宿場の入口には切石を積んだ土居があり、これを出ると所謂八丁畷の一本道、土居内は832間、この中に小土呂、砂子、新宿、久根崎の宿を構成する4つの町があった。
 江戸時代後期における人口は770戸、3100人余りであり、伝馬役を負担する農民のほか、旅籠、大工、傘職、仏師、左官桶職、経師、指物師などさまざまの商人や職人が住んでいた。文久2年(1862)外国人遊歩区域となった当宿には、この土居付近亥外国人警護のため第一関門が設けられ、以下保土ヶ谷宿まで19ヶ所に設けられた関門番所には、宿役人2名、道案内3名などが詰めて警戒にあたり、非常の際は半鐘を鳴らし、隣りの番所と連絡を取ったのである。   (川崎市)

①芭蕉の句碑、②教安寺、③小土呂橋、④佐藤本陣跡、➄妙遠寺、⑥稲毛神社、⑦宗三寺、⑧一行寺、⑨真福寺、⑩川崎稲荷社、⑪万年跡、⑫六郷の渡し跡

加藤遠江守宿と記された復元関札

川崎宿史跡めぐり案内

川崎宿京入口解説

 棒鼻の石垣の上には、その日その宿場にお泊りになる大名の関札が掲げられていました。本陣の前にも掲げられたこの関札には立派な檜の板が使われ、毛筆で堂々とした書体で記され、非常に大切にされました。これを粗末に扱ったために事件や紛争になって処罰された者が出た事件もあったほどです。
 この関札は川崎市市民ミュージアムに保存されている実際の関札を復元したものです。
 「加藤遠江守宿(かとうとおとうみのかみやど)」 と書かれています。