旧東海道川崎宿には、大名や公家などが宿泊する本陣、宿駅の業務を司る問屋場、近村より徴発した人馬が集まる助郷会所、高札場や火之番所などの公的施設をはじめ、旅籠や商家など350軒程度の建物が約1400mの長さにわたって軒を並べ、賑わいを見せていた。
 古文書や絵図から宿の町並みを探ってみっると、旅籠は約70軒を数え、油屋・煙草屋・小間物屋・酒屋などが店を広げる一方、大工・鍛冶屋ほか多くの職人や農民も居住しており、活気にみちた都市的景観を認めることができる。
 もともと、川崎宿のあたりは砂浜の低地で、多摩川の氾濫時には、冠水の被害に見舞われる地域であった。そのため、旧東海道は砂州の微高地上を通るよう配慮がなされ、さらに川崎宿の設置に当たっては、宿域に盛土が施されたという。
 現在でも砂子から小土呂あたりを歩いてみると、旧街道筋が周囲よりも幾分高いことが良くわかる。
 川崎宿は、慶安・元禄年間の大地震や宝暦11年(1761)の大火など度重なる災害に見舞われ、明治維新以降も関東大震災や空襲などで、往時の景観は全く失われてしまった。
 しかし、大きな変貌を遂げてきた今日の町並みの中に、宿の成立にかかわる地形や寺院の配慮など、川崎宿の面影を見ることができる。

東海道五十三次之内品川宿之風景・川崎幷近里名所風景・神奈川之景

セブンイレブン(問屋場跡)の向いに建つ旧東海道案内板

問屋場跡

 伝馬人足、飛脚、本陣の休泊などの宿場業務を監督する問屋場。
 川崎宿では、約30名の問屋役人が昼夜交代で勤務し、その職務は繁忙を極めた。