慶長6年(1601)徳川家光が東海道を新たに整備して、39宿を定めたが、川崎は品川宿と神奈川宿の合の宿で、元和9年(1623)家光の時に宿駅に追加制定され、いわゆる東海道五十三次となった。
慶長5年(1600)江戸三大橋の一つとして六郷大橋(109間)が架けられたが、度々の洪水で破損し、元禄元年(1688)から船渡しとなった。
川崎宿は、久根埼・新宿・砂子・小土呂4町よりなり、「六郷の渡しを渡れば万年屋。鶴と亀とのよね饅頭」 と唄われた。
徳川将軍の4代にわたる御大師様への厄除け参詣が、江戸庶民の大師詣を盛んにし、大師には門前町ができて大いに賑わった。
明治5年(1872)新橋-横浜間に鉄道が開通したが、大師詣客のため、その中間に唯一川崎駅が設置されたことは、驚きに値する。しかし、その後、東京-横浜間の通過町としてさびれたが、明治末頃から六郷川を利用して川岸に産業が興り、大正・昭和には臨海部の埋立地に重化学工業が林立し、日本経済をリードする一大産業都市に発展した。
当川崎宿は宝暦や文久の大火、安政大地震、また、昭和20年4月の米軍B29の大空襲のため、江戸を物語る面影は全て焼失し、今では浮世絵や沿道の古寺の石造物から、わずかに往時の川崎を偲ぶのみである。
(川崎・砂子の里資料館)
川崎宿の由来
初期浮世絵から錦絵誕生まで
浮世絵誕生には諸説あるが、一枚ものの浮世絵版画は、元禄時代菱川師宣から始まったといえよう。
当初の 「ぬり絵風」 墨摺一枚絵から、手彩色による丹絵、紅の色を多く用いた紅絵、さらに墨や絵具にうるしを加えて光沢をもたせた漆絵がつくられた。
やがて、手彩色から2~3色の色版を重ねた紅摺絵と彫摺の技術が進歩。
この浮世絵発展の過程を経て、70年後の明和2年(1765)、鈴木春信の多色摺版画・錦絵が誕生した。
東海道五十三次 川崎 広重画