川崎宿に三つあったと云われる本陣の中で、最も古くから在った田中本陣は、寛永5年(1628)に設置されている。田中本陣はその場所が最も東、すなわち江戸に近いため
「下の本陣」 ともいわれた。(中略)
江戸後期には、大名家の財政難や参勤交代の緩和により、衰えも目立った。安政4年(1857)、アメリカ駐日総領事ハリスが、田中本陣の荒廃ぶりを見て、宿を万年屋に変えたことは有名である。
明治元年(1868)、明治天皇の東幸の際、田中本陣で昼食をとり、休憩したとの記録がある。
宝永元年(1704)、42歳で田中本陣の運営を継いだ田中休愚(兵庫)は、幕府に働きかけ六郷川(多摩川)の渡し船の運営を川崎宿の請負とすることに成功し、渡船賃の収益を宿の財政に充て、伝馬役で疲弊していた宿場の経営を立て直した。さらに商品経済の発展にともなう物価の上昇、流通機構の複雑化、代官の不正や高年貢による農村の荒廃、幕府財政の逼迫に対し、自己の宿役人としての経験や、するどい観察眼によって幕府を論じた
「民間省要」 (みんかんせいよう)を著した。これによって、享保の改革を進める八代将軍吉宗にも認められ、幕府に登用されてその一翼を担い、晩年には代官となったのである。
東海道の他の宿場より遅れてつくられた川崎宿はいわば新宿。後に中心部だけをこう呼んだのか。あるいは、宿を設ける際、新たにできた街並みをこう呼んだものか。この辺りが新宿だった。
田中(兵庫)本陣は、寛永5年(1628)に設けられた宿内最古の本陣である。ここ出身の休愚は宿の財政再建に尽力した人物で、当時の農政を論じた 「民間省要」 の著者としても知られる。
田中本陣と休愚の解説
田中本陣と田中休愚の解説
稲荷横丁の標柱
新宿という町の解説
街燈の柱に田中本陣跡表示