鶴見橋関門旧跡説明

 安政6年(1859)6月、横浜開港とともに、神奈川奉行は、外国人に危害を加えることを防ぐため、横浜への主要道路筋の要所に、関門や番所を設けて、横浜に入る者を厳しく取り締まった。
 鶴見橋関門は、万延元年(1860)4月に設けられ、橋際のところに往還幅4間(約7m)を除き、左右へ杉材の角柱を立て、大貫を通し、黒渋で塗られたものでした。
 文久2年(1862)8月、生麦事件の発生により、その後の警備のために、川崎宿から保土ヶ谷宿の間に、20ヶ所の見張番所が設けられました。鶴見村には、第5番の番所が鶴見橋際に、その出張所が信楽茶屋向かいに、また、第6番の番所が今の京浜急行鶴見駅前に設けられました。
 明治時代に入り、世情もようやく安定してきましたので、明治4年(1871)11月、各関門は廃止されました。なお第5番・第6番の御番所は、慶応3年(1867)に廃止されています。

旧東海道鶴見橋標柱

明治3年(1870)の鶴見橋関門旧蹟碑