壬申の乱(672)後、畿内と東国との接点であるこの地に関が置かれ、大宝令(701年制定)によって東海道の伊勢鈴鹿関・北陸道の越前愛発(あらち)関とともに東山道の美濃不破関が 「三関(さんげん)」 として規定された。
 不破関は軍事・警察の機能を兼備する重要な拠点であった。美濃国府の国司四等官が分番守固し、多くの兵士が配置されて国家の非常事態に備え、また一般の通行を取締っていた。
 このように不破関は奈良時代の重要な国の施設であったが、延暦8年(789)7月、三関は突如として停廃された。兵器・糧糒(ろうび)は国府(美濃国府)に運収され、諸建物は便郡(不破郡)に移建されてしまった。
 岐阜県教育委員会が昭和49年から5次にわたって実施した不破関跡発掘調査によって、不破関の概要が明らかとなり、これを契機に昭和57年3月、不破関跡の一角に資料館を建設した。岐阜県教育委員会をはじめ関係諸機関の多大の協力を得て、不破関に関する諸資料を収集・保管し、一般公開することによって奈良時代の不破関研究の一助に資することとした。
 (関ヶ原町教育委員会)

美濃不破関跡説明

不破関資料館