壬申の乱(672)は天智天皇の子大友皇子と同天皇の実弟大海人皇子との間で起きた皇位継承争いでした。
 その戦はこの辺りから始まり、その後近江の瀬田で大海人軍は大友軍を破ったのです。
 ここは自害された大友皇子の頭が葬られていると伝えられ、弘文天皇御陵候補地です。三本杉がそのしるしとなっています。
 (関ヶ原町)

自害峯の三本杉説明

三本杉

自害峯の三本杉標柱

 壬申の乱(672)において、ここ山中・藤下の地では両軍初の衝突が起きています。
 7月初め大友軍は精兵を放って、玉倉部邑(たまくらべのむら)(関ヶ原町玉)を経て、大海人軍の側面を衝く奇襲戦法に出てきました。しかし、大海人軍はこれを撃退、その後この不破道を通って近江へと追撃していったのです。
 この激戦で、両軍の兵士の流血が川底の岩石を黒く染めたことから、この名が付き、その時のすさまじい様子を今に伝えています。
 この川は、青野ヶ原や関ヶ原の戦いなど、古来軍事上しばしば利用されてきました。
 (関ヶ原町)

黒血川

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黒地川説明