江戸時代後期、幕藩体制の動揺に伴う社会不安の増大や、農村における貧富差の拡大などは、人々の将来に対する危機感をつのらせた。そのような状況下に富士山に彌勒の浄土を求めた新興の庶民信仰である 「富士講」 は、関東一円で爆発的な流行をみた。
 さらに当時 「生き仏」 と崇められた浄土宗の高僧・徳本上人は、全国各地を遍歴して念仏を勧め、浄土往生を願う農民たちにやすらぎを与え、彼の赴くところ、おのずから一つの信仰集団が生まれ、「六字名号碑」 の建立が行われた。
 教安寺に残る燈籠は、富士講の有力な先達であった堀の内出身の西川満翁が組織した 「タテカワ講」 によって建立されたものであり、境内の六字名号碑は同じく宿民によって建立されたものである。

天保11年(1840)の常夜燈

教安寺本堂

教安寺由緒

江戸時代に造られた梵鐘

鐘楼

地蔵菩薩坐像と無縁塔