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中山道   (関ヶ原~醒井)


平成27年10月29日(木) ☀  関ヶ原~醒井  13.9㎞
前日は大垣駅前に宿を取ったため関ヶ原まで一駅進んで昨日の続きをスタートさせる。関ヶ原からは今須峠を越えて今須宿、柏原宿、醒井宿で距離は非常に余裕を持って設定しているので、街道沿いの神社仏閣などもゆっくり見て回ることが出来そうである。

早朝の月 芭蕉句碑 貴船神社 関ヶ原駅
早朝5持40分はまだ暗いが月が出ていることから今日も天気は良さそうである。この写真はホテルから大垣城方向を見たものである。 松尾芭蕉は、貞享元年(1684)から元禄4年(1691)にかけて4度大垣を訪れているため、大垣市では市内を流れる水門川沿いの 「四季の路」 を 「ミニ奥の細道」 として整備している。ミニ奥の細道に21基ほど建っているが、ホテルから駅へ出る途中に3基あった。 水門川沿いに貴船神社がある。
ここには貴船・熊野の二社が祀られており、この二社は大垣藩主戸田家が摂州尼ヶ崎時代からの鎮守の神七社中の二社であり、明治4年(1871)本町が戸田公に下賜を願い遷座されたものである。
朝陽を浴びた関ヶ原駅には大一大万大吉の家紋と葵の紋が目立っている。

常夜燈 西首塚 道標 地蔵堂
関ヶ原西町交差点を過ぎると左手に明治5年(1872)の大神宮常夜燈が建っている。この辺りが関ヶ原宿の京口(西口)に当たる。 常夜燈の先で梨の木川を越えると右手に西の首塚がある。
関ヶ原合戦の戦死者数千の首級を葬った首塚と大木の裏の胴塚である。塚上には江戸時代から十一面観世音菩薩と馬頭観世音菩薩の御堂が建てられ供養されている。
西首塚から350m程先で国道21号線から左に入る旧道口に道標が建っている。道標には 「これより中山道関ヶ原宿松尾」 と刻まれており、旧松尾村に入って行く。道標の向かいの信号機の下には地蔵堂がある。 旧道を進むと直ぐ先で国道21号線から枝分かれした道路に合流する。その手前左手に地蔵堂がある。
この地蔵尊には化粧が施されている。後で気付いたがこの化粧は滋賀県へ近づくにつれてはっきりしてくる。

不破関東城門跡 福島正則陣跡 不破関関庁跡 不破関跡
地蔵堂の斜向かいには美濃不破関の東城門跡がある。美濃不破関のほぼ中央を東西に東山道が通り抜けており、関の東端のここに城門や楼が設けられて兵士が守り固めており、日の出とともに開門、日の入りとともに閉門されたという。ここには不破関・福島正則陣跡の道標があり、向かいには郷社井上神社社標が建っている。 福島正則陣跡道標に従って路地を進むと、春日神社境内に福島正則陣跡がある。東軍の先鋒となった福島正則は約6千の兵を率いて、ここで南天満山の宇喜多隊と退陣している。この春日神社は月見宮と呼ばれ、境内にある杉の巨木は関ヶ原合戦図屏風にも描かれた 「月見宮大杉」 といわれ、樹齢は800有余年と推定されている 街道に戻って先に進むと、右手に不破関関庁跡・大海人皇子の兜掛石・沓脱石の道標があり、民家の脇を抜けると畑の真ん中に兜掛石の安置された小社がある。この辺りに不破関関庁の中心建物があったとされ、関内の中央を東西に東山道が通り、その北側に瓦屋根の塀で囲まれた約108m四方の関丁が設けられ、内部には庁舎・官舎・雑舎が建ち並び、周辺土塁内には兵舎・食糧庫・望楼などが建っていたという。 街道に戻って先に進むとY字路となり、左手に白壁塀の不破関跡がある。美濃不破関は、東海道の伊勢鈴鹿関、北陸道の越前愛発関とともに古代律令制下の三関の一つとして壬申の乱(672年)後に設けられた。延暦8年(789)に停廃された後は三輪家が代々関守を務めてきた。今は関守の末裔である三輪家が所有する庭園 「関月亭」 がその一部として公開されている。

道標 地蔵堂 不破関西城門趾 藤下橋
不破関跡のY字路右手に道標が建っている。道標には 「左旧中山道 右中山道大谷吉隆之墓」 と刻まれている。
ここを右に行くと不破関資料館がある。
道標の右手の斜面に地蔵堂と文化2年(1805)の常夜燈が建っている。
地蔵堂には半跏地蔵菩薩、十一面観音菩薩が安置されている。
不破関跡から左の下り坂を進むと左手の林に西城門址がある。不破関は藤古川を西限として利用し、左岸の河岸段丘上に主要施設が築造され、川面と段丘上との高度差は10~20mの急な崖になっており、自然の要害を巧みに利用している。
ここには不破関を鎮護する戸佐々神社があり、関比男明神が祀られている。
戸佐々神社の先で藤古川に架かる藤下橋を渡って行く。藤古川は伊吹山麓に源を発し、関所の傍を流れているところから、関の藤川と呼ばれていた。壬申の乱(672)では、両軍がこの川を挟んで開戦した。更に関ヶ原合戦では、大谷吉継が上流右岸に布陣するなど、この辺りは軍事上要害の地であった。

若宮八幡神社 矢尻の池 自害峯の三本杉 道標
藤古川を渡った左手に若宮八幡神社社標が建っており、150m程進んで行くと林の中に若宮八幡神社がある。創建年は定かではないが、若宮八幡社縁起によれば元応2年(1320)に弘文天皇を祭り、応永11年(1404)と明応9年(1500)に社殿修繕が確認できる。本殿は檜皮葺きの桃山様式の貴重な建物というが、石垣の上の覆屋の中で見ることは出来ない。 街道に戻って坂道を進むとY字路となり、中央に大谷吉隆墓七丁の道標と峠箭先地蔵堂があり、その裏手に矢尻の池がある。この窪みは壬申の乱(672)のとき、水を求めて大友皇子軍の兵士が矢尻で掘ったものと伝えられている。 集落を抜けた左手に 「弘文天皇御陵候補地・自害峯の三本杉」 の道標があり、道標に従って進んで行くと壬申の乱(672)の戦いで血に染まったという黒血川に出る。この川の左手の山腹に自害された大友皇子が葬られたといわる場所があり、三本杉がそのしるしとなっている。 街道に戻って進むと、国道21号線に合流する手前に 「従是西不破郡山中村地内」 と刻まれた道標がある。この道標の向かいには、京方面から来る人のための大きな 「これより中山道関ヶ原宿藤下関ヶ原町」 の標柱が建っている。

立場跡 若宮八幡神社 大谷吉隆陣跡 大谷吉隆の墓
国道21号線を横切って旧山中村に入ると右手に立場跡がある。江戸時代を通して旗本竹中氏の知行地であった山中村は、中山道の間の宿として酒造業を始め十数軒の商家が軒を連ねていた。 立場跡の先の右手に若宮八幡神社社標があり、鳥居の手前に 「宮上 大谷吉隆陣跡」 の標柱がある。鳥居の先の石段を上って東海道本線を渡った先に若宮八幡神社がある。創建年は不詳であるが、御祭神は大友皇子(弘文天皇)であり、関ヶ原合戦では大谷吉隆(吉継)が宮上に布陣している。 若宮八幡神社の奥へ180mほど入ったところに大谷吉隆(吉継)陣跡がある。親友石田三成の懇請を受けた大谷吉隆は、死に装束でこの宮上に出陣している。9月3日の到着後、山中村郷士の地案内と村民の支援で宇喜多隊ら友軍の陣造も進め、15日未明の石田三成ら主力の着陣を待ったという。 大谷吉隆(吉継)陣跡から更に300m程山の中を進むと敵方藤堂家が建てた大谷吉隆(吉継)の墓がある。大谷吉隆(吉継)は石田三成の挙兵に対し、再三思い止まるよう説得したが、三成の決意は変わらなかった。吉隆は意を決して死に装束で宮上に出陣してきた。壮絶な死闘の末、吉隆は首を敵方に渡すなと言い残して自害した。

松尾山眺望地 教楽寺 高札場跡 黒血川
大谷吉隆陣跡から右手に上り詰めると松尾山眺望地がある。正面1.5㎞先に望む標高293mの山が松尾山である。関ケ原合戦において小早川秀秋が布陣したことで有名である。吉継は予てから秀秋の二心を疑っていたので、自ら約2千の兵を率い下方山中村の沿道に出て、専ら秀秋に備えていたという。 街道に戻って進むと右手段上に真宗大谷派の香雲山教楽寺がある。
傾斜地に建っているため境内はかなり狭く、鐘楼のすぐ裏を東海道本線が走っている。
教楽寺の先の千束橋詰めに高札場跡があり、中山道間の宿山中・高札場跡標柱が建っている。 高札場の先に小さな沢があり黒血川の説明がある。自害峯の前に流れる川も黒血川と呼ばれていたが、この沢も壬申の乱(672)の大友軍と大海人軍の激戦で両軍の兵士の流血が川底の岩石を黒く染めたことから、黒血川と呼ばれたといわれ、自害峯の前に流れている川の上流に当たる。この沢の上流に見えている黒血川橋梁をくぐると左手段上に大観寺があるが、参道は閉ざされ廃寺になっているようである。

三地蔵尊 鶯の滝 常夜燈 常盤御前の墓
黒血川の直ぐ先右手に右から交通安全地蔵尊・黒血川地蔵尊・鶯瀧地蔵菩薩が並んでいる。 三地蔵尊の前の道路下に鶯の滝がある。この滝は今須峠を上り下りする旅人の心をいやしてくれる恰好な場所であった。滝の高さは約5mで水量は豊かで冷気立ち込め、年中鶯の鳴く平坦地の滝として街道の名所になっていた。 鶯の滝の直ぐ先のY字路には、「常盤御前の墓200m→」 の道標が建っており、ここを右に進み東海道新幹線のガード下をくぐって先に進むと、右手の民家の路地奥に明治34年(1901)の常夜燈が建っている。常夜燈には大神宮・村内安全と刻まれている。 常夜燈の直ぐ先に地蔵堂があり、その脇を右に入ると常盤御前の墓がある。都一の美女といわれ16歳で源義朝の愛妾となったが、義朝が平治の乱(1160)で敗退すると敵将平清盛の威嚇で常盤は今若・乙若・牛若の三児と別れ、一時期は清盛の愛妾にもなった。東国に走った牛若の行方を案じた常盤御前は、乳母の千種と後を追って来たが土賊に襲われて息を引き取った。哀れに思った山中の里人がここに葬り塚を築いたという。

見真大師道標 常盤地蔵尊 今須峠 今須一里塚跡
街道に戻って130~40m程進むと、左手に大正6年(1917)の見真大師道標がある。道標には 「右聖蓮寺道 見真大師」 と刻まれている。見真大師とは明治9年に明治天皇より親鸞聖人に贈られた大師号である。この道標は、別名山中大師道標とも呼ばれている。 道標の直ぐ先右手に常盤地蔵尊がある。常盤御前が土賊に襲われ亡くなったのは43歳で、宿の主人が街道筋に塚(常盤御前の墓)を築いたが、その後哀れに思った村人が無念の悲しみを伝える常盤地蔵をこの場所に安置して供養したものである。寿栄2年(1183)義経は上洛のため二万余騎を率いて若宮八幡神社に戦勝祈願し、母の塚と地蔵尊前では、暫しひざまずき常盤の冥福を祈ったという。 常盤地蔵の先で東海道本線を横切って上って行くと今須峠である。峠の頂上は山中の常盤塚当たりから1㎞程に位置し、一条兼良はこの峠で 「堅城と見えたり、一夫関に当たれば万夫すぎがたき所というべし」 と認めたように、この付近きっての険要の地であった。往時はこの付近には茶店があり、街道脇に石組みが残っている 国道21号線に合流して直ぐ左手に今須一里塚が復元されている。ここは江戸日本橋から数えて114里目の一里塚跡である。

青坂(せいばん)神社 門前橋 今須橋 今須宿本陣・脇本陣跡
一里塚の先で東海道本線下り線の雨谷道踏切を渡ったところに青坂神社がある。線路沿いの参道を進むと拝殿があり、本殿はさらに東海道本線上り線を跨ぐ石段を登ったところにある。この神社は、承久の乱後、鎌倉から今須へやってきた武将・長江秀景が祖先の勇将・鎌倉権五郎景政を祀ったものと言われている。拝殿横には徳川家康が関ケ原合戦を終え、腰掛けて一服したと言われる 「徳川家康腰掛石」 がある。 青坂神社から国道21号線を跨いで旧道に戻ると、「これより中山道今須宿」 標柱と聖蓮寺寺標が建っており、先に進むと雨谷川に架かる門前橋がある。 門前橋を渡った先で中狭川に架かる今須橋を渡ると、渡詰め左手に常夜燈が建っている。今須宿の入口である。 今須橋の先を進むと左手の今須生活改善センター前に今須宿本陣・脇本陣跡標柱がある。今須宿は美濃国と近江国の境の宿として栄え、215坪の伊藤家本陣が1軒で現在の今須中学校付近一帯に位置しており、脇本陣は美濃16宿の中でも2軒置かれ、いずれも今須中学校の駐車場付近にあった。脇本陣のうち河内家は寛政年間に米原市伊吹町の玉泉寺に移築されている。

妙応寺 小社 問屋場跡 常夜燈
旧本陣跡の向かい側から北に向かう道の先で、国道21号線と東海道本線の二つのガードをくぐった突当りに曹洞宗の青坂山妙応寺がある。創建は正平15年(1360)当時の今須城主長江重景が母親である妙応尼の菩提を弔う為、峨山禅師を召還し開いたのが始まりとされ、寺号は母の戒名に因んでいる。 街道に戻って先に進むと、JAにしみの今須支店の斜向かいの空き地角に小社がある。秋葉神社か愛宕神社であろうか。 小社から少し進んだ今井警察官駐在所の向かいに問屋場跡の山崎家がある。美濃十六宿のうちで当時のまま現存しているのは、文政3年(1820)築の山崎家だけである。門の屋根には縁起物の永楽通宝の軒丸瓦が残っている。 今須郵便客の斜向かいの塀の中に永代常夜燈が建っている。文化5年(1808)京都の問屋河内屋は、大名の荷物を運ぶ途中、ここ今須宿付近で荷物を紛失してしまい金比羅様に願をかけ一心に祈ったところ幸いにも荷物が出てきたため、そのお礼にこの常夜燈を建立したという。

愛宕神社山燈籠 真宗寺 法善寺 八幡神社鳥居
常夜燈の先の小畑商店の脇を右に入る路地は愛宕神社の参道である。突当りに明治30年(1897)の山燈籠が建っており、石工古川栄次郎と刻まれている。社殿はこの北側の山にあると思われる。 愛宕神社常夜燈の先を50~60m進むと左手に真宗大谷派の大渓山真宗寺がある。真宗寺の手前とその先の民家前には地蔵堂がある。 緩やかにうねった街道を進んで行くと右手に真宗大谷派の金剛山法善寺がある。最近整備したと思われる山門と寺標が目立っている。境内は小砂利が敷き詰められており、石造物は見当たらない。 法善寺の直ぐ先左手に八幡神社の鳥居がある。鳥居脇には明治31年(1898)の常夜燈があり、鳥居を潜ると主面に山燈籠が建っている。社殿はここから南へ300m程入った今須川を渡ったところにある。

山灯籠 車返し坂 芭蕉句碑 国境
八幡神社鳥居から100m程先に今須宿に入って初めての信号交差点があるが、この手前左手に今須宿3基目の山灯籠が建っている。 信号交差点の先は右に大きくカーブし、国道21号線に突き当たる手前に草道の車返し坂がある。南北朝の昔、二条良基という公家が 「荒れ果てた不破関屋の板庇から漏れる月の光が面白い」 と聞き、わざわざ都から牛車に乗ってやってきた。ところがこの坂を登る途中屋根を直したと聞いて引き返してしまったという。坂の奥には車返し地蔵尊が安置されている。 車返し坂の先で国道21号線の今須交差点を渡り、東海道本線の車返踏切を渡ったところにある大塚関ヶ原工場の前を通っていくと右手に芭蕉句碑がある。芭蕉句碑の傍らには、「貞享元年十二月野ざらし紀行の芭蕉が郷里越年のため熱田より帰路二十三日頃、この地寝物語の里今須を過ぐる時の吟」 と刻まれた石碑などが建っている。 芭蕉句碑の先に巾約50㎝ほどの溝がある。ここが美濃国(岐阜県)と近江国(滋賀県)の国境である。ここには国境の標柱が建っており、寝物語伝説の場所となっている。溝を挟んだ両国の宿に泊まる旅人が、寝ながら義経を追う静御前と義経の家来の源造の話をしていたことから、この土地の人々が 「寝物語の里」 という名を付け、今もなお語り継がれている。

寝物語の里碑 福寿庵 寝物語の里看板 春日神社
国境の斜向かいには寝物語の里碑が建っている。その手前には寝物語の由来碑があり、碑には太田道灌の 「ひとり行く 旅ならなくに 秋の夜の 寝物語も しのぶばかりに」 が刻まれている。寝物語の碑の奥には廃寺となった妙光寺の跡があり、境内にあった大きな杉の木が残されている。 街道を進むと左手に中山道福寿庵と書かれた門があり詳細は不明であるが、中には堀を巡らした東屋があり、塀には蛍が描かれいる。 米原市消防団山東中隊第一分団の倉庫の前に寝物語の看板があり、脇に立札がある。立札には 「昔ここには両国山長久寺という寺があったため長久寺村となった」 と書かれ、化月坊の 「啼よむし 寝もの語りの 栞りとも」 が記されている。 街道を進むと右から流れる沢の奥に春日神社がある。祭神は天児屋根命(あめのこやねのみこと)応永13年(1406)の創祀と伝わり、豊受神社・秋葉神社の境内社がある。

弘法大師御侘水碑 旧道口 神明神社 旧東山道分岐
春日神社を過ぎると緩やかな坂道となり、明治に入って植えられた楓並木の間に弘法大師御侘水碑が建っている。 楓並木の街道を進むと右手にわずかに残る旧道があり、旧道出口には中山道碑と長比(たけくらべ)城跡登り口標柱が建っている。長比城は姉川の戦の前哨戦となった城であり、木下藤吉郎・竹中半兵衛の働きで織田信長が無血入城している。跡地はここから約1㎞登った野瀬山にある。 長比城跡登り口の隣に神明神社がある。鳥居の前には、寛政12年(1800)の常夜燈が一対建っている。社殿は長比城跡のある野瀬山登山口の奥にあるようなので先に進むこととした。 鳥居の隣に旧東山道の道筋が残っており、旧東山道道標(標柱)が建っている。ここは東山道・中山道分岐点である。県境・寝物語長久寺よりJR坂下踏切までは、旧東山道の上に中山道が施設され、それより北西へ走る東山道は廃道になり、踏切を渡って柏原宿に入る道が中山道として新設された。

白清水 柏原宿碑 照手姫笠掛地蔵堂 東見附跡
旧東山道分岐から坂道を下ってJR東海道本線の野瀬踏切の前に建つ道標の先を、そのまま直進すると右手の林に白清水(しらしょうず)がある。古くから白清水または玉の井と呼ばれ、中世の仏教説話 「小栗判官照手姫」 には、姫の白粉で清水が白く濁ったことから白清水と呼ばれるようになったとある。 街道に戻ってIJ東海道本線の野瀬踏切を渡って進むと左手に楓並木があり、その脇に柏原宿碑が建っている。 先に進むと右手に照手姫笠掛地蔵堂がある。堂内に向かって右にある背の低い地蔵が照手姫笠掛地蔵であり、左にある背の高い地蔵は一古老から奉納されたものである。毒を盛られ死の瀬戸際にある小栗判官助重を救うため照手姫がこの地にあった地蔵に笠を掛けて祈ったところ小栗判官が熊野で全快したという。照手姫は再びこの地を訪れ、石地蔵を本尊とする蘇生寺を建立しが、焼失して地蔵のみ残ったという。 地蔵堂の先に真っ直ぐ延びる街道を進むと右手に東見附跡がある。ここは柏原宿東の入口で道の両側に喰違いの形で土塁が築かれていた。

竜宝院跡 八幡神社 薬師堂 旅籠屋
更に進むと右手に竜宝院跡がある。ここにあった地蔵尊が照手姫笠掛地蔵堂に安置されている。
ここには竜宝院跡標柱や山燈籠などあり、奥に秘仏を安置した御堂がある。
竜宝院跡の先右手に天元2年(979)創建と伝わる八幡神社がある。境内には山燈籠・御神馬・芭蕉句碑などがあり、句碑には 「其まゝよ 月もたのまし 伊吹山」 と刻まれている。芭蕉は元禄2年(1689)敦賀から 「奥の細道」 結びの地大垣へ、伊吹山を左手に見ながら北国脇往還を歩いた。そのあと大垣の門人高岡斜嶺邸の句会でこの句を残している。 八幡神社前交差点を越えると右手の路地奥に薬師堂がある。
境内には観音菩薩像・地蔵堂などがある。
薬師堂から程なく右手の溝に旅籠屋の看板が建っている。
看板には大和郡山藩坂田郡内取締大工勲左衛門と記されている。

問屋場跡 旅籠屋白木屋跡 柏原宿脇本陣跡 旅籠屋京丸五兵衛
街道左手に旧問屋場跡がある。柏原宿では江戸後期には6軒の問屋が東西3軒づつに分れて10日交代で務めた。
表札には問屋役杉野重左衛門と記されている。問屋場跡の向かいには、民家の間に地蔵堂が建っている。
問屋場跡の先右手に旅籠屋白木屋藤兵衛の看板がある。 旅籠屋白木屋跡の隣に柏原宿脇本陣跡がある。脇本陣は、大名・幕府役人・宮家・公卿・高僧他貴人が、本陣を利用できないときの、公的休泊施設であった。柏原宿は南部本陣の別家が本陣同様江戸時代を通して務めた。間口はこの家と隣の郵便局を合わせた広さで、屋敷は228坪、建坪は73坪あった。当家は問屋役を兼務していた。 脇本陣跡の斜向かいに旅籠屋京丸五兵衛がある。二階の格子窓脇に京丸屋五兵衛の看板が貼られている。
天保14年(1843)柏原宿では東部のここ市場町・東隣り宿村町と西部の御茶屋御殿辺りとに22軒の旅籠屋が集まっていた。

造り酒屋 問屋場跡 柏原宿本陣跡 高札場跡
旅籠屋京丸屋五兵衛の向かいに造り酒屋西川瀬左衛門跡がある。 造り酒屋の隣が問屋場跡である。
ここ吉村家は代々問屋を務め庄屋を兼ねていた。吉村家は映画監督吉村公三郎の実家であり、祖父は最後の庄屋を務めている。
吉村家の先に柏原宿南部本陣跡がある。柏原宿は江戸時代を通して南部家が本陣を務めていた。間口はこの家の両隣を合わせた広さで、屋敷は526坪、建坪は138坪あった。建物は皇女和宮宿泊の時、新築されたとも言われる。慶応元年閏(1865)5月14日第14代将軍徳川家茂は第二次長州征伐途上に宿泊している。また明治天皇行在所にもなっている。 市場川手前の右手に文化12年(1815)の秋葉常夜燈が建っている。ここが高札場跡である。市場川に架かる市場橋は、吉村公三郎監督の若き日の思い出の橋で、監督作品 「地上」 を生んだという。

造り酒屋跡 造り酒屋 伊吹堂 消防署
市場橋を渡ると右手に造り酒屋巌佐九兵衛跡がある。柏原宿は水量水質に恵まれ、酒株は宿内合わせ150石が許可され、数軒の店が営んでいた。ここ巌佐九兵衛は慶長年間の酒造り記録が残る代表的な店であった。 巌佐九兵衛の隣に造り酒屋の山根庄太郎がある。 造り酒屋巌佐九兵衛の向かいに伊吹堂亀屋左京がある。正面に 「伊吹堂」 の大きな看板が掲げられており、ここは寛文元年(1661)創業で350有余年を数える 「もぐさ」 の老舗で知られ、今も昔のままの姿で営業を続けている.歌川広重の絵にも亀屋左京の店と、店に隣接する庭園・休憩所の様子が描かれている 造り酒屋の山根庄太郎の斜向かいに消防署があるが、一見して消防署には見えない。建屋の脇には、柏原宿火消御用処の標柱があり、格子戸の中には消防車が2台収納されている。消防署の向いは柏原診療所で、入口に柏原宿碑が建っている。

柏原宿歴史館 日枝神社 箕浦代官屋敷跡 柏原福祉交流センター
消防署の先右手に柏原宿歴史館がある。歴史館は、大正6年(1917)に建てられた旧松浦久一郎邸(伊吹堂亀屋左京の分家)を改築したもので幾重もの屋根を持つ母屋は国の有形登録文化財に指定されている。 柏原宿歴史館の直ぐ先に日枝神社がある。街道に面して常夜燈と鳥居があり、傍らに大きな柏原宿標柱と山王権現毘沙門堂の標示板がある。祭神は大山咋神で創祀年代は不詳であるが、元暦元年(1184)と伝えられている。明治以前は、山王社と言われたという。 街道を左に入ったところに箕浦代官屋敷跡がある。室町時代の始め京極高氏(佐々木道誉)の命を受け、箕浦次郎右衛門が柏原代官所を開いた。昭和33年まで跡地には柏原小学校があり、四囲に石垣が残っていたというが、現在は古井戸が残るのみとなっている。近くに地蔵堂があり沢山の地蔵尊が安置されている。 街道左手に柏原福祉交流センターある。ここは西の荷蔵跡で運送荷物の東西隣宿へ継立(駅伝運送)が当日処理出来ない場合、荷物を蔵に預かったところであり、その後の柏原銀行跡でもある。明治34年(1901)、江戸時代もぐさ屋の山根為蔵家は、同業・旅籠屋・呉服屋であった家筋5軒に働きかけ、自宅別棟に柏原銀行を創立した。昭和18年(1943)滋賀銀行に合併するまで42年間この地の産業活動を支援していた。

艾屋山根為蔵跡 道標 問屋場跡 ふれあい会館
柏原福祉交流センターの棟続きに、艾(もぐさ)屋年寄亀屋山根為蔵跡がある。 街道左手の路地口にやくし道道標が建っている。最澄が創立したという明星山明星輪寺泉明院への道しるべである。この道標は享保2年(1717)で正面に 「従是明星山薬師道」、左側面に 「やくし江乃道」、右側面に 「屋く志へのみち」 と刻まれている。 道標の向かいに問屋役・年寄山根甚左衛門跡がある。 問屋場跡の先の信号交差点の左角にかつて伊吹よもぎ屋を営んでいた亀屋兵五郎を再生したふれあい会館がある。

柏原御茶屋御殿跡 郷宿跡 常夜燈 柏原一里塚跡
信号交差点の右手角に柏原御茶屋御殿跡がある。江戸時代の初め、将軍上洛下向(京都・江戸間の通行)の際の宿泊・休憩の目的で、街道の各所に設けられた館で、近江では、柏原御殿と野洲の永原御殿、水口の水口御殿を合わせて「近江三御殿」と称されてきた。天正16年(1588)、徳川家康が上洛の際、当地の西村家で休息。その後、徳川幕府の勢力増大につれ将軍上洛は減少、元禄2年(1689)ついに当地御茶屋御殿は廃止された。 信号交差点を越えると左手に郷宿跡がある。郷宿は、脇本陣と旅籠屋の中間に位置し、武士や公用で旅する庄屋などの休憩に使用されてきた。 郷宿跡の先で緩やかな上り坂の街道を進み、中井川を中井川橋で渡ると、右手に文化12年(1815)の金比羅山常夜燈が建っている。 常夜燈の先の奥手川を丸山橋で渡ると左手に柏原一里塚が復元されている。ここは江戸日本橋から数えて115里目の一里塚跡である。

愛宕社参道 西見附跡 六地蔵尊 柏原宿碑
柏原一里塚標柱の向かいに愛宕社参道が山に向かっている。石段を上ると左に地蔵堂があり、さらに登るとみろく堂がある。境内からは金毘羅山常夜燈、柏原一里塚が良く見える。 奥手川に沿った街道を進むと左手に西見附跡がある。
柏原宿西の入口で道の両側に喰い違いの土手(土塁)がある。この地点の海抜は174mで磨針峠(154m)より高い。柏原宿は東見附まで13町(1.4㎞)で長く高地の街並みが続いている。
街道を進むと右手山の斜面に六地蔵尊が建っている。
六地蔵尊の右手の奥は墓地であり、入口に建てられたもののようである。
六地蔵尊の先に柏原宿碑と九里半街道解説が建っている。柏原宿碑には、中山道分間延絵図が貼られている。中山道関ヶ原宿と番場宿の間は、九里半街道とも呼ばれた。木曽川・長良川・揖斐川の水運荷物は、牧田川養老三湊に陸揚げされ、関ヶ原から中山道に入り、番場宿で船積みの米原湊へ進む。牧田から米原湊までの行程は九里半あった。

北畠具行卿墓入口 鶯が原 並び松 道標
柏原宿碑の先でY字路を右に進むと北畠具行卿墓入口がある。細道を入って行くがそれらしきものが見当たらないので引き返した。後で調べてみると、ここから400m程北の山中に宝篋印塔が建っている。北畠具行は後醍醐天皇の側近として、鎌倉幕府討伐を図った元弘の変の中心人物である。挙兵は失敗に終わり、幕府に捕えられた北畠具行は鎌倉に護送される途中、この地で斬首された。 街道左手に広がる田園地帯は鶯が原である。木曽路名所図会には、「長沢村を過て、鶯が原に到り、柏原の宿に着く」 と記され、太田道灌は江戸から京都への旅日記(平安紀行)に 「鶯の原といふ所にて聞まゝにかすみし春そしのはるゝ名さへなつかし鶯の原」 と詠んでいる。道灌は、この旅で寝物語の里(現米原市長久寺)でも一首詠んでいる。 鶯が原の街道右手には平成14年に中山道宿駅制定400年記念の松が植樹されている。江戸時代の柏原宿では、松並木の事を 「並び松」 と呼んでいた。東西両隣り、村堺までの街道松の本数は、明治5年の調査から逆算すると幕末には約450本植えられていたという。 奥手川を渡ると旧長沢(ながそ)村に入り、左手の細道の角に享保2年(1717)の道標が建っている。柏原宿内にあった道標と同じで、正面に 「従是明星山薬師道」、左側面に 「屋く志江乃道」、右側面に 「やくしへの道」 と刻まれている。明星山薬師とは、ここから南へ800m程のところにある天台宗の泉明院を指し、ご本尊は伝教大師最澄が自ら彫った薬師如来像である。

白山神社 小川関跡 旧道口 旧道合流
道標の向かいに白山神社の鳥居がある。鳥居を潜って奥手川を渡った先に白山神社の社殿が建っている。 街道を進み左にカーブした先に小川関跡がある。不破関よりも前にあった関といわれるが痕跡は残っていない。ここには小川関跡標柱、柏原宿枝郷長沢碑、菖蒲池跡碑が建っている。大納言俊光が 「君が代のながき例しに長沢の池のあやめは今日ぞ引かるゝ」 と詠んでいる。菖蒲池は江戸後期には消滅していたという。 小川関標柱から民家の前を通って進んで行くと旧道口がある。獣害防止のため金網で扉が設けられており、この手の扉は開けたら閉めれば良いのだが、この日、この扉は針金で固定されて閉じられていたため、小川関跡から左の街道を進むこととなった。杉林の道を進むと途中に縄文中期(約4000年)の集落跡である 「番の面遺跡」 の標柱が建っている。
番の面遺跡標柱の先で右から旧道が合流してくる。ここには獣害防止の金網が見当たらないが、もっと奥に設置されているのだろうか。この合流地点には新しい榜示杭があり、「旗本西郷氏領 梓河内村(東地内)」、「右中山道 左旧中山道」 と刻まれている。

地蔵堂 中山道碑 旧梓河内村 八王子神社
街道が右カーブする手前右手に大きな地蔵堂がある。
堂内には沢山の自然石の地蔵尊などが安置されている。
地蔵堂の先のカーブの右手に中山道碑があり、「←東山道横川駅跡梓 江戸後期大和郡山領柏原宿」 と刻まれている。その先の国道21号線の梓河内信号の左手に河内碑が建っている。 花いっぱいの街道を進み、梓川に架かる梓川橋を渡ると旧梓河内村に入る。 集落に入ると右手に八王子神社社標があり、梓川を渡った先に八王子神社がある。社殿は高台にあり、本殿は神門の奥に2社並んでいる。境内には 「梓の木」 が植えられている。梓の木は巫女が神霊をよぶ時に用いた丸木の弓(梓弓)の材料としたことからこの名が付いた

横川の馬家跡 中山道碑 地蔵堂 八幡神社
梓川に沿った街道は桜並木・松並木と続き、この辺りに横川の馬家があったと推定されている。古代律令国家は畿内から全国に、東海道・東山道・北陸道・山陰道・山陽道・西海道の七道と、30里ごとに馬家を設けた。米原市内にあった横川駅の位置は、醒井と梓河内の二説があり、梓河内には小字「馬屋ノ谷」・「馬屋ノ谷口」や横川の略称とされる「小川」などの地名があることから、古代東山道の横川の馬家跡に推定されている。 松並木の左手にある喫茶樹里の脇から国道21号線に合流すると左手に中山道碑があり、その先で左手に入る旧道がある。 旧道を進むと左手の水路脇にトタン屋根に覆われた地蔵堂がある。 旧一色村の集落を進むと右手のケヤキの間に地蔵尊が並んでおり、その先に村の鎮守の八幡神社がある。
境内には万延元年(1860)の常夜燈、明治百年記念に奉納された三猿がある。

一里塚跡 等倫寺 地蔵堂 佛心水
八幡神社の先左手の名神高速道路の法面下に一色の一里塚跡がある。ここは江戸日本橋から数えて116里目の一里塚跡である。 一里塚跡の先に真宗大谷派の長尾山等倫寺がある。 緩やかな下り坂の左手段上に地蔵堂がある。地蔵堂の上は墓地になっている。 地蔵堂の斜向かいに佛心水の井戸がある。街道を往来する馬の息災を祈願して江戸後期に建立された馬頭観音に対して、この井戸は旅人の喉を潤すだけでなく、御仏の慈悲のもとで旅の安全を祈願したと考えられている。井戸の中の石に佛心水と刻まれている。

東の枡形 醒井宿碑 居醒の清水 加茂神社
佛心水から坂道を下ると途中に地蔵尊が安置された場所があり、その先左手の金網に鶯ヶ端の説明が貼られている。ここからは特に西方の眺めが良く、はるか山間には京都の空が望めたという。平安時代の歌人・能因法師も 「旅やどり ゆめ醒井の かたほとり 初音もたかし 鶯ヶ端」 と詠んでいる。その先が右に曲がる東の枡形で、ここには東の見付が設けられていた。 枡形を左に折れるとところに醒井宿碑が建っている。中山道61番目の宿場である醒井宿は、古代からの交通の要衝であり、「日本書紀」 の日本武尊伝説に登場する 「居醒泉(いさめがい)」 が醒井の地名の由来であるといわれている。 街道を進むと左手に石垣の下から湧き出る居醒の清水がある。ここには鮫島中将直筆の歌碑、日本武尊が乗馬の鞍を置いたという鞍懸石、日本武尊が伊吹征伐で熱病に罹ったとき腰掛けて熱を冷ましたという腰掛石、雄略天皇の勅使が美濃の霊水に棲む蟹を持ち帰る途中、水を飲まそうとこの清水に放したところ石になったという蟹石などがある。 居醒の清水を渡った段上に加茂神社がある。創建年代は不詳であるが、向山の東麓に鎮座されていたのを遷座したと言われている。旧社の所在地が天の川加茂が淵に添う地に建立されていたので、加茂神社と称すると言われている。境内からは醒井宿を俯瞰することができる。

緑苔寺 延命地蔵堂 お茶壺本陣跡 本陣跡
街道右手には真宗大谷派の緑苔寺がある。山門は鐘楼門になっており、中央に鐘が下げられている。 緑苔寺の先左手の地蔵川沿いに延命地蔵堂がある。堂内には鎌倉時代後半の作といわれる花崗岩を丸彫りした半跏地蔵菩薩坐像が安置されている。御堂前には赤い帽子を被ったユニークなおびんずる様が置かれ、御堂左手には沢山の自然石の地蔵尊が安置されている。 延命地蔵堂の先にお茶壺本陣跡がある。遺構などは無く説明板が有るのみである。お茶壺道中は、将軍が年間使用する御茶を献上するため、山城国宇治より運んだ行列である。中山道近江路でのお茶壺行列の宿泊駅は、守山宿と醒井宿であった。醒井宿のお茶壺本陣は、旅籠越後屋にあり、専用の門や書院があり、書院にはお茶壺を置く上段の間が設けられていた。 街道左手の地蔵川沿いに日本料理樋口山があり、ここが醒井宿の本陣があったところである。本陣跡の前の地蔵川には清流に繁茂するバイカモが群生しており、この川には水温20℃以下の清流に生息するハリヨという体長4~7㎝のトゲウオ科の魚が生息している。

脇本陣跡 問屋場跡 ヤマキ醤油 多々美家
本陣跡の向かいに脇本陣跡がある。 本陣跡樋口山の隣に問屋場旧川口家住宅があり、現在は醒井宿資料館となっている。建物の中では絶滅危惧種のハリヨを水槽で見ることができる。 問屋場跡の向かいに白壁の軒卯建を上げた連子格子の目立つヤマキ醤油がある。明治時代後半の創業で醤油や味噌を製造販売する老舗である。店の前の 「居醒の清水」 が湧出する地蔵川の水を使って仕込んでいるという。 ヤマキ醤油の先に石灯籠が目立つ旧旅籠の多々美家がある。現在は料理旅館を営んでおり、鱒の甘露煮で知られている。
脇にある門には甘露門の額が架かっている。

法善寺 問屋・庄屋跡 源海寺 了徳寺
多々美家の脇を右に入って行くと真宗大谷派の法善寺がある。延暦7年(788)に開基され、阿弥陀ケ岳より正平17年(1362)現地に移転された。この山門は、彦根城の城門を移築したと伝わっている。境内には天明7年(1787)の道灌塚が建っている。
街道に戻ると右手に問屋・庄屋跡の江龍家表門がある。江龍宗左衛門家は、長い間、問屋・庄屋を勤め、本陣や脇本陣並みの規模を誇る屋敷であった。門前には明治天皇御駐輦所碑が建っている。
江龍家表門の向かいの道を地蔵川を渡って進むと右手に真宗大谷派の源海寺がある。ご本尊は阿弥陀如来で、醒井宿4名石の一つ影向石があったという。源海寺の斜向かいには浄土真宗本願寺派の光顕寺がある。 街道に戻ると右手に浄土真宗本願寺派の石龍山了徳寺がある。了徳寺は文明年間(1469~87)に開創されたと伝えられており、境内には国指定天然記念物で推定樹齢150年以上の御葉付銀杏(イチョウ)がある。このイチョウは葉が細長く、葉にギンナンを付けるのが特徴である。

十王水 醒井大橋 西行水 松尾寺道標
了徳寺から街道を進むと地蔵川の中に十王と刻まれた石灯籠が建っており、その奥から湧水が流れ出ている。平安中期の高僧・浄蔵法師が諸国遍歴の途中、この水源を開き仏縁を結ばれたと伝えられ、浄蔵水と称すべきところ、近くに十王堂があったことから十王水と呼ばれるようになったという。 十王水の先でY字路となり、左が地蔵川に架かる醒井大橋である。 醒井大橋を渡って進むと左手の広場の奥に西行法師ゆかりの西行水がある。の上に泡子塚と呼ばれる仁安3年(1168)の五輪塔があり、塔には 「一煎一期終即今端的雲脚泡」 と刻まれている
西行水の手前には石枠で組まれた水銀窟がある。
西行水の先で醒井駅へ向かう道の角に醒井宿碑があり、その先県道17号線との交差点角に霊場松尾寺道標が建っている。松尾寺は普門山と称する天台宗の古刹で、松尾山中にある。創建はかなり古く、奈良時代後期に役行者の開基と伝えられている。本尊は雲中より飛来したという十一面観音菩薩で、一般に 「飛行観音」 と呼ばれている。

六軒茶屋跡 一類弧魂等衆の碑 霊仙三蔵立像 醒ヶ井駅
県道17号線を越えると右手に六軒茶屋跡がある。幕府の天領であった醒井宿は、享保9年(1724)大和郡山藩の飛地領となった。藩主柳沢候は、彦根藩・枝折との境界を明示するため、中山道の北側に、同じ形の茶屋六軒を建てた。この六軒茶屋は中山道の名所となり、安藤広重の浮世絵にも描かれている。 六軒茶屋の先で街道は国道21号線に合流する。合流して間もなく右手に地蔵堂と一類弧魂等衆の碑が建っている。
醒井駅前には霊仙三蔵立像が建っている。霊仙三蔵は最澄や空海と並び称せられる平安時代の高僧で、唐の都長安において憲宗皇帝にその卓越した才能を認められ、「大乗本生心地観経」 という経典の翻訳に従事し、その功績により 「三蔵」 の称号を与えられた。米原市には霊仙山が存在することから、この霊仙三蔵は、霊仙山麓の米原市醒井付近の出身との考え方がある。 本日は醒井で終了することとし、醒ヶ井駅から米原駅に出て駅前で宿泊する予定である。


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