武蔵野の東南端、広く海に面したこの辺りは、その天然資源も豊かなる為、古くより人間生活が営まれ、古墳時代の遺跡として今も芝公園台上に残る、大古墳跡に見られる如く集落を形成。漁業を中心とする活動が盛んであったと思われ、その関係か古く由緒ある社寺(芝大神宮等)が近隣に現存する。その後乱世を迎え太田道灌、平川城(江戸城の前身)を築く頃には、町らしき形態に成長したと考えられ、天正18年(1590)徳川家康の江戸城入城を見、城下町計画に着手。慶長3年(1598)その菩提寺増上寺を麹町より現在地に移転、更に武家を中心に町年寄、特権商人、地元住民による東側海浜地帯の埋立工事完成。慶長6年(1603)東海道を現国道15号線上に定め、此の東西両側には日常生活用品から産業用資材まで各種商人が軒を連ね商業地域の中心となり、その両後背に大名屋敷が並ぶ江戸の町が出現した。当時この町は増上寺代官と兼務であった名主奥住久右衛門の支配下で 「久右衛門町」 と呼ばれ、元禄年間には遠江(静岡県)浜松出身の権兵衛という名主と交替した事より、これ以降 「浜松町」 に改名され、明治、大正、昭和、平成と受け継がれ現在に続いている。江戸では歴史ある数少ない 「古町」 のひとつである。
浜松町由来記
慶長年間の増上寺を中心とした古地図