實母散とは江戸時代から続く婦人用薬で、産前産後の血の道の妙薬と言われ、江戸楓河岸(後の中橋大鋸町~現在の中央区京橋一丁目9番地辺り)の喜谷市郎右衛門本舗を本家として全国に流布しました。
「喜谷實母散」 の創業は正徳3年(1713)と言われており、その事情は当時の江戸南町奉行根岸鎮衛が著した 「耳袋」 に詳しく記述されております。
🔶 創業秘話~燐家の産婦を救った實母散
近江の国より江戸に出て、楓河岸で薪炭業を営んでいた喜谷家の太祖喜谷藤兵衛光長の養嗣となった喜谷市郎右衛門養益は家業を継ぎ、薪炭業を営んでおりましたが、たまたま実弟が紹介してきた長崎の医師某が江戸での要件が長引き困っているのを憐れみ、自家に引き取り、3年余り親切に世話をしました。
そのようなある時、隣家の娘が産気づき、殊の外の難産となり、その両親が市郎右衛門に救いを求めに来ました。この窮状を聞き及んだ医師某は、隣家の産婦を診断の上、例え効果が現れずとも恨まないことを条件に一服の薬を与えたところ、間もなくして妊婦の苦しみが去り、お産を終えることができました。死産ではありましたが、母親は無事でありました。
諸医に見放された隣家の産婦を救ったこの医師の薬の処方は市郎右衛門を驚嘆させました。医師は3年ほど世話になって長崎に引き揚げることになりましたが、市郎右衛門の要請に応え、且つ優遇の厚誼に報いるために、医師某も喜んでその秘伝の処方の詳細を市郎右衛門に与えました。
かくして、隣家の難産の婦人の起死回生を助けた妙薬の話は周囲に伝わり、江戸市内はもとより、四方八方から人を介して求めに来る者は多く、その妙薬があたかも慈母の赤子のおける如きをもって
「實母散」 と命名して、広く世間に発売することとなりました。それは正徳3年(1713)のことでありました。
浮世絵師歌川広重(1797-1858)が、嘉永2年(1849)から死去までのおよそ10年間を過ごした住居跡です。
広重は、幕府の定火消組同心安藤源右衛門の長男として、八代洲河岸(現在の千代田区丸の内二丁目)の火消組同心になりましたが、文化8年(1811)15歳のとき歌川豊広の門人となり、翌年には広重の号を与えられ、歌川を称することを許されました。
天保3年(1832)霊岸島の保永堂から出した 「東海道53次」 以来、風景画家として著名になり、江戸についても、「東都名所」、「江戸近郊八景之内」
等を遺しています。特に、晩年に画いた 「名所江戸百景」 は、当時大鋸町と呼ばれていたこの地での代表作です。
住居は、幕府の奥絵師(御用絵師)狩野四家のうち、中橋狩野家邸の隣にあり、二階建ての独立家屋であったといいます。
中央区教育委員会
實母散発祥の地碑
婦人薬 「實母散」 発祥の地説明
歌川広重住居跡説明