昔、梅屋敷山本家の門の横に自然石の里程標の石碑がありました。その高さは1mほどでその表面には、「距日本橋三里十八丁 蒲田村山本屋」 と刻されていたと伝えられています。
木戸孝允、伊藤博文らが梅屋敷で新年宴会を開いた際、二人が合作した一幅中の木戸孝允の画にも描かれていました。戦後里程標は姿を消しましたが資料をもとに復元しました。 (大田区)
園内の小池と植栽
白梅と紅梅
梅屋敷公園入口
この句碑は弘化3年(1846)山本久蔵が梅路と号し、建立したものと言われています。また梅路、梅志の墓は蒲田の妙典寺にあり、その墓石にも句碑が刻されています。 (大田区)
昔、梅屋敷の園内には数多くの碑石がありましたが、所有者が移った時や戦後の混乱期に姿を消してしまいました。この歌碑はそれらの一つを資料をもとに復元したものです。 (大田区)
梅路 しら梅の梢や月のたかみくら
梅志 松竹は表にうらハ梅の春
旅人の 神に手向けの 弊代や 白絹咲きし 庭中の梅
距日本橋三里十八丁
里程標
狂歌堂真顔の歌碑
梅路、梅志の句碑
明治天皇行幸所蒲田梅屋敷碑
「和中散」 は、食あたり、暑気あたり等に効く、道中常備薬としてつくられ、旅人に珍重された。元禄から正徳にかけて(1688~1716)大森村中原、谷戸、南原に三店が開業した。
このうち南原にあった店が、後に北蒲田村の忠左衛門に譲られ、この地に移転したという。文政年間(1818~1830)の初め、忠左衛門の子の久三郎の代に、庭園に梅の名木を集めて、休み茶屋を開いた。亀戸の梅林とともに梅の名所
「梅屋敷」 として有名になり、広重の浮世絵にも描かれた。
(大田区教育委員会)
梅屋敷は、明治元年(1868)から明治30年(1897)の間に天皇の9度の行幸がありました。
天皇はことのほか梅屋敷の風致を好まれ、明治6年(1873)3月6日の御観梅のときには小梅一株をみずからお手植えなされ、子の梅は仙粧梅と称されて後に人々に愛されたと云われています。その後、昭和8年(1933)に史蹟として保存指定を受け、昭和13年(1938)に東京市へ寄付、さらに昭和28年(1953)に大田区に譲与され、現在に至っています。 (大田区)
梅屋敷と和中散売薬所跡説明
明治天皇と梅屋敷説明