江戸日本橋を出発点とする東海道は、川崎宿を過ぎてから隣の市場村(現在の横浜市鶴見区尻手・元宮・市場あたり)へ至ります。この区間は八丁(約870m)あり、畷といって、道が田畑の中を真直ぐに延びていましたので、この地を八丁畷と呼ぶようになりました。
 八丁畷の付近では、江戸時代から多くの人骨が発見され、戦後になっても、道路工事などでたびたび掘り出され、その数は十数体にも及びました。これらの人骨は、東京大学の人類学の専門家によって科学的に鑑定され、江戸時代ころの特徴を備えた人骨であることが判明しました。
 江戸時代の記録によりますと、川崎宿では震災や大火・洪水・飢饉・疫病などの災害にたびたび襲われ、多くの人々が落命しています。おそらく、そうした災害で亡くなった身元不明の人々を、川崎宿のはずれの松や欅の並木の下にまとめて埋葬したのではないでしょうか。
 不幸にして落命した人々の骨を供養するため、地元では昭和9年、川崎市と図ってここに慰霊塔を建てました。
   (川崎市教育委員会)

地蔵尊碑

慰霊塔

歌川広重の六郷渡舟

八丁畷の由来と人骨説明

旧東海道碑

川崎市立川崎中学校美術部作成