吉村家前に建つ柏原宿説明
ここ柏原宿は、お江戸日本橋より中山道69宿(草津で東海道と合流)の内61番目になり、約112里(1里は約3.9㎞)、京までは約21里のところにある。
江戸時代は、随分栄えたもので、宿場としての業務も、かなり苦労が多かった様である。幕末広重画く柏原宿の看板は、何と言っても 「伊吹もぐさ」 の老舗伊吹堂で、現在の建物そのままである。当時
「伊吹もぐさ」 を商う店は10指に余り、中山道有数の宿場名物となっていた。現在は1軒だけとなっている。
柏原宿は、規模が大きく、69宿中宿高で4番目、宿場の長さ13丁(1420m)は10番目、戸数人口もこの辺りでは東の加納(岐阜市)、西の高宮(彦根市)に次ぐ宿場であった。
しかも旅籠屋(旅人たちの宿屋)は、隣宿との距離が近かったにもかかわらず22軒もあった。
現在、1軒も残っていないのは残念である。本陣・脇本陣は、それぞれ1軒、問屋(人馬、荷物の継立一切を行う)は、当宿には6軒(開宿当時は20軒を数え、幕末になると普通各宿多くて3軒までなのに、関ヶ原から番場までの5宿は、それぞれ6~7軒あった)、その問屋を補佐する年寄(村役人)は8軒あり、造酒屋も一時は4軒もある盛況であった。
この宿は、古くより東町・市場町・今川町(箕浦と言ったこともある)及び西町の4町からなり、宿場機能の中枢は、市場町でした。1つの宿場に4社も氏神があるのはそのためである。
柏原の総社は、野瀬の神明神社である。また、お寺の多いことでも有名で、ひと頃は30ヶ寺を越え、現在でも15寺と3堂がある。
中世京極道誉の随臣、箕浦氏が400年柏原を守った居館跡(柏原箕浦城跡)、近世徳川家光により創建された柏原御茶屋御殿跡(地名として残る)等がある。
宿場からは外れるが、織田信長が宿泊した成菩提院は、天台談林三箇随一と言われた名刹で、盛時には、60坊を数えたと言う。国指定重要文化財等豊富である。
また、宿場の東約13丁の地に江濃国境があり、有名な寝物語の里(長久寺)がある。
このような柏原宿であるが、しだいに昔の面影が消え、今にも忘れ去られようとしている。せめてもの思いに、下図の様な復元図(山東町史附図)を掲げた。
(米原市教育委員会ほか)
映画監督 吉村公三郎の実家
祖父 柏原宿最後の庄屋
父 広島市長
兄 朝日新聞「天声人語」執筆
問屋役年寄 吉村逸平