京急八丁畷駅前に松尾芭蕉の句碑があります。
元禄7年(1694)5月11日、芭蕉は江戸深川の芭蕉庵をあとに故郷伊賀上野へ向かいました。芭蕉を見送りに来た弟子たちは、名残を惜しんで六郷川(多摩川)を渡って川崎宿に入り、このあたりまで来ました。そして別れを惜しんで弟子たちと句を詠みあいます。
弟子たちに対して、芭蕉が詠んだ句が 「麦の穂を たよりにつかむ 別れかな」 です。
芭蕉はこの年の10月大阪で不帰の客となりました。享年51歳。弟子たちにとって、この場所での別れが、本当の別れになりました。弟子たちが詠んだ句は、旧東海道沿いの川崎警察署のすぐ近く、ビバーズ日進町1階「芭蕉ポケットパーク」で見ることができます。
平成16年(2004)、日進町町内会館は新しく建替えられ、その機に、松笈芭蕉の句碑にちなみ会館名を 「麦の郷」 と名付けました。
日進町町内会館 「麦の郷」 の由来
線路際に建つ小祠
小祠の地蔵尊
俳聖松尾芭蕉は、元禄7年(1694)5月、江戸深川の庵をたち、郷里、伊賀(現在の三重県)への帰途、川崎宿に立ち寄り、門弟たちとの惜別の思いをこの句碑ににある
麦の穂を たよりにつかむ 別れかな
の句にたくしました。
芭蕉は、「さび」 「しおり」 「ほそみ」 「かろみ」 の句風、すなわち 「蕉風」 を確立し、同じ年の10月、大阪で、
旅に病んで 夢は枯野を かけめぐる
という辞世の句をのこし、51歳の生涯を閉じました。それから130余年後の文政13年(1830)8月、俳人一種は、俳聖の道跡を偲び、天保の三大俳人のひとりに数えられた師の桜井梅室に筆を染めてもらい、この句碑を建てました。
(川崎市教育委員会)
芭蕉句碑説明
芭蕉句碑
芭蕉句碑を安置した覆屋