中世前期、この附近は 「川崎荘」 と呼ばれる一つの地域単位を構成していたが、その時代荘内に勝福寺という寺院があり、弘長3年(1263)在地領主である佐々木泰綱が中心となり、5000人余りの浄財を集めて梵鐘の鋳造が行われた。勝福寺はその後退転したようであるが、宗三寺はその後身とみられ、戦国時代、この地を知行した間宮氏が当寺を中興している。
「江戸名所図会」 に本尊釈迦如来は、「一尺ばかりの唐仏なり」 とあるように、本尊は低い肉髯、玉状の耳朶、面長な顔、腹前に下着紐を結び、大きく掩腋衣をあらわす中国風の像である。今、墓地には大阪方の牢人で、元和元年(1615)川崎に土着した波多野伝右衛門一族の墓や、川崎宿賃座敷組合の建立した遊女の供養碑がある。
(川崎市)
地蔵菩薩立像と地蔵尊が陽刻された供養塔
宗三寺本堂
宗三寺由緒
宗三寺寺標
六地蔵尊