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中山道   (垂井~関ヶ原)


平成27年10月28日(水) ☀  垂井~関ヶ原  6.1㎞   (関ヶ原古戦場巡り6.5㎞)
半年ぶりの中山道歩きの再開である。今回は一週間ほどかけて大津を目指す予定であるが、天気予報では11月2日に天気が崩れるというので、その日は街道歩きだけでは行けない彦根城や安土城跡を巡ってみたいと思っている。早朝に東京を出ても垂井には午前9時の到着となるので、今日は関ヶ原までの街道歩きにとどめ、関ヶ原古戦場を歩いてみようと思う。

竹中半兵衛重治公像 紙屋塚 旅籠亀丸屋 愛宕神社
垂井駅で降りると駅前に竹中半兵衛重治公像が建っている。
黒田官兵衛とともに羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉) の 「天下取り」 を影で支えた戦国時代を代表する軍師でである。竹中半兵衛は、天文13年(1544)岐阜県揖斐郡大野町の大御堂城の城主であった竹中重元の子として生まれ、本名は重治、通称を半兵衛と称した。
垂井駅から街道に出て100m程先の左手路地を入っていくと、左手に紙屋塚への道標看板があり、民家の間を入って行くと紙屋塚がある。ここの紙屋は府中に国府が置かれた当時から存在し、室町頃まで存続したと言われている。当初は国営の紙漉き場と美濃国一帯から集められた紙の検査所の役割も果たしてと考えられている。一説には美濃紙の発祥の地とも言われている。 街道に戻ると80m程先で枡形になっており、その突当りに旅籠亀丸屋がある。亀丸屋の西村家は垂井宿の旅籠として200年ほど続き、現在も当時の姿を残して営業している。安永6年(1777)に建てられたもので、母屋と離れに上段の間を含む八畳間が3つあり、二階には鉄砲窓が残る珍しい造りである。 旅籠亀丸屋を右に入ると東町の愛宕神社がある。垂井町は宝暦5年(1755)の大火を初めとして、度々大火があり、寛政年間(1789~1800)に西・中・東町にそれぞれ防火の神の愛宕神社を祀っている。
神社の隣には毎年5月2日~4日に行われる垂井曳山祭の山車収納庫がある。

丹波屋松井家 栗田本陣跡 南宮大社大鳥居 玉泉寺
枡形の先に丹波屋の松井家がある。
かつては旅籠であったが、現在の建物は大正元年(1912)に建てられたものである。
丹波屋松井家から40m程先の安田歯科医院の前に栗田本陣跡がある。寛政12年(1800)の記録によると、建坪は178坪で、玄関や門、上段の間を備える広大なものであった。栗田家は酒造業も営んでいたが、建物は安永9年(1780)に焼失し、後に再建されて、明治時代には学習義校(現在の垂井小学校)の校舎に利用されている。 本陣跡の先左手に南宮大社の大鳥居が建っており、手前に天保11年(1840)の常夜燈が一対建っている。寛永19年(1642)徳川家光の寄進により南宮大社が再建された中で、明神型鳥居は約400両で石屋権兵衛が建てた。南宮大社は、ここから南へ1.3㎞程のところにあり、創建は神武天皇の時代に遡るといわれている。関ヶ原の合戦で焼失したが、寛永19年に徳川家光が再建したものである。 南宮大社の鳥居を潜って100mほど進むと右手に玉泉寺がある。玉泉寺の脇には垂井の地名の由来となった垂井の泉があり、樹齢800年のケヤキ(現在は倒れている)の根元から水が湧き出ている。
泉の前には安永4年(1775)の芭蕉句碑があり、平安の歌人藤原隆経は 「昔見し たる井の水はかはらねど うつれる影ぞ 年をへにける」 と詠んでいる。

旧旅籠長浜屋 油屋宇吉家跡 本龍寺 永法寺
街道に戻ると右手に旧旅籠長浜屋がお休み処として建っている。 お休み処の先左手に油屋宇吉家跡がある。この建物は油屋を営んでいた宇吉家から小林家が明治14年(1881)に譲り受け、昭和初期まで 「亀屋」 の屋号で旅籠を営んできた建物であり、国登録有形文化財になっている。 油屋宇吉家跡の向かいに本龍寺がある。本龍寺の山門や書院の玄関は脇本陣から移築したものといわれている。境内には芭蕉句碑があり、元禄4年(1691)この寺の住職玄潭(俳号は規外)を訪ね、冬籠もりして 「作り木の庭をいさめる時雨かな」 などを詠んでいる。 本竜寺の向かい側に真宗大谷派の杉谷山永法寺がある。永法寺の創建年代は不詳であるが、かつては天台宗の寺院で、文明8年(1476)本願寺第8世蓮如法主に帰依し、天台宗を改め浄土真宗になったいう。

西の見付跡 稲荷社 八重垣神社 地蔵尊
本龍寺から右にカーブして行くと、前川の左手前に西の見付跡がある。ここには垂井宿標柱と広重の木曽海道六拾九次之内垂井が陰刻されている。傍らには火防の神の愛宕神社が祀られ、神社の脇に八尺堂地蔵尊道道標が建っている。 八尺堂地蔵尊道を入って行くと左手に稲荷社があり、鳥居の前に地蔵堂ある。更に進むと十字路角に地蔵堂があり、これを八尺堂地蔵尊と勘違いしてその先へ進まなかったため八尺堂地蔵尊は拝めなかった。八尺地蔵尊は、300年前御所野ヶ原の利生院で、覚如法印と目の見えぬ母が、仏のお告げを受けられ、その教えの通り8尺掘ると、3体の地蔵様が出た。そこに8尺4方の御堂を建て祀ったところ、目が見えるようになったという。 街道に戻って西の見付跡から前川の手前を右に入って行くと、垂井小学校の手前に八重垣神社がある。この神社は、南北朝時代の文和2年(1353)後光厳天皇が祇園社の祭神を迎えて祈願された勅願の宮で垂井宿の氏神様である。「垂井曳山祭り」 はこの八重垣神社の例祭で後光厳天皇を慰めようと、村人が花車3輌を造って曳き回したことがその始まりといわれている。 街道に戻ると前川を渡った右手に小社に納まった地蔵尊がある。

松島稲荷神社 地蔵堂 道標 日守の茶所
地蔵尊の先左手に松島稲荷神社がある。松島稲荷の本社は伏見稲荷であり、古代に全国の開拓を進めた渡来豪族の秦氏が建立したものである。松島は江戸期に中山道の松並木沿いの小さな村であり、昔は限られた土地や小村を島と呼んだため 「松のある島」 から松島となった。 垂井町保健センターの脇を流れる用水路脇に地蔵堂がある。 地蔵堂から300m程先で東海道本線の出屋敷踏切を渡ると、左手の日本板硝子垂井事業所の角に道標が建っている。道標には 「南宮近道八丁」 と刻まれている。南宮は、前にあった南宮大社のことである。 道標の先の日守川を渡ったところに日守の茶所がある。日守の茶所は、江戸末期に岩手の美濃獅子門化月坊が、中山道関ヶ原山中の芭蕉ゆかりの地(常盤御前の墓所)に秋風庵を建てたもので、それを明治になって一里塚の隣に移し、中山道を通る人々の休み場所として、昭和の初めまで盛んに利用されたという。建物内には弘法大師が祀られており、庭の片隅には地蔵堂がある。

垂井一里塚跡 道標 若宮八幡神社 伊富岐神社
日守の茶所の隣に垂井一里塚跡がある。垂井一里塚は、南塚がほぼ完全な形で残っている。ここは江戸日本橋から数えて112里目の一里塚跡である。
関ヶ原の戦いでは、五奉行の一人であった浅野長政の嫡男で甲斐国府中16万石の領主であった浅野幸長が、 この一里塚辺りに布陣し南宮山の毛利秀元ら西軍に備えた。戦後、紀伊国和歌山37万6千石が与えられている。
一里塚の先で国道21号線を渡ると左手に道標が建っている。
道標には 「これより中山道
関ヶ原宿野上関ヶ原町」 と刻まれている。
関ヶ原バイパスを越えると左手の東海道新幹線の下を潜った先に若宮八幡神社がある。街道から鳥居を潜って進んで行くと右手に野上整田碑があり、東海道新幹線のガード下に金網の入口がある。入口の先は階段で段上に若宮八幡神社社殿がある。御祭神は仁徳天皇(応仁天王の皇子)、末社は山之神神社(木花咲邪姫神)である。 街道に戻って先に進むと右手に伊富岐神社の鳥居がある。社殿はここから北に1㎞程入ったところにある。伊富岐神社の祭神ははっきりしていないが、古代、この地域に勢力があった伊福氏の祖神を祭っていると言われたいる。

七つ井戸 おしゃもじ塚 真念寺 消火栓
緩やかにうねる街道を進むと右手に野上の七つ井戸がある。野上は垂井宿と関ヶ原宿の間の宿であり、江戸時代から僅少の地下水を取水して多目的に利用してきた。街道筋の井戸は 「野上の七つ井戸」 として旅人・住民に親しまれてきた。今でも釣瓶で水を汲むことができるが飲料とはなっていない。 七つ井戸の脇を入って行くと東海道本線の手前にしゃもじ塚がある。ここにはいくつかの五輪塔が並んでいるが、平安中期の豪族・平忠常の墓である。東国の上野介に任命された平忠常は、朝廷に反抗し安房の国司を殺害したため、朝廷が討伐隊を派遣して捕えた。忠常は都に護送される途中病に罹り、何も口にすることができなかったため、野上の住民がしゃもじに食べ物を乗せて差し出すと一気に食べて息絶えたという。 街道左手を並走する国道21号線に出ると真念寺がある。境内には班女の観音堂がある。野上宿の遊女・花子は、ある時宿に泊まった吉田少将と契りを交わし、その形見に扇を受け取るが、少将が気になり仕事が手に付かない花子は宿を追い出される。その後下賀茂神社で恨み狂おしく舞い踊る班女の扇を見て、班女が花子だと気付いた少将は再会を喜び、正式に誓いを交わしたという。 真念寺から街道に戻って進むと、松並木が始まるところに徳川の葵の紋と石田三成の大一大万大吉の紋の付いた消火栓が建っている。この先街道でよく見かけるものである。

山内一豊陣跡 松並木 六部地蔵尊 桃配山
消火栓の直ぐ先、右手に立看板が有り、山内一豊陣跡の説明が記されている。慶長5年(1600)家康の会津征伐に従軍した一豊は、関ケ原の戦いで西上に際し、掛川城を明け渡して出陣している。岐阜大垣城の兵と戦い、ここ野上に入ると一豊ほか八将は一里塚より桃配山までの間の中山道左右に並列して陣し、南宮山の敵に備えた。戦後、妻の内助の功もあって土佐の国主となっている。 江戸時代には、一里塚をつなぐ街道の両側に松・杉・楓の並木が続いていたが、近年虫害や台風などによって松並木の減少が目立っている。 松並木を進むと左手に六部地蔵尊がある。六部とは 「六十六部」 の略で全国の社寺などを巡礼して、旅をしながら修業している 「人」 ということで、厨子を背負って読経しつつ行脚中の行者が宝暦11年(1761)頃、この地で亡くなったので里人が祠を建ててお祀りしたという。この六部地蔵尊は 「六部地蔵 歯痛なおりて 礼参り」 と詠まれているように、歯痛を直すことで知られている。 松並木の先で国道21号線に合流し、国道21号線をやや戻ったところに徳川家康最初陣跡の桃配山がある。
千三百年ほど前の壬申の乱の時、吉野軍を率いた大海人皇子はこの山に布陣し、兵士に桃を配って激励すると、士気が高まり連戦連勝し、ついに大勝を果たしため、桃配山と呼ばれるようになった。家康はこれにあやかり、ここに最初の陣地を設営した。

旧道口 馬頭観音 若宮八幡神社 法忍寺
街道に戻ると一ツ軒交差点で右に入る旧道がある。旧道に入って直ぐ左手に無料休憩所の看板を出した民家がある。この民家は大正4年(1915)の造りであると説明があり、手作りの木札などが並べられている。 旧道に入って少しの区間松並木が続き、松並木が切れる右手に馬頭観音が建っている。ここには旧軍人の高木市太郎碑が建っており、この先街道沿いに同じ高木性の碑が建っている。 馬頭観音の先で国道21号線に合流し、関ヶ原東町交差点を過ぎると右手に若宮八幡神社がある。創建は不明であるが、棟札に慶長5年(1600)の関ヶ原合戦の時に社殿が焼失し、その修復のために徳川家康が御扶持方3千人分を与えたことが記されている。御祭神は応神天皇・神功皇后・仁徳天皇であり、摂社は愛宕神社である。 若宮八幡神社の先右手に真宗大谷派の法忍寺がある。この寺には十九女伝説がある。関ヶ原の村南の大池に大蛇が住んでおり、夜になると年のころ十九ぐらいの女となって、横笛を吹いて歩いたり、若者のいる家へお椀を借りに来たりした。女の家は誰も知らず、ある若者が大蛇は金物が嫌いなので、お椀に針を刺して返すと翌日から見えなくなったという。お椀は法忍寺、横笛は八幡神社の宝物となっている。

與市宮 関ヶ原醸造 毘沙門天 旅館桝屋
ガソリンスタンドENEOSの裏の樋口家の敷地に與市宮がある。ここには源平時代に関ヶ原村の郷士・開拓者として仰がれた関ヶ原與市の霊が祀られており、ENEOSの隣の樋口家の庭には関ヶ原與市之邸跡碑が建っている。承安4年(1174)上洛した際に與市の馬が牛若丸に泥水をかけて衣を汚したので争いとなり、従者数十人とともに殺された。 先に進むと東公門交差点の手前左手に関ヶ原醸造がある。一流の料理人に愛される最高の技術と伝統の製法で醸造される醤油が関ヶ原たまり醤油で、宮内庁御用達としても知られている。
建物は十字路左に延びていて、趣のある蔵やレンガ造りの煙突などがある。
関ヶ原駅前交差点の手前にある旅館桝屋の前の路地を右に入って行くと毘沙門天がある。古来から総社八幡神社の境内に守護仏として毘沙門天を崇拝してきたが、明治2年(1869)の神仏分離令により此処へ移転された。その後は日常奉仕者が無いため、本像を瑞龍寺へ委託し、分身を譲り受けて祀っている。 関ヶ原前交差点の手前に旅館桝屋がある。旅館桝屋は、創業が永長元年(1096)の平安時代である。

稲荷神社 愛宕神社 清水地蔵尊 脇本陣跡
関ヶ原駅前交差点の左路地は、旧伊勢街道で関ケ原合戦の最後に島津義弘は敵前突破して、この街道を抜けて脱出している。この道を進んで行くとY字路の右手に稲荷神社がある。 稲荷神社のY字路を左に進むと右手に愛宕神社がある。不破郡史によれば、当社創建は天保14年(1843)に関ヶ原広畑に、80戸の守護神として祀られたのが始まりである。明治31年(1898)鉄道敷設により、宝有地(現駅前通り)に移り、その後昭和5年(1930)に国道21号線の改修に伴い、現在地に遷された。 愛宕神社の先を進んで行くと清水地蔵堂がある。地蔵堂の下から清水が湧き出ており、上流から順番に野菜仕上げ洗い場、洗濯荒洗い場と続いている。 街道に戻って先に進むと、横断歩道橋の手前右手に脇本陣跡・至道無難禅師生誕地碑がある。至道無難禅師は、慶長8年(1603)本陣職相川家に生まれ、愚堂国師の門下となった禅師は、臨済宗妙心寺派の江戸前期の高僧である。なお寛文2年(1662)創業の日本橋の白木屋元祖大村彦太郎とは従兄弟の間柄である。

八幡神社 東首塚 松平忠吉・井伊直政陣跡 田中吉政陣跡
脇本陣跡の先の十六銀行の手前を右に入るのが旧北国街道で、突当りに八幡神社がある。創建は、天正16年(1588)に領主竹中重門が瑞龍庵主の本願により、垂井町岩手の禅幢寺の長老に宇佐八幡宮(大分県宇佐市)の祭神を勧請させたのが始まりという。鳥居脇にはスダジイがあるが、ここはかつての本陣の庭の一角に当たるところである。 これから先は、暫く中山道を離れて八幡神社から東海道本線を越えて関ヶ原古戦場を巡ってみた。東海道本線を越えたところに東首塚がある。この塚は関ヶ原合戦の直後に、この地の領主竹中家が築いたもので、徳川家康によって実検された将士の首が、ここに葬られている。一帯には名古屋から山王権現社本殿・唐門が移築され、東西両軍の供養堂となっている。 東首塚の隣に松平忠吉・井伊直政の陣跡がある。慶長5年(1600)9月の合戦に中山道の敵を目標とする福島・藤堂・京極の隊、北国街道を黒田・竹中・細川などの隊、その中央に当たるこの地に家康の4男松平忠吉・のちの彦根城主井伊直政が約6千の兵で陣を構えた。 東首塚から300m程北西に徳川家康最後の床几場があり、その手前に田中吉政の陣跡がある。田中隊は、ここから石田隊に向かって兵を進め、笹尾山麓より討って出る先手の兵と激突した。ここは両軍間で激しい白兵戦が展開されたところである。
陣跡の近くには道標・地蔵堂が建っている

徳川家康最後の陣跡 御霊神社 貴船神社 小池神明神社
戦がたけなわとなると家康は本営を桃配山から笹尾山の東南1キロのこの地点に進出させた。ここで家康は陣頭指揮に当たるとともに、戦が終わると部下の取ってきた首を実検している。
周囲の土塁や中央の高台は天保12年(1841)に幕府の命により、この地の領主竹中家が築いた。
徳川家康最後の陣跡の近くに新しい鳥居と社殿の御霊神社がある。
関ケ原合戦では幾千、幾万とも言われる将兵がこの地に屍をさらし、中には子孫も絶え慰霊も行われていない将兵が多くあると言われている。この霊を祀るため関ヶ原合戦380年を機として昭和55年に建立された神社である。
御霊神社の隣に貴船神社がある。
昔から陣場野地区は用水の便に恵まれず、わずかな日照りにも井戸水が枯渇したため、大正15年(1926)に大規模な汲み上げ施設を完成させ、この時に京都の貴船神社の祭神の分霊をもらい受け建立した。
徳川家康最後の陣跡から西に550m程のところに島津義弘の陣跡があるが、その直ぐ手前に小池神明神社がある。慶長5年(1600)の関ヶ原合戦時には現在地ではなく宇西甲斐墓の丘陵にあったが、西軍の島津義弘は陣地として好適地につきこの境内を本陣とし戦勝を祈願したという。嘉永6年(1853)火災にあい都合に寄り隣地の現在地に移転し、元の礎石は薩摩軍の使った井戸の傍に残っている。

島津義弘陣跡 開戦地 小西行長陣跡 薩摩池
小池神明神社の裏に島津義弘の陣跡がある。島津軍4千人を率いた島津義弘は、北国街道を抑えるため、ここ小池村に陣を構えた。西軍がことごとく敗退する中で 「西軍に島津あり」 の勇姿を徳川家康に見せつけるため、敵中突破を行った。ここには鹿児島県日置市の青少年で組織する関ヶ原戦跡踏破隊の名碑がある。毎年夏休みを利用して関ヶ原から大阪までの島津勢退路を踏破しているという。 島津義弘陣地跡の南西に関ヶ原戦の開戦地跡がある。慶長5年(1600)9月15日午前8時、先鋒の福島正則は井伊隊の旗の動くのを見て、先陣の手柄を取られてはならじと、宇喜多隊に一斉射撃を浴びせた。一方井伊隊も福島隊に遅れまいと、島津隊に陣に向かって攻撃を開始し、合戦の火蓋が切って落とされた。。 開戦地の奥に小西行長の陣跡がある。
小西行長はここ北天満山に6千余の兵を率いて参戦した。午前8時頃、戦闘開始の狼煙を上げ、味方に合図すると共に、西軍主力の一つとして勇戦している。しかし小早川の裏切りにより混乱を招き、午後1時過ぎに敗退を始めた。
島津義弘陣跡の北西に薩摩池がある。
関ケ原の戦いで島津隊の一番備えは島津豊久、その横に山田有栄、その後方のこの地に島津義弘が布陣した。
この狭い池は島津隊が軍用として使用したもので古来より水の涸れることは無かったという。残念ながら、この日見た池には薄っすらと水が確認できる程度であった。

願誓寺 石田三成陣跡 島左近陣跡 決戦地
薩摩池から国道365号線に出るところに真宗大谷派の笹尾山願誓寺がある。 願誓寺の北側に石田三成の陣跡がある。笹尾山一帯の石田隊6千余は、正面に竹矢来の柵を二重に配置し、前衛隊長の島左近らの指揮のもと、すさまじい死闘を展開した。小早川の裏切りは戦況を一変させ、西軍の実践兵力は3万5千前後に激減し、西軍の敗色が濃厚と見るや三成は北国街道沿いに敗退して行った。 石田三成陣跡の一角に島左近勝猛の陣跡がある。三成が家禄の半分を与えてまでも仕官させたといわれている。前日の杭瀬川の戦いで中村隊を破り、本戦では石田隊の先手として布陣している。 石田三成陣跡の東南の田圃の広がる中央に決戦地がある。小早川勢の大谷隊への突入と同時に西軍の敗色が濃くなり、各軍の兵士の浮足立つ中で石田隊は集中攻撃を受けながらも最後まで頑強に戦った。笹尾山を前にしたこの辺りは最大の激戦のあったところである。

細川忠興陣跡 北野神社 瑞龍寺 岡山烽火場
決戦地から田圃の中の道を関ヶ原バイパス方向に進むと細川忠興の陣跡がある。細川忠興は5千余の兵を率いてこの付近に布陣し、黒田長政らとともに笹尾山の石田三成と激しく戦った。本戦前には西軍により正室・玉子(ガラシャ)が自害に追い込まれている。ここには忠興が着用したと伝わる越中頭形兜と愛刀兼定を納めた歌仙拵が刻まれた碑がある。 岡山烽火場へ行く途中の竹林を抜けた高台に北野神社がある。
創建年は不詳であるが、平安朝末期に藤原基清が、公門に役所を設けたとき鬼門除けとして北野天神を祀ったといわれている。
北野神社のやや奥に曹洞宗の宝有山瑞龍寺がある。創建年代は不詳であるが、北野神社の宮寺として平安時代末期頃建てられたと言われている。現在は廃寺なのか無住なのか良く分からない。 竹林の脇から岡山(丸山)を登って行くと南斜面に烽火場跡がある。
関ヶ原合戦のとき、この山頂には黒田長政と竹中重門が陣を敷き、午前8時頃にここから狼煙が上げられ、東軍諸隊に攻撃の合図が出された。

金刀比羅神社 宗徳寺 圓龍寺 関ヶ原駅
烽火場を南側に下って来ると途中に金刀比羅神社がある。関ヶ原合戦のとき徳川軍に加わった讃岐の領主生駒一政は、黒田長政や竹中重門と共にこの岡山に陣を構えた。この時生駒一政は捧持してきた金刀比羅宮の祭神大物主神の御神像を松の枝にかけて戦勝を祈願した。合戦後、村人がこの御神像をもらい受け祭祀したと伝わっている。竹林の参道を下ると集落に出る。 関ヶ原古戦場巡りを終えて街道に戻ると八幡神社の隣に真宗大谷派の宗徳寺がある。ここには明治天皇関ヶ原御小休所碑が建っている。 宗徳寺の隣に遍照山円龍寺がある。
山門左手には勤王志士三上藤川誕生地碑、明治天皇御膳水碑があり、境内には明治天皇御膳水の井戸がある。
本日は関ヶ原駅から大垣に出て宿泊する予定である。
関ヶ原駅のホームには東西の主な武将と兵数が掲げられている。

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