家並みは、空襲やその後の区画整理により、往時を偲ぶ面影が残っていない。宿場の西の入口であった京方見附の場所も定かではなく、先人たちの言い伝えや歴史資料等によりこの辺りにあったと考えられている。
京方見附跡の先で花水川(金目川)に架かる花水橋を渡って行く。
橋の袂には平成の一里塚と名付けた歩行者の休憩場所が設けられている。

善福寺 高来神社 慶覚院 虚空蔵尊
花水橋を渡った左手に浄土真宗本願寺派の龍頭山華水院善福寺がある。
善福寺は、親鸞聖人常随の高弟である平塚入道了源上人の開山と伝えられている。
境内には岩山があり、そこに8個の穴が開いているが、これは縄文時代の横穴式古墳とのことである。庫裡の前には河津桜が満開であった。
高麗信号の前にある茅葺屋根の家を過ぎると右手に高来神社がある。
徳川家康より寺領百石と山林を賜り、東照権現を併せ祀り、参勤交代の諸大名は高来神社の前を通る際には下馬して参詣しなくてはならなかった。神仏分離により高来寺の寺物は移され、高麗神社と改称、明治30年(1897)に高来神社と改称されている。
高来神社に隣接して慶覚院がある。
慶覚院は慶長18年(1613)にに創建された寺院で高麗寺の末寺だった。明治の神仏分離によって高麗寺が廃されると千手観音ほかの仏像がこの寺に移されている。
2014年には仁王門が完成し、中の木造仁王立像は、江戸時代初期の仏像といわれている。
慶覚院を出ると街道の右手に虚空蔵と熊野権現を祀った小御堂がある。
往時はここに下馬標が建っており、大名行列もここで下馬し、東照権現の併祀された高麗寺に最敬礼をして静かに寺領内を通ったという。

化粧井戸 化粧坂の一里塚跡 江戸方見附跡 日枝神社
化粧坂交差点Y字路を右手の旧道に入ると、左手の植栽の奥に化粧井戸がある。
「化粧」 については、高来神社との関係も考えられるが、伝説によると鎌倉時代の大磯の中心は化粧坂の付近であったという。当時の大磯の代表的女性である 「虎御前」 もこの近くに住み、朝な夕なこの井戸を汲んで化粧をしたのでこの名が付いたと言われている。
化粧井戸の先右手に化粧坂の一里塚跡がある。ここは江戸日本橋から数えて16里目の一里塚である。
この先の右手には大磯八景碑が建っている。大磯八景は明治40年頃、大磯町第5代町長宮代謙吉が大磯の名所八景を選んで絵葉書にしたのが始まりで、その後、大正12年に大磯小学校第2代校長朝倉敬之が自作の歌を刻んだ記念碑をそれぞれ八景の位置に建立したものである。
東海道本線を竹縄架道橋のトンネルでくぐって行くと、右手に江戸方見附跡がある。
この辺りの旧道は大きな形の良い松が街道にせり出しており、往時の街道を偲ばせてくれている。
旧道が国道1号線と合流した左手に日枝神社がある。
それほど大きくない神社だが、境内にはたくさんの庚申塔が並んでいる

神明神社 延台寺 大運寺 北組問屋場跡
大磯駅入口交差点の左手に神明神社がある。
神明神社は神明台から享保年間(1716-35)に遷座された。神明町の地名発祥となり、神明町の氏神様である。
内には明治天皇が小島本陣にご宿泊の際、内侍所御羽車を神明社に奉安された記念碑が建っている。
大磯郵便局の先左手に延台寺がある。
慶長4年(1599)、東海道を旅する身延山久遠寺第19代法主法雲院日道上人が開山となり、身延山直末の寺として開かれた寺院である。伏見大納言藤原実基卿の内儀が虎池弁財天に祈願したところ、安元元年(1175)正月、虎の日、虎の刻、玉のような女の子を授かり、後に舞の名手、虎御前となったと伝えられている。境内には虎御前ゆかりの石碑石塔などがある。
延台寺の街道を挟んだ向かい側に浄土宗の群生山大運寺がある。
大運寺は、元和年間(1615-24)秀誉上人が開山した寺院で、増上寺の末寺である。この寺は衆議院議長を務めた中島信行、その妻俊子、安田靫彦画伯の眠る寺として知られている。
境内には葵の紋の入った鬼瓦、徳本の南無阿弥陀仏碑、法然上人像などがある。
延台寺の入口脇に火防の神を祀った秋葉社があり、その先の右手中南信用金庫駐車場前に北組問屋場跡がある。ここは全国各地からの書状や荷物の継ぎ立てを行う場所で、新しい人足や馬が準備されていた。大名行列などの際には、大磯周辺の助郷村々から人足や馬を動員する差配を取り仕切っていた。そして宿場の運営に携わっていた重要な場所であった。

小島本陣跡 地福寺 尾上本陣跡 南組問屋場跡
NTT大磯センターの前に小島本陣跡の標柱が有り、隣のそば処古伊勢屋の前に解説が建っている。享和3年(1803)の大磯宿には、小嶋・尾上・石井の3つの本陣があり、その建坪は、それぞれ246坪・238坪・235坪であった。尾上本陣は小島本陣の西隣に置かれ、石井本陣は東海道に面した尾上本陣の筋向いにあったという。これらの本陣は天保7年(1836)の大磯の大火で焼失し、再建された。 大磯消防署前交差点を右に入ると承知4年(837)創建の真言宗の地福寺がある。
境内には、樹齢100~200年の梅の古木に囲まれた島崎藤村夫妻の墓がある
中南信用金庫前に尾上本陣跡がある。
標柱には正面に大磯小学校発祥之地、側面に尾上本陣跡と刻まれている。
尾上本陣跡の先左手に南組問屋場跡があり、解説が建てられている。ここは幕府からの書状の継立てや、参勤交代の大名行列の際に周辺の助郷村々から動員された人足や馬の差配を取り仕切る場所であり、宿場にとって大変重要な施設であった。
大磯宿には、南組と北組の二ヶ所に問屋場があった。

新島襄終焉の地 高札場跡 鴫立庵 大磯駅
照ヶ埼海岸入口交差点の左側に新島襄先生終焉之地碑が建っている。
明治の先覚的教育者新島襄は、宿願であった同志社大学設立を企図して東西西走中に病にかかり、明治23年(1890)1月23日療養先のここ大磯の地百足屋旅館で志半ばで47歳の生涯を閉じた。
新島襄終焉の地碑の先右手の塀の上に高札場跡があり、解説が建っている。ここは幕府の示達する 「掟」 (隣の宿場までの定賃銭、切支丹禁制礼、徒党禁止札、放火禁止札など)を掲示した。
高さ約3mほど、幅約5mほどで幕府の権威を示すため見上げる様に出来ていた。
鴫立沢交差点の手前左手に湘南発祥之地碑があり、沢向こうに鴫立庵が建っている。
寛文4年(1664)に小田原の崇雪が西行の 「こころなき 身にもあわれは 知られけり 鴫立沢の 秋の夕暮れ」 にちなみ、昔の沢らしい面影を残す景色の良いこの場所に石仏の五智如来像(釈迦・阿弥陀・大日・薬師・宝生の五仏) を運び草庵を結んだのが始まりである。
今回の街道歩きは陽も傾いて来たので最寄り駅の大磯駅で終了した。

日本橋~保土ヶ谷 次へ   大磯~箱根