浜川橋のたもとから立会川が海に注ぐところまでが、土佐藩抱屋敷跡であった。幕府への「指出」によると869坪が抱屋敷の広さである。(抱とは拝領と異なり、買入・借用していたものである。)ここは土佐から送られてくる物資の荷揚げ地であり、立会川から荷を陸上に揚げていた。
ペリー来航の嘉永6年(1853)土佐藩は砲台築造の「願」を幕府に提出し許可を得て、翌年、砲台を造った。浜川砲台と言われた。砂浜のやわらかい土地を、石、土砂で埋立て、2300坪に拡大させている。砲台は8門を設置していた。警備陣は品川下屋敷を宿所としてこの砲台に配置されていた。
浜川砲台と品川下屋敷を結ぶ、連絡路は現在の立会川商店街の道路であり、その距離、約200mである。若き日の坂本龍馬も警備陣に加わっており、この道を毎日歩いていた。
鮫洲抱屋敷跡・浜川砲台跡説明
倉庫の壁に描かれた黒船と坂本龍馬
浜川砲台跡