君が代のながき例(ため)しに長沢の池のあやめは今日ぞ引かるゝ (大納言俊光)

 「此の池の芹、名産なり。相伝う。古昔2町(218m)四方の池なりと。今は多く田地となりて、漸く方20間(36m)計りの池となれり。」 享保19年(1734)「近江輿地志略」

 その後、天保14年(1843)には、「菖蒲ヶ池と申し伝え候旧地これ有り。」 と 「中山道宿村大概帳」

江戸後期には消滅したようである。

 「近江坂田郡志」 は、この池が天野川の水源だったと述べている。

小川の関説明

 「坂田郡志」 に稚淳毛両岐王(わかぬけのふたまたおう)の守りし関屋(関所の施設・現存しない)と書かれ、大字柏原小字小黒谷、大字梓河内小字小川の辺りに比定、小川、古川、粉川または横川の転訛せし地名としている。 
 一面どこも植林され、あるいは原野となっているが、戦時中は食糧増産のため開墾、畑となっていたところである。したがって、往時を偲ぶようすはないが、古道の山側には整然と区画された屋敷跡 「館跡」 を確認することができる。

天の川源流菖蒲池跡碑

菖蒲(あやめ)ヶ池跡説明

柏原宿枝郷 長沢(ながそ)碑

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小川関跡碑