弘仁8年(817)百日を越える旱魃が続き、野も山も草木は枯れ、川や湖は干上がりました。
御心配になった嵯峨天皇の命により、伝教大師(最澄)は比叡山の根本中堂に祭壇を設け、降雨をお祈りになりますと、薬師如来が夢の中に現われ、「ここより東へ数十里行ったところに清浄な泉がある。そこへ行って雨を求めよ。」
とお告げになりました。
伝教大師が泉を尋ねてこの醒井の里へ来られますと、白髪の老翁が忽然と現れ 「わたしはこの水の守護神である。ここに衆生済度・寿福円満の地蔵尊の像を刻み安置せよ。そうすれば雨が降り草木も生き返るであろう。」
と言い終わると水の中へ消えてゆきました。
大師は早速石工を集め、一丈二尺(3.6m)の地蔵菩薩の座像を刻み、祈念されますと、黒い雲がみるみる現れ、大雨が三日間降り続きました。
この雨で緑は甦り、生気を取り戻した人々は、地蔵菩薩の深いお慈悲と、伝教大師の比類なき知恵と徳行に、尊信の念を一層深くしたということです。
本尊の地蔵菩薩は、はじめ水中に安置されていましたので、俗に 「尻冷し地蔵」 と唱えられていましたが、慶長13年(1608)9月濃州大垣の城主石川日向守が霊験を感謝し、佛恩に報いるため砂石を運び、泉の一部を埋め、辻堂を建立したと伝えられています。
(米原町ほか)
花崗岩を丸彫りした半跏像で、その彫刻の特徴から鎌倉時代後半の制作であろうと考えられます。総高270㎝を測る大形の丸彫り地蔵尊の類例は全国的にも数少なく、滋賀県下で本像が唯一のものです。
明治時代に火災に遭い補修が激しいのは惜しまれますが、体部の衲衣や手足の彫刻はよく残されており、特に光背の蓮弁のレリーフは鎌倉期の写実彫刻の作風をよく伝えています。
古くより延命地蔵尊の名で親しまれ、毎年8月23・24日に行われる地蔵盆は盛大で、近郊はもとより遠方からも多くの人々が参詣に訪れます。
(米原市教育委員会)
雨森芳洲(1668-1755、現滋賀県長浜市高月町雨森出身)
江戸時代の儒学者、教育者、外交官で、26歳のとき、木下順庵の推挙により対馬へ渡る。
以来、朝鮮、中国との外交に尽くし、特に朝鮮通信使との折衝、応接に貢献する。その善隣友好、互恵対等の外交姿勢は現在も高く評価されている。
80歳で一万首の歌を詠む決意をした芳洲は古今和歌集を千回も復読したという。この歌も、その中の一首である。
水清き人の心をさめが井や底のさざれも玉とみるまで (雨森芳洲)
石造地蔵菩薩坐像説明
醒井延命地蔵尊縁起
御堂前の笑っているおびんずる様
地蔵堂に掛かる延命地蔵尊の扁額
延命地蔵堂
延命地蔵尊
御堂脇の沢山の地蔵尊
御堂裏の地蔵堂