その昔、常陸の国に信心深い村があり、村人は浄財を集めて稲荷社を祀りました。村人はこの稲荷社に正一位の位をもとめ、苦心して集めた五両のお金を、折しも同国を通りかかった旅の僧に託しました。
 その層が今や東海道を上り、京に向かい子安の里に差し掛かったときのこと。当時、子安は東海道を挟んで片側は海、人家もまばらな村で、生麦辺りは一里塚や茶店のある長閑なところでした。
 この旅の僧は茶屋に立ち寄ることにしました。そこで一息入れ、草鞋を履き替えてからまた西に向かって出発しました。暫く歩くと、僧は金包みの荷が無いのに気づいて真っ青になりました。慌てて茶屋に駆け戻り、茶屋の爺さんに金包みが置いてなかったか尋ねましたが、爺さんは無かったと言います。旅の僧は落胆し、このお金が無ければ生きてはいられませんと、海に身を投げ自らの命を絶ってしまいました。
 人の執念というものでしょうか、その後、この層の亡骸は何度沖へ運んでも茶屋の裏に流れ着いてしまいました。不憫に思った村人は、この浜に稲荷社を建てて祀ってやりました。しかし、この社に正一位は付かなかったと言われています。才兵衛というのはこの旅の僧の名ではなさそうですが、誰の名前なのか定かではありません。
 この稲荷社は、元は子安在住の小川姓一族により維持管理されておりました。大変珍しいことに、この社にお坊さんが関係あるせいでしょうか。お稲荷様と言えば神様なのですが、昔からこの土地の人は神前に線香をあげる習慣があるということです。

才兵衛稲荷の由来

才兵衛稲荷の入口案内