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中山道   (醒井~高宮)


平成27年10月30日(金) ☀|☁  醒井~高宮町  15.7㎞
前日は米原駅前に宿を取ったため醒ヶ井駅まで一駅戻って、昨日の続きの一類弧魂等衆の碑からスタートすることとなった。国道21号線は大型トラックが頻繁に走り、注意して進んで行く必要がある。昨日同様、晴天とは言えないが、暑くも無く寒くも無く、歩くには申し分無いコンディションである。

米原駅 国道21号線 旧道口 地蔵堂
朝6時30分の米原駅前は人通りも無く、時折、出勤する人を送って来る車が入るのみである。 醒ヶ井駅に6時55分に降り立ち、国道21号線に出ると昨日とは変わって車の往来も少なく、比較的安全に進むことができた。
道路脇の宿場町醒井・中山道の看板が目立っている。
国道21号線を進み、丹生川に架かる丹生川橋を渡ると、その先で右に入る旧道がある。
丹生川橋の袂に壬申の乱・横河の古戦場跡解説が有り、「壬申の乱は、天智天皇の死後、長子の大友皇子を擁する近江朝廷に対し、吉野に籠っていた皇弟の大海人皇子が皇位継承をめぐり壬申の乱(672年)を起した、我が国の歴史上最大の内乱。7月7日、大海人皇子軍の本陣と大友皇子軍の本隊が、初めて息長横河で激突・激戦の末、大友皇子軍が敗れた古戦場跡。」 と記されている。
旧道に入って間もなく民家脇に小さな地蔵堂があり、その先右手の水路脇に地蔵堂が建っている。この地蔵堂には3体の地蔵座像が安置されている。

徳法寺 旧道家並み 茶屋道館 地蔵堂
地蔵堂の先左手に真宗大谷派の百寶山徳法寺がある。
天保2年(1831)の創建で、境内には親鸞聖人像、句仏碑がある。
徳法寺の先で水路を跨ぐと、その先左手民家前に小さな地蔵堂があり、微妙にうねった街道が続いている。 街道を進むと左手に中山道河南の標示板が金網に貼られており、その隣にいっぷく場の看板を下げた茶屋道館がある。この家屋は永らく空き家になっていたものを自治会が買いとり、この地の小字名 「茶屋道」 をとって 「茶屋道館」 と名付け歴史的資料を集めると共に中山道醒井宿と番場宿の中間に位置することから中山道散策者の一時の 「憩」 と 「いっぷく場」として利用されることを期し中山道四百周年事業を記念して開館した。 茶屋道館の先右手の民家脇に小地蔵堂がある。

地蔵堂 地蔵堂 浄信寺 長屋門
街道左に流れる水路に沿って進んで行くと水路脇に地蔵堂がある。
この地蔵堂には中央に地蔵座僧が安置されており、水路脇には綺麗な紫の花が咲いている。
街道を進み国道21号線を樋口交差点で横断して三吉集落に入って行く。
三吉に入って間もなく左手に地蔵堂がある。
地蔵堂の向かいに真宗大谷派の普門山浄信寺がある。
浄真寺は元和元年(1615)道澄によって開祖され、東本願寺一如上人のときに浄真寺の寺号を受けた。本堂の建立年代は不明であるが、妻入り造りの道場形式を踏襲している
浄真寺の先で和佐川に架かる和佐川橋で渡ると左手に長屋門がある。
長屋門の奥は庭園でその奥に新しい家屋が建っている。

敬永寺 八幡神社 北陸自動車道 久禮一里塚跡
長屋門の家の先右手に真宗大谷派の竹林山敬永寺がある。
敬永寺は古くは天台宗の寺院であったが、顕如上人の頃、浄土真宗に改宗している。寛文13年(1673)東本願寺宣如上人より木仏ご本尊を、その後一如上人より親鸞聖人像をそれぞれ下付されている。
街道左手に八幡神社がある。
祭神は誉田別尊(ほんだわけのみこと)・素戔嗚尊(すさのうのみこと)で、江戸時代は門根村の産土神であり、中山道分間延絵図には若宮八幡と記されている。
米原市米原地域福祉センターゆめホールを右に見て進み、その先で県道240号線のT字路を左折して北陸自動車道の高架下をくぐって行く。 北陸自動車道の高架をくぐった先に久禮の一里塚跡がある。
久禮の一里塚には右塚に 「とねり木」、左塚に 「榎」 が植えられていた。
ここは江戸日本橋から数えて117里目の一里塚である。

楓並木 問屋場跡 小社 問屋場跡
一里塚跡から程なく微妙にうねった街道となり、楓並木の気持ちのいい道となる。
街道には中山道久礼の標識が立っている
旧番場宿の集落に入ると右手に問屋場跡碑が建っている。遺構等は残っていない。 問屋場の先左カーブの手前の民家の間に小社が建っている。 小社の先で十字路となるが、その手前の民家の前に問屋場跡碑が建っている。

番場宿碑 脇本陣跡・問屋場跡 本陣跡 問屋場跡・明治天皇碑
県道24号線の十字路右手角に番場宿碑が建っており、十字路を渡った右手角には手差しの米原道標が建っている。
道標には 「米原 汽車汽船道」 と刻まれている。この道は米原道で米原湊に通じている。
十字路を渡った右手に脇本陣跡碑、次いで問屋場跡碑が建っている。
天保14年(1843)の中山道宿村大概帳によると番場宿には、本陣1軒、脇本陣1軒、問屋6軒、旅籠10軒とある。
脇本陣跡の隣に本陣跡がある。 本陣跡の隣に問屋場跡・明治天皇番場御小休所跡がある。

問屋場跡 地蔵堂 蓮華寺 法雲寺
明治天皇番場御小休所跡の隣に問屋場跡がある。 問屋場の先街道左手の火の用心と書かれた消防倉庫の隣に地蔵堂がある。 地蔵堂の先で緩やか上り坂になると左手に大きな標柱 「南北朝の古戦場 蓮華寺」・「境内在故六波羅鎮将北条仲時及諸将士墳墓」 が建っている。
ここを左に進んで名神高速道路の高架を潜った先に蓮華寺がある。境内には北条仲時及び兵士430余名の墓、鎌刃城主・土肥三郎元頼公の墓などがある。
街道に戻ると右手に真宗大谷派の松風山法雲寺がある。延宝6年(1678)の創建と伝わっている。

直孝神社 地蔵堂 地蔵尊 道標・案内板
街道を進んで行くと右奥に寛永2年(1625)勧請された直孝神社がある。
直孝神社は彦根藩2代藩主井伊直孝を祭神として勧請したと伝えられ、古来は溝尻神社と称していた。秀忠は臨終に際して直孝と松平忠明を枕元に呼び、3代将軍徳川家光の後見役に任じた。これが大老職の始まりと言われる。その後、家光からも絶大な信頼を得て徳川氏の譜代大名の中でも最高となる30万石の領土を与えられた。
街道を先に進むと左手に地蔵堂があり、更にその先の右手にも地蔵堂がある。 集落が途切れた街道左手に小社が有り、地蔵尊が安置されている。 地蔵尊の隣に左に入る細道があり、この角に鎌刃城跡への道標があり、その向かい側に写真の大きな標示柱・案内版がある。
鎌場城跡は滋賀県米原市番場の標高384mの山頂に位置する典型的な戦国時代の山城である。城主堀氏は当初浅井氏の家臣であったが、元亀元年(1570)織田信長に与したため、信長軍の前線基地となった。

菜種川 北野神社 地蔵堂 稱揚寺
道標・道案内のところから菜種川を渡って西番場の集落に入って行く。
菜種川は集落が途切れるまで左側を流れている。
やや上り坂の集落内を進むと右手に北野神社がある。
寛平6年(894)菅原道真公が布施名越両寺へ下向のとき立寄られた縁で、薨去の後祀ったと伝えられている。
北野神社参道の隣の西番場公民館前に地蔵堂がある。
この一角には中山道西番場古代東山道江州馬場駅碑がある。
街道を進むと右手に真宗大谷派の青龍山稱揚寺がある。

本授寺 地蔵堂 鎌刃城跡道標 中山道碑
稱揚寺の先右手に浄土真宗本願寺派の楓樹山本授寺がある。 本授寺の少し先右手の民家の庭先に地蔵堂がある。 街道は名神高速道路に突き当たり、道なりに進んで行くと左手に鎌刃城跡の道標が建っている。
道標の先には名神高速道路の下を通るトンネルがあり、林道滝谷線の表示があるが金網で閉ざされている。
集落が切れたところの左手に中山道番場碑が建っている。
碑は小摺針峠の方向を向いて建っている。

小摺針峠道 地蔵堂 道標 磨針一里塚跡
中山道番場碑の先は名神高速道路の法面横を真っ直ぐ山に向かって進んで行く。
やがて上り坂が急になり左に名神高速道路を見て小摺針峠の頂上(米原市と彦根市の境)を越えて行く。
小摺針峠を越えて間もなく右手に地蔵堂があり、傍らに泰平水と刻まれた水盤があり、湧水が流れている。 うねった街道を進んで行くとT字路に突当り、左手角に道標が建っている。
道標には 「番場醒井 摺針峠彦根 中山鳥居本」 と刻まれている。
街道を進み集落に入ると最初の建物の前に磨針一里塚跡碑が建っている。
ここは江戸日本橋から数えて118里目の一里塚である。

称名寺 神明宮 望湖堂跡 旧道
坂道を上って行くと左手に浄土真宗本願寺派の平野山称名寺がある。
参道脇には覆屋の中に地蔵堂がある。
称名寺の先で左手に細道が鳥居向かっており、上り詰めると神明宮がある。ここが摺針峠の頂上である。
修行に疲れた若き弘法大師が、街道沿いの峠の茶屋の老婆の 「斧を摺って細くして縫い針にする」 という言葉に打たれ、再び修行に発奮したという逸話が残っている。
神明宮の鳥居横には望湖堂跡がある。
往時は琵琶湖が一望でき中山道随一の名勝と言われてた。かって、この茶屋の名物は、弘法大師が供えた栃餅が受けつがれ、旅人たちを楽しませたという。
ここには皇女和宮も立ち寄っており、明治天皇御小休所にもなっている。
望湖堂跡から下って直ぐ左手に動物注意の標識があり、その先左手に旧道口があり、鉄パイプの付いたジグザグの道を下って行く。

旧道 旧道 鳥居本北口 中山道標柱
旧道から車道に出ると向かい側に中山道の道標の立つ旧道口がある。
下りていくと林の中の小さな橋を二つ渡り、その先で竹林と杉林の中を進むと回り込んできた車道に突き当たる。
車道と突き当たった向かい側にわずかな旧道が残っている。
この道は直ぐ先で矢倉川に突当り、その先は消滅しているので右に折れて矢倉川を渡る。
この突当りには道標 「右中山道摺針番場 左北国米原きの本道」 が建っている。
矢倉川を渡って左手の道標 「右中山道」 を過ぎると、左手に 「おいでやす彦根市へ」 と刻まれた石柱が3本あり、上に近江商人・旅人・虚無僧の像が乗っている。 鳥居本町に入って直ぐ右手に中山道鳥居本町の標柱が建っている。

宿並み 赤玉神教丸有川家 上品寺 湖東焼「自然斎」旧宅
鳥居本は江戸から数えて中山道67次の第63番目に当たる宿場町である。
街道には格子構えの家・茅葺屋根の家・虫籠窓の家などが並び家の間には地蔵堂がある。
街道を進むと右にカーブして左に折れる枡形の角に有川家がある。
街道に面して建つ主屋は宝暦9年(1759)の建築で、文化5年(1808)に上段の間をもつ良質な造りの書院を増築し、併せて二階の一部を増築したため、屋根が重なり合った複雑な外観を呈している。有川家は、江戸時代に妙薬として広く知られた赤玉神教丸を製造販売する薬店の本店である。
有川家の前の赤いポスト脇の細道を進んで国道8号線に出ると道路を挟んだ向かいに浄土真宗本願寺派の東光山上品寺がある。
ここには法海坊が四輪の大八車に載せて江戸から摺針峠を越えて運んできたという梵鐘がある。法海坊は 「破戒僧法界坊」 として 「隅田川続俤(すみだがわごにちのおもかげ)」 という歌舞伎のモデルになった上品寺第6世祐海の子で、本名を了海という。
街道に戻ると右手の連子格子の家の隣に湖東焼 「自然斎」 の旧宅がある。この家は江戸時代「米屋」という屋号の旅籠で、ここに住む岩根治右衛門は、若い頃より井伊直弼の江の師匠である中島安泰に学び、直弼から自分に自然であるようにと自然斎の号を賜り、絵付け師として精進した。
安政3年(1856)には普請方の許可を得て、民間で湖東焼の絵付けを行っていたが、街道の往来が少なくなった明治初期に安曇川に移り、明治10年(1877)に亡くなった。

合羽所「木綿屋」 旧本陣跡寺村家 脇本陣・問屋跡 合羽所「松屋」
デイサービスセンター鈴の音の先に合羽所 「木綿屋」 がある。享保5年(1720)馬場弥五郎が創業したことに始まる鳥居本合羽は、雨の多い木曽路に向かう旅人が雨具として多く買い求め、文化・文政年間(1804-30)には15軒の合羽所があった。天保3年(1832)創業の木綿屋は鳥居本宿の一番北に位置する合羽所で、東京や伊勢方面に販路を持ち、大名家や寺院・商家を得意先として大八車などに被せるシート状の合羽を主に製造していた。。 合羽所 「木綿屋」 の斜向かいに旧本陣跡寺村家がある。
鳥居本宿の本陣を代々務めた寺村家は、観音寺城六角氏の配下にあったが、六角氏滅亡後、小野宿の本陣役を務めた。佐和山城落城後、小野宿は廃止され、慶長8年(1608)鳥居本に宿場が移ると共に鳥居本宿本陣役となった。
旧本陣寺村家の隣に脇本陣・問屋跡がある。鳥居本宿には脇本陣が2軒あったが、本陣前の脇本陣は早くに消滅し、問屋を兼ねた高橋家の様子は、上田道三氏の絵画に残されている。それによると、門口のうち左三分の一ほどに塀があり、その中央の棟門は脇本陣の施設で、奥には大名の寝室があった。そして屋敷の南半分が人馬継立を行う施設である問屋場であった。脇本陣の向かいの路地を進むと鳥居本駅である。 街道右手の連子格子の2軒の旧家を過ぎると左手に合羽所 「松屋」 がある。
昔そのままに屋根の上に庵看板を掲げる松屋松本宇之輔店は、丸田屋から分家し、戦後は合羽の製造から縄つくりに転業している。

塞神社 地蔵堂 宿並み 専宗寺
合羽所 「松屋」 の先の信号交差点を右に曲がると民家の前に塞神社がある。
道祖神である猿田彦の妻・猿女君が奉られており、縁結び・安産・夫婦和合などの神社である。
街道を戻って十字路を渡ると右手角に一見常夜燈に見える地蔵堂がある。
礎石の上の桧皮葺き屋根の御堂内には自然石に3体の地蔵尊が陽刻されている。
地蔵堂を過ぎると街道には越後屋跡・呉服屋跡・登録有形文化財の旧家・住長跡などの旧家が軒を連ねている。 旧家の先右手に浄土真宗本願寺派の洞泉山専宗寺がある。
文亀元年(1502)及び天文5年(1536)の裏書のある開祖仏を有する古寺で、聖徳太子開祖と伝わり、山門の右隣の二階建ての太鼓門の天井は、佐和山城の遺構と伝わっている。

道標 彦根城 小野川 地蔵堂
彦根鳥居本郵便局の斜向かいを右に入る筋は彦根道で、この角に文政10年(1827)の道標が建っている。
道標には 「右彦根道 左中山道 京いせ道」 と刻まれている。彦根道は二代彦根藩主井伊直孝の時代に中山道と城下町を結ぶ脇街道として整備された。
また、朝鮮通信使が通ったことから朝鮮人街道とも呼ばれている。 
彦根道を進むと1時間ほどで彦根城下へ入ることができるが、ここでは街道を先に進むこととした。
この写真は3日後(11/2)に彦根城下を訪れたときのものである。
鳥居本の集落を抜けると両側に田畑が広がり小野町に入って行く。街道は小野川に沿って進んで行く。 街道を進み小野こまち会館を過ぎると左手の水路際に写真の地蔵堂があり、斜向かいにもやや大きな地蔵堂がある。

鐘突堂 八幡神社 聖谷
小野川の脇に不思議な建物が幾つか建ってるので、川べりで草むしりをしている老女に声を掛けて聞いてみると厠(トイレ)であるという。
昔は小野川の水で顔を洗い、野菜を洗い、生活用水として使っていたというから尚更その脇に厠があるのは不思議であった。
集落を抜けて東海道新幹線の高架が近づいたところに鐘突堂の標示板がある。
標示板には 「大寺で仁王門があり、門前では祭礼のあと、宴が張られた。(足利時代)」 と記されている。
鐘突堂標示版の直ぐ先右手に八幡神社社標と常夜燈が建っている。
東海道新幹線の高架下をくぐって進むと常夜燈の建つ参道が林に向かっており、林の奥の段上に社殿がある。
八幡神社社標の道路を挟んだ向かい側に聖谷の標示版が建っている。
標示板には 「太子が合戦のとき一時かくれた陣地」 と記されている。

五反田・的場 六地蔵尊 小野小町塚 川沿いの街道
左手の林に沿って進んで行くと右手に五反田・的場の標示板が建っている。
標示板には 「弓矢の練習場」 と記されている。
左手の林の前に六地蔵尊が安置されている。地蔵堂の脇を上って行くと段上は墓地になっているようである。 六地蔵尊の先に小野小町塚がある。
小野好美が都から出羽国(現秋田県・山形県)へ赴任する途中、ここ小野で宿泊した際、宿所にいた赤ん坊があまりにも可愛かったため、養女に貰い受けたという。その娘が後の小野小町であったといわれている。
地蔵堂には小町地蔵といわれる阿弥陀如来坐像を彫り込んだ自然石の地蔵尊が安置されている。
小野小町塚の先で東海道新幹線の高架をくぐって先に進むと街道左手に小川が流れており、暫くこの小川に沿った街道を進むことになる。

浄琳寺 原八幡神社 道標 常夜燈・道標
川沿いの道になって左手2本目の橋を左に入って行くと浄土真宗本願寺派の老谷山浄琳寺がある。
境内には太子堂があり、堂前に御出陣聖徳太子碑が建っているが、生憎太子堂は閉められていた。
街道に戻って川沿いを進むと右手に原八幡神社がある。
祭神は応神天皇・天之水分神・国之水分神であり、境内には芭蕉句碑 「昼顔に昼寝せうもの床の山」 と蕉門四世・祇川居士句碑 「恥ながら残す白髪や秋の風」 がある。
原八幡神社の先で名神高速道路の高架手前に天寧寺五百らかん七丁余・はらみち道標が建っている。 名神高速道路の高架を2つ潜った先の正法寺町交差点手前左手に慶応3年(1867)の多賀大社常夜燈・道標「是より多賀みち」・安産観世音是より四丁慶光院・慶応2年(1866)の金比羅大権現などが建っている。

春日神社 矢除地蔵尊 勝満寺 道標
正法寺町交差点を越えて左手に流れる小川沿いの街道を進んで行くと正面にこんもりとした林が見え、林を越えたところに春日神社の参道口がある。
創建年代は不詳であるが、祭神は藤原氏が追い落とした菅原道真を重用した宇多天皇であり、地蔵町の鎮守様である。
街道を進んで行くと右手の常夜燈の奥に地蔵堂があり、堂内に聖徳太子像と地蔵尊が安置されている。西暦570年30代敏達天皇の頃仏教が伝来し、これに反対する物部守屋と争われた聖徳太子が、守屋からの難を避けてこの地方に隠れていたが、守屋の軍勢に発見され、矢を射かけられた。この時、突如金色の地蔵菩薩が立たれた。後になって松の根方に小さな地蔵尊が右肩に矢を射込まれて血が流れていたという。これが矢除地蔵尊である。 矢除地蔵尊の隣に浄土真宗本願寺派の金鶏山勝満寺がある。 勝満寺から街道に戻ると信号交差点の左手角に慶応2年(1866)の道標があり、「金比羅大権現是ヨリ十丁」 と刻まれている。

地蔵堂 万葉歌碑 大堀橋 地蔵堂
信号交差点を渡った角のお店のシャッター内に小さな地蔵堂があり、その先の空き地の前に街道に背を向けて地蔵堂が建っている。 芹川に架かる大堀橋の手前左手の山裾に万葉歌碑がある。
歌碑には二首刻まれており、隣に鳥籠山(大堀山)不知哉川(芹川)の標柱が建っている。
万葉歌碑の先で芹川に架かかる大堀橋を渡って行くと左手に大堀山(鳥籠山)が良く見える。 大堀橋を渡ると右手に旭森公園があり、公園の山際に覆屋に納まった地蔵堂がある。
この脇を上って行くと大堀山(鳥籠山)が正面に見え、公園の前の歩道には中山道床の山碑が建っており、芭蕉句 「ひるがおに 昼寝せうもの 床の山」 が刻まれている。

地蔵堂 道標 石清水神社 かどや跡地
旭森公園の隣の彦根市消防団第八分団倉庫の横に地蔵堂がある。
地蔵堂は閉ざされていて中を確認できないが、隣の斜面に数十体の地蔵尊が安置されている。
地蔵堂の斜向かいに左に入る筋があり、この角に道標が建っている。
道標には 「是より多賀みち」 と刻まれており、この向かい側に昭和2年(1927)の常夜燈が建っている。
道標の斜向かいに石清水神社がある。
祭神は第16第応神天皇とその母神功皇后で、飛鳥時代からこの地にお祀りしている神社である。
境内には喜多古能の扇塚がある。江戸からやって来た喜多流能の宗家9世喜多古能は門人の養成に力を注ぎ、彦根を去る時に扇子と扇を残していったが、門人がそれを埋めて記念の塚を建てたという。
石清水神社の前の駐車場に 「かどや」 跡地と井戸がある。
およそ200年前に 「かどや」 というお休み処が建てられており、この一角に井戸が掘られた。この井戸は岩を掘り下げたもので、岩の間からにじみ出た水で、文字通 り 「石清水」 であった。

地蔵堂 唯稱寺 大堀家の地蔵堂 道標
石清水神社の先で小川を越えた左手に地蔵堂がある。
この地蔵堂は正面が格子の一枚扉で開けられないが、中には自然石の地蔵尊が安置されている。
地蔵堂の先右手に浄土真宗本願寺派の鳥籠山唯稱寺がある。
室町時代以前は天台宗の寺院で唯稱庵と呼ばれていたが、永正年間(1504-21)に改宗した。開祖は相州南湖村(神奈川県)の出身で俗称山下、通称次郎輔正義と名乗り真宗に帰依し、蓮如上人より 「六字名号」 と法名 「釈浄休」 を賜った。
唯稱寺の先の右に入る筋の角地にある大堀家の庭の中に地蔵堂がある。
建久元年(1190)鎌倉幕府と朝廷の問題解決のため京に向かった源頼朝は芹川の渡し付近で体調を崩し、九我弥九郎宅(現大堀家)で療養し、病を癒すため富之尾村の長福寺(瑞光寺と改称)の地蔵菩薩に祈願したとき、壇を築いた場所が現在の大堀家の地蔵堂の小祠である。
大堀家から先に進んだ右に入る筋の角に道標が建っている。
道標には 「左彦根路 右すぐ中山道」 と刻まれている。

地蔵堂 地蔵堂 高宮宿碑 地蔵堂
街道右手の北川整体の看板が建っている家の向かいの民家の間に小さな地蔵堂がある。地蔵堂の扉は開いており、中には香炉があるのみであった。 その先右手の北川建具店の隣の民家脇にやや大きな地蔵堂がある。
賽銭穴から中を覗いたが地蔵尊は確認できず、テーブルなどが積まれていた。
街道をどんどん進んで行くと近江鉄道本線の踏切の手前に中山道高宮宿碑と多賀大社常夜燈が建っている。
ここは高宮宿の江戸口(東口)である。
高宮町大北交差点で県道224号線を越えると交差点右角に木之本分身地蔵尊の安置された地蔵堂がある。
この地蔵尊は珍しく木彫りの彩色された地蔵菩薩坐像であり、木之本の浄信寺にある眼病のご利益で名高い木之本地蔵の分身といわれている。

高宮布の布惣跡 高宮神社 宮町地蔵尊 旧庄屋宅
趣ある宿並みをどんどんすすむと左手に座・楽庵の看板を掲げた問屋場布惣(ぬのそう)跡があり、建物は登録有形文化財になっている
高宮布は高宮の周辺で産出された麻布のことで、室町時代から貴族や上流階級の贈答品として珍重された。布惣では7つの蔵いっぱいに集荷された高宮布が全部出荷され、これが年に12回繰り返さないと平年でないと言われたという。
布惣跡の向かいに高宮神社の鳥居がある。
明治3年(1870)の大洪水で多くの記録が流されて沿革など詳細は不明であるが、明治維新以前は 「山王十禅師社」 と呼ばれ坂本の日吉大社から勧請されたと考えられている。
随神門の前には芭蕉句碑 「をりをりに伊吹を見てや冬籠」 があり、随神門の内側には山王権現社の猿縁起にちなんで両側に雌雄一対の石猿が祀られている。
高宮神社参道の脇道を入ったところに宮町地蔵尊がある。
正面扉は鍵が掛けられ地蔵尊を確認できなかったが、御堂脇には自然石の地蔵尊が安置されている。
高宮神社参道左手の蔵のある立派な建物は旧庄屋宅である。

多賀大社鳥居・常夜燈 妙蓮寺 徳性寺 高宮城跡
高宮神社から街道に戻って民家の間を流れる新之木川を越えた信号交差点左に多賀大社鳥居・常夜燈が建っている。
この鳥居は多賀大社一の鳥居で寛永12年(1635)に建立されたもので県の文化財に指定されている。常夜燈には階段があり、常夜燈の前には 「是より多賀みち三十丁」 と芭蕉門下の尚白句碑 「みちばたに多賀の鳥居の寒さかな」 がある。
街道を外れて鳥居の先の多賀道を進んで行くと右手に真宗大谷派の光照山妙蓮寺がある
元は天台宗であったが、慶長15年(1610)に改宗している。
妙蓮寺を出て更に多賀道を進んで行くと右手に臨済宗永源寺派の祥雲山徳性寺がある。徳性寺は禅宗の寺で江戸時代の慶安4年(1651)に南領和尚が多賀町敏満寺にあった「心宗寺」という天台宗の寺を高宮に再建した寺である。
鐘撞堂は土台である高台が黒い鎧式板塀で囲まれた珍しい造りである。
徳性寺の向かいの彦根市立高宮小学校一帯が高宮城跡である。
高宮氏は出自の関係もあって当初は六角氏と行動を共にしたが、やがて京極氏、次いで浅井氏に加担し、天正元年(1573)の織田信長による小谷城攻めでは浅井氏と命運を共にしている。高宮宗光は小谷城で戦死、その子宗久は小谷城を脱出して高宮城に帰り、城に火を放って一族離散したと伝えられている。

高宮寺 小林家 脇本陣跡 本陣跡
高宮城跡から街道に戻る途中に時宗の神応山高宮寺がある。
高宮寺は天平3年(731)行基が十一面観音を本尊として開創した称讃院が始まりと伝えられている。その後、天正元年(1299)頃、他阿真教により時宗に改められ、一遍上人の弟子とされる切阿上人が初代住職となり、高宮寺が開かれ高宮氏の菩提寺となっている。境内には千命堂があり、井伊家第4代藩主の直興公寄進による延命地蔵尊がある。
街道に戻ると右手に小林家があり、門前に俳聖芭蕉翁旧跡紙子塚碑がある。
貞享元年(1684)の冬、縁あって小林家三代目の許しで一泊した芭蕉は、自分が横になっている姿の絵を描いて 「たのむぞよ 寝酒なき夜の 古紙子」 と詠んだ。紙子とは紙で作った衣服のことで、小林家は新しい紙子羽織を芭蕉に贈り、その後、庭に塚を作り古い紙子を収めて 「紙子塚」 と名付けた。
右手の今村歯科医院の先に脇本陣跡がある。
江戸時代に高宮宿には2軒の脇本陣があり、その一つがここ塩谷家である。
門前は領主の禁令などを掲示する高札場があり、慶長13年(1608)からは人馬の継立・宿泊・飛脚などの業務を行う問屋場を兼ねていた。
脇本陣跡の先左手に本陣跡がある。
高宮宿の本陣は1軒で門構え・玄関付きで、間口約27m、建坪約396㎡であった。現在は表門だけが残っている。

円照寺 むちん橋地蔵尊 高宮神社御旅所
本陣跡の斜向かいに浄土真宗本願寺派の三光山円照寺がある。
円照寺は明応7年(1498)高宮氏の重臣・北川九兵衛が剃度して釈明道となり仏堂を建立したのが始まりという。元文5年(1740)には火災で本堂が焼失したが、9年の歳月を費やして再建された。
境内には明治天皇ゆかりの 「止鑾松」 と呼ばれる松の木(二代目)がある。
街道を進むと犬上川に架かる高宮橋の手前右手にむちん橋地蔵堂があり、御堂の前に天保3年(1833)の無賃橋標柱が建っている。
中山道諸宿場が整備されてからも長らく橋が架られていなかったが、天保2年(1832)に彦根藩が近隣の豪商に命じて橋を完成させ、翌年には高宮宿の有志が彦根藩より高宮橋株を買取り、無料で通行ができるようになったものである。地蔵尊は昭和52年の橋脚改修工事の際、脚下から出てきた地蔵尊である。
高宮橋(むちん橋)の手前を左に進むと左手に高宮神社御旅所がある。
本日はここまでとし、ここから犬上川に沿って25分程進んだ南彦根駅前のホテルに宿泊する。

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