当地は江戸日本橋から58番目の関ヶ原宿と、59番目の今須宿の中間に位置し、休憩施設の立場茶屋が設けられていたことなどから、俗に間の宿と呼んでいた。
 かつて当山中村は江戸時代を通し、旗本竹中氏の知行地で、ここ千束(せんぞく)橋詰めには高札場が設置されていた。徳川幕府の庶民統治上の禁制品、法度、掟書などが掲げられ、人だかりがよく見られる場所であった。
 当時は竹囲いをめぐらし、石垣や土盛りを施すなど管理は厳重で、責任者には村役人を命じ、周囲の清掃をはじめ、火災時には狼藉者の取り締まりにも当たらせていたのである。
 (関ヶ原町)

高札場跡説明

ここは旧中山道間の宿山中標柱

高札場跡標柱