慶長9年(1604)、徳川家康の命を受け、秀忠はまず東海道と中山道・北陸道での一里塚築造に着手した。そして奉行には永井弥右衛門白元・本多佐太夫光重を任命、江戸は町年寄の楢屋藤左衛門・奈良屋市右衛門、街道沿いでは天領は代官、私領は領主に工事参加の沙汰が出された。工事現場の総監督はすべて大久保長安が担当した。
一里塚の規模は、5間(9m)四方に盛土して、一本または複数本の木が植えられた。おもに榎が選ばれた。成長が早く根が深く広く張って塚が崩れにくい利点から採用された。
柏原一里塚は、江戸日本橋から数えて115番目で、柏原宿内の西見付近くに街道を挟んで北塚と南塚があった。(両塚ともに現存しない。)
北塚は、街道沿い北側で、愛宕社参道の石段東側(現中井町集会所)の場所にあった。
南塚は、街道を横切る接近した二筋の川のため、止むを得ず東側の川岸で街道より奥まった所に築かれた。(現在では、大幅な河川工事が行われたので、この地点から東寄りの川床の位置になる。)
なお、江戸時代刊行の道中記等を見ると、両塚とも三本の榎が描かれている。
豊穣整地碑
柏原一里塚説明
柏原一里塚跡碑
奥出川に架かる丸山橋
復元された柏原一里塚跡