メニュー
保土ヶ谷~大磯 次へ   箱根~三島

東海道   (大磯~箱根)

大磯から箱根までは、酒匂川を越えて小田原宿までの平坦な海沿いの道を歩き、その先は早川に沿った緩やかな坂道となり、三枚橋を渡ると須雲川に沿った坂道となる。国道1号線を渡ると石畳のある急坂を一気に登って行く。大きな杉並木の先で芦ノ湖に出ると箱根関所のある箱根町である。

平成27年3月17日(火) ☀  大磯~箱根板橋  17.2㎞
今日も天気が安定しているという予報で薄曇りであったが4:45の電車に乗り込み、大磯には6:53に到着した。前回の続きの鴫立沢に出て歩き始めると直ぐに身体が温まり、半袖に着替えて歩くことととなった。

大磯駅 妙昌寺 上方見附跡 島崎藤村邸
早朝の大磯駅は何台もタクシーが並んでいるが、通勤通学の人はまばらである。 鴫立沢の先の街道右手に日蓮宗の妙昌寺がある。妙昌寺は室町時代の後花園天皇・文安元年(1444)に大乗院日征上人が創立した古刹で、山号を大乗山という。
境内には、浄行菩薩、鬼子母神堂、境内社の富士見稲荷社などがある。
大磯中学校前交差点の手前左手に上方見附跡がある。往時は街道を挟んで両側に台形状に石垣を盛って造られ、高さは1.6mほどで、その上に竹矢来が組まれていた。宿場の京都側にあるものを上方見附、江戸側にあるものを江戸見附と呼んでいる。この 「上方見附」 は東小磯村のはずれにあり、現在の 「統監道」 バス停の付近にあった。 上方見附の先の横断歩道橋の右手の道を入って行くと島崎藤村が満71歳で亡くなった家がある。
町屋園と呼ばれた藤村の旧宅は、三間の平屋建ての民家 で外壁には杉の皮、引き戸には大正ガラス ( 現在は希少 ) が使われている。昭和18年8月静子夫人が 「東方の門」 を朗読中に倒れ、翌日 「涼しい風だね」 という言葉を残して永眠した。

宇賀神社 伊藤公滄浪閣跡 八坂神社 西国三十三所巡禮供養塔
街道に戻って松並木の続く道を進むと滄浪閣前交差点の右手角に宇賀神社がある。
沢山の奉納鳥居を潜って行くと宇賀神社拝殿があり、手前に狛狐、石灯籠などがある。
宇賀神社の向かい側に伊藤博文の邸宅滄浪閣跡碑が建っている。
伊藤博文は小田原の滄浪閣へ行く途中、大磯に立ち寄り、その白砂松林の大磯が気に入り、梅子夫人の病気療養のためにも、この地に別荘を建築することに決めたが、別荘が完成すると、小田原の滄浪閣を引き払い、大磯の別荘の方を 「滄浪閣」 と名づけた。
街道左手に八坂神社がある。
八坂神社の創建年代等は不詳であるが、往古は牛頭天王様と呼ばれ村の鎮守であった。
神社脇の道を海岸方向に進むと整備された道路と西洋館風の家屋が並んでいる。
八坂神社の先の㈲山本石材店の前に、宝永6年(1709)の西国三十三所巡禮講供養塔が建っている。脇には道祖神、石燈籠の笠、宝珠などが並んでいる。

水神・道祖神 旧吉田茂邸跡 西長院 寶前院
先に進むと切通橋の左手に水神碑と道祖神が建っており、手前には宝珠などが並んでいる。切通の先には富士山が見える。 切通の先左手に旧吉田茂邸跡があり、日本庭園や兜門の整備を進め、平成25年9月に県立大磯城山公園 「旧吉田茂邸地区」 として部分公開されている。 切通から右手に入ると、左手に西長院がある。本堂には石造りの鎌倉時代の地蔵菩薩立像が安置されている。この石地蔵は、当初、切通しの岩窟の中に祀られていた。
解説では、この地蔵尊は二度に渡り身代わりとして二人の命を守ったことから、「身代わり地蔵」 と呼ばれ、1689年お堂を建立し尊像安置の霊場としたという。境内には南無阿弥陀仏碑など供養塔が建っている。
西長院の先で不動川に架かる本郷橋を渡ると、左手に真言宗の寶前院がある。
寶前院の創建年代等は不詳であるが、境内には、延宝8年(1680)の庚申供養塔、三面六臂の馬頭観音などがある。

国府本郷の一里塚 道祖神 座問答の標石 六所神社
街道左側に国府本郷の一里塚跡があり、解説と標柱が建っている。
大磯宿付近には日本橋から16里目の一里塚が大磯宿地内に、17番目の一里塚が国府本郷村地内にありました。国府本郷の一里塚は、実際にはここより約200mほど江戸寄りに位置していました。塚の規模は不明ですが、東海道を挟んで左右一対の塚の上には、それぞれ榎が植えられていたようである。
大磯警察署の前辺りに昭和11年の道祖神が建っており、周囲には宝珠が並んでいる。
この直ぐ先にも双体道祖神と地神社碑が建っている。
道祖神の先の国府新宿交差点に座問答の標石がある。
相模国は大化の改新により相武(さがむ)国と礒長(しなが)国が合併してできた国で、その際に両国の一宮である寒川神社と川匂神社が、どちらが一宮になるかを上座の者が敷く虎の毛皮を挟んで話し合ったという。これが座問答の始まりだそうで、六所神社をはじめとして6個の標石が並んでいる。
街道を進むと右手に六所神社の赤い大きな鳥居が建っている。鳥居の先を進むとJR東海道本線を越えた先に六所神社がある。六所神社は、崇神天皇の御代の創建と言われ、相模国の総社であり、当地に元々あった柳田大明神に、相模国の一之宮から四宮までと平塚八幡宮の六社の神を祀ることから、六所神社という。
境内には池があり龍神大神、弁財天、水神社、大神輿殿などがある。

宝積院 稲荷社 塩海の名残 守宮神社
六所神社の手前に真言宗の宝積院がある。宝積院は、天平13年(741)僧行基により創建されたと伝えられている。
境内入口にある梵鐘は、寛永8年(1631)の銘をもつ大磯町最古の鐘として知られ、本堂脇に立つカヤは推定樹齢300年以上で、いずれも大磯町指定文化財となっている。また境内には文化2年(1805)の西国三十三所供養塔、六地蔵尊、頭部の無い地蔵菩薩などがある。
街道を進むと大磯町消防団第六分団の前に稲荷社があり、石祠の裏に道祖神がある。
街道には松並木の名残がある。
松並木の街道を進むと、葛川に架かる塩海橋の袂に塩海の名残り標柱が建っている。
かつて二宮村では海水からの製塩が行われていた。
塩海橋を渡ると二宮交差点の先に守宮神社がある。民家の間にある小さな神社で、祭神は大国主命である。地元では 「しゅくじんさん」 と呼ばれており、江戸時代の古地図では宿神社となっており、塩見、中宿の宿神社と言われていたそうである。
狭い境内は中町守宮神社子どもの広場となっている。

吾妻神社 梅澤橋標柱 等覚院 道祖神・天社神
吾妻山入口交差点の先に旧道が残っており、右手に吾妻神社の鳥居がある。日本武尊が東夷征伐のため、三浦半島の走水から海路上総国へ渡ろうとした際、突然の暴風に襲われた。
妃の弟橘媛命(おとたちばなひめのみこと)が海神を鎮めるため、夫の身代わりとなって海中へ身を投じると、たちまち海は穏やかになったという。その後、海岸に妃の櫛が流れ着き、その櫛を吾妻山の山頂に埋めて祀ったのが吾妻神社だと伝えられている。
街道に戻って旧道を進むと左手に梅澤橋標柱が建っている。
かつては橋が有ったのだろうが、今は暗渠となって地中を流れているようである。
梅澤橋の標柱の先の坂道右手に真言宗の梅沢山等覚院がある。
境内には、不動堂、二宮町最古の寛永8年(1631)の梵鐘、推定樹齢400年のフジの古木などがある。
旧道が国道1号線と合流するところに道祖神などの石碑石仏が建っている。

宝蔵寺 二宮の一里塚跡 薬師堂 松屋本陣跡
国道1号線に合流して間もなく右手に曹洞宗の宝蔵寺がある。
石柱の立つ山門は閉ざされているが、脇の通用門から境内に入って行くと、鐘楼、宝篋印塔、青面金剛の庚申塔、馬頭観音などがある。
街道を進むと川匂神社入口交差点の手前左側に東海道の旧道が残っており、入口に二宮の一里塚跡がある。
ここは江戸日本橋から数えて18里目の一里塚である。
川匂神社入口交差点の右手段上に薬師堂があり、薬師如来座像が安置されている。
お堂の前には、三界萬霊塔、六地蔵尊、庚申塔、道祖神などが並んでいる。このお堂と道を挟んだ向かいの段上には、予科練菊水隊の石碑があり、近くの小社に弘法大師像が祀られている。
僅かに残る旧道の中間あたりは、往時は大磯宿と小田原宿の中間に位置し、大磯宿から小田原宿まで16㎞と長く、押切坂、酒匂川を控えていることから、間の宿として休憩所が設けられて、多くの茶屋や商店が軒を並べていた。
その中心的な存在となっていたのが松屋本陣である。松屋であった和田家には、本陣を利用した人々の記録である御休帳が保存されている。

男女双体道祖神 押切橋 浅間神社 車坂標柱
松屋本陣跡の先の下り坂右手には、宝暦2年(1752)の双体道祖神が安置されている。
崖下の国道1号線は切通となっており、この双体道祖神と反対側に見える松の木の部分が繋がっていたようである。
男女双体道祖神の先は急な下り坂となり、下り切ったところで中村川に架かる押切橋を渡っていく。中村川は、神奈川県足柄上郡中井町に源を発し、小田原市、中郡二宮町を流れ、下流で相模湾に注いでいる。
押切橋を渡ると、右手に三宝神社がある。
街道を進んで橘インター入口交差点を過ぎると、右手に浅間神社がある。
境内には、金毘羅大権現、明和5年(1768)の青面金剛の庚申塔、道祖神、震災復興紀念碑などがある。
浅間神社の先右手の木々の下に車坂の標柱が建っている。ここから左手は直ぐ海岸になっているが、建物などで直接海を見ることはできない。
解説には、車坂を詠んだ3首の歌が載っている。
「鳴神の 声もしきりに車坂 とどろかしふる ゆふ立の空」 太田道灌
「浜辺なる 前川瀬を逝く水の 早くも今日の 暮れにけるかも」 源実朝
「浦路行く こころぼそさを浪間より 出でて知らする 有明の月」 北林禅尼

大山道道標 男女双体道祖神 常念寺 男女双体道祖神
車坂標柱の先に大山道道標がある。
道標には「従是大山道」と刻まれ上部に不動明王を乗せている。道標の後ろには文化11年(1814)の常夜燈、道祖神がある。
前羽小学校前信号を過ぎると、滝沢建築工房のところに男女双体道祖神があり、隣には真新しい坂下道祖神も建っている。
この先、近戸神社社標を過ぎた小田原市消防団第22分団倉庫前にも風化した石像がある。近戸神社は東海道本線の先の山麓にあるため行かなかったが、神社の社叢は、海に近い丘陵地南側の急傾斜地にあり、沿岸性の常緑広葉樹が多く自生し、照葉樹の自然林として貴重な存在とのことである。
街道右手のJR東海道本線を越えたところに浄土宗の常念寺がある。
常念寺は滝澤山法性院と号し、寛永16年(1639)に建立された寺院である。境内には阿弥陀如来座像、忠霊塔、子育地蔵尊、庚申塔などがある。
街道に戻ると西前川交差点の角に男女双体道祖神がある。

親鸞聖人御庵室御勧堂 真楽寺 小八幡の一里塚跡 八幡神社
国府津駅前交差点を過ぎると、左手に親鸞聖人御庵室御勧堂碑が建っている。
親鸞聖人はこの草庵で7年間布教に務めたという。
石碑の奥に入って行くと勧堂があり、手前に親鸞聖人御草庵之蹟碑が建っている。勧堂の向こうには、湘南の海がきらめいている。
街道右手に浄土真宗の勧山信楽院真楽寺がある。真楽寺の本尊は阿弥陀如来で、嘉禄年間(1225-27)の創建と言われている。
常陸国より相模国に布教に来ていた親鸞聖人の説く本願念仏の教えに、天台宗の住持である僧性順が帰依したと伝えられている。
境内には帰命石と呼ばれる石を安置した帰命堂、浄行菩薩、水子地蔵尊などがある。
森戸川を親木橋で渡って進んで行くと左手に小八幡の一里塚跡がある。
ここは江戸日本橋から数えて19里目の一里塚である。親木橋からは富士山の頂が良く見える。
一里塚跡の先右手にある八幡神社社標から住宅地の道を北に280~90mほど入っていくと、正面に八幡神社がある。
八幡神社は小八幡村の鎮守である。
境内には、旧小八幡村にあった道祖神や庚申塔が整理安置されている。

三寶寺 大見寺 川辺本陣跡 不動尊
街道に戻ると直ぐ右手に浄土宗の八幡山神明院三寶寺がある。
境内には、人を選ばず誰でも願望を成就させると信じられ、博徒や遊女、被差別階級等にも広く信仰を集めたという茶枳尼天(だきにてん)、六地蔵尊、大イチョウなどがある。
酒匂3丁目交差点の手前右手に浄土宗の光明山無量院大見寺がある。
境内には小嶋家の宝篋印塔・五輪塔がある。小鴨家は鎌倉時代から家名が現れた酒匂の旧家で、北条時代には酒匂郷の小代官を務め、江戸時代に入っても名主・組頭役を務めた。また慶安4年(1651)に移住した紀州浪人で代々名主を務めた川辺氏の墓もある。
酒匂3丁目信号の先右手に黒塀の旧川辺本陣跡がある。
現在は社会福祉法人 「ゆりかご園」 になっており、説明板などは設置されていない。
川辺本陣跡の向かい側に不動尊がある。
明治21年(1888)横浜野毛山の行者海老原得浄師が開山した成田山の小社で、本尊は鎌慶作の不動明王座像である。
境内には、地下から湧き出る酒匂不動延命水があり、左の祠には幸せ地蔵と呼ばれる2体の地蔵尊が安置されている。

妙蓮寺 法善寺 大経寺 酒匂神社
街道左手に日蓮宗の廣昌山妙蓮寺がある。
本堂正面には注連縄が下がっている。
妙蓮寺の街道を挟んだ向かい側に日蓮宗の神力山法善寺がある。
境内には浄行菩薩があり、墓所には一際目立つ五輪塔がある。
法善寺の先の十字路を右(北)に150~60mほど入ると、左手に浄土宗の大経寺がある。
大経寺は、永禄3年(1560)創建と伝えられており、境内には芭蕉句碑 「人もみな 春や鏡の うらの梅」 がある。
大経寺の先を更に北に進むと酒匂神社がある。
酒匂神社の原神は、大和朝(650年頃)から派遣された統治者が 「八幡社」 を祀ったのが始まりと云われる。
祭神は伊弉諾尊、伊弉冉尊である。
境内には慰霊塔、表忠碑、木造の仏像が安置された社などがある。

法船寺 酒匂川 八幡神社 二宮金次郎表彰の地碑
街道に戻って進むと、間もなく右手に日蓮宗の法船寺がある。
法船寺は日蓮上人が一泊された寺院で写真の寺標の南無妙法蓮華経題目碑の側面には、宗祖日蓮大菩薩御一宿霊場と刻まれている。
山門には注連縄が張ってあり、境内には日蓮上人開眼の御手引地蔵尊天、平成5年に完成した総ヒノキ造りの五重塔がある。
酒匂川に架かる酒匂橋からは右手に富士山、左手に湘南の海が見える。
酒匂川は、富士山の東側から小田原を経て相模湾に注いでいる。江戸時代は、幕府が架橋や渡し舟を認めなかったので、客や荷物を担いで渡る人足がおり、歌川広重の東海道53次にも当時の渡しの様子が描かれている。
酒匂川を渡るとビジネス高校前交差点の右手に鎌倉権五郎景政を祀る八幡神社がある。
境内右に新田義貞を祀った境内社の新田神社八幡神社がある。
鳥居をくぐると石橋があり、境内には御即位紀念碑、出征軍人凱旋紀念之碑、境内社として新田義貞を祀る新田神社、恵比寿神、大黒天などがある。
八幡神社から酒匂川方向に進むと、かつて渡し場があった辺りに二宮金次郎表彰の地碑がある。
小田原藩主大久保忠真は文政元年(1818)、幕府の老中に任ぜられ、江戸へ向かう途中領民の代表を集めて、金次郎をはじめ領内の働き者、親孝行者など13名を表彰した。
この表彰後、金次郎は桜町や小田原をはじめ、全国6百余の農村の復興や藩の財政再建に貢献した。

新田義貞公首塚 常顕寺 呑海寺 弘経寺
街道に戻ってビジネス高校前交差点を横断して突当りを右に進むと、左手の小さな公園の一角に新田義貞公の首塚がある。
新田義貞は足利尊氏によって討たれたが、義貞の家臣宇都宮泰藤が首を奪い返し、義貞の本国上野国に埋葬するため東海道を下ったが、酒匂川のほとりで病に倒れたため、この地に埋葬したという。塚の入口には新田義貞公首塚碑が建っており、塚の周囲にはたくさんの五輪塔が並んでいる。
国道1号線に合流すると右手に日蓮宗の本立山常顕寺がある。
常顕寺は、元応~正中年間(1319-26)頃に創建されたと言われており、本堂に安置された日蓮聖人像は大永7年(1527)の銘を持つ古像で、茅ケ崎市指定重要文化財に登録されている。山門前に南無日蓮大菩薩と刻まれた南無妙法蓮華経題目碑が建っている。
常願寺の先に臨済宗大徳寺派の稲荷山呑海寺がある。
境内には社に納まった地蔵尊、境内社の稲荷社、六地蔵尊などがある。
呑海寺に次いで街道右手に日蓮宗の弘経寺(くぎょうじ)がある。
内には浄行菩薩、日蓮大菩薩の五輪塔、木彫りの菩薩像、三猿などがある。

上杉神社 戎神社 昌福院 心光寺
街道に戻って山王小学校入口信号を左に入ると小田原市立山王小学校の前に上杉神社の小さな社が建っている。
天文20年(1551)、龍若丸は平井城落城前に、
降伏の使者として北條氏康のいる小田原に従者6人と出向いてくるが、大敵の嫡男故に氏康は家臣の神尾治郎右衛門に首を刎ねさせてしまう。龍若丸は12~3歳であったという。社には龍若丸ほか従者6人の五輪塔が建っている。
上杉神社の向かいに戎神社がある。
ここには天智天皇の第一皇子の大友皇子が奉ってある。
社の中には手作りと思われる戎神が祀られている。
山王小学校入口信号の先右手に臨済宗大徳寺派の昌福院がある。昌福院は、今から約700年前の鎌倉時代の創建と言われている。
山門前には南無阿弥陀仏碑、三界萬霊碑、六地蔵尊があり、境内には稲荷社、地蔵菩薩坐像がある。
昌福院を過ぎると右手に浄土宗の心光寺の寺標があり、奥に山門が見える。
心光寺は徳本上人が文化12年(1815)の伊豆相模化益の帰路に立ち寄ったといわれ、徳本座像を所蔵している。
山門脇には、徳本の南無阿弥陀仏碑があり、境内には薬師堂、子育地蔵尊などがある。

道場院 山王神社 宗福寺 山王口
街道に戻って進むと、山王橋の手前に浄土宗の松原山道場院があり、山門前に南無阿弥陀仏碑が建っている。
境内には六地蔵尊、観世音菩薩像、三界萬霊塔などがある。
山王川を山王橋で渡ると右手に山王神社がある。神社の由緒によると、明応4年(1495)北条早雲が、当時の小田原城主の大森藤頼を破り、城を手中に納めた頃は、この神社は海辺にあったが、高波で崩壊したため、慶長18年(1613)に、ここに移されたとある。
境内には寛永元年(1624)江戸初期の朱子学者林羅山が星月夜の詩を詠んだという歌碑がある。
山王社の隣に曹洞宗の宗福寺がある。
山門を入って右側に寛文7年(1667)、正徳6年(1716)などの庚申塔3基や石塔が並び、その奥に山王神社の分社(山王大権現)がある。
山王大権現は、昔は山王川沿いにあったが、神仏分離令により明治4年に御神体を仮本堂に安置し、近年祠を建て稲荷社と白山妙理大権現を合祀したもので、堂宇は一間社流造と言うそうである。
宗福寺の直ぐ先の歩道上に上部が行燈になった山王口の標柱が建っている。
山王口は 「江戸口見附」 とも呼ばれ、小田原城から江戸へ向かう出入り口である。また、ここは東海道小田原宿への入口でもあり、江戸日本橋から山王口までは、約83㎞の距離である。

山王原の一里塚跡 北条稲荷神社 八代龍王社 古清水脇本陣跡
浜町歩道橋の左手に江戸口見附並一里塚跡碑が建っている。
ここは江戸日本橋から数えて20里目の一里塚である。この歩道橋の右手には支柱で支えられた大きな松があり、一角に江戸口見附跡の標柱が建っている。
江戸口見附並一里塚跡から左に住宅地を入って行くと赤い鳥居の並ぶ北条神社がある。
北條氏康が亡くなった際に狐の祟りと考えた北條氏政が、狐の霊を鎮める為に建てたのが北條稲荷の始まりという。
境内には、蛙石という蛙に似た石があり、大地震にもびくともしないので掘ってみたが、掘りだせず地下の岩盤の突起ではないかと言われている。
北条稲荷神社から住宅地を進むと右手に八代龍王社(竜宮神社)がある。
この八代龍王社は、難破した八代水軍の龍神を祀ったものという。境内には亀石、上部の欠けた大正10年の漁業組合の役員碑などがある。
新町交差点を左折して鍋町に入り、一本目を右折して万町を通り、高梨町に入り、次いで宮前町に入ると左手に古清水脇本陣跡がある。
この二階は資料館になっており、建物前の解説には8月15日の小田原空襲の模様が記載されている。

清水本陣跡 松原神社 旧網問屋 明治天皇聖跡碑
古清水脇本陣の隣に清水本陣跡があり、門柱から中に入ると明治天皇行在所跡碑などが建っている。
清水金左衛門本陣は、小田原宿に4軒あった本陣のうちの筆頭で、清水金左衛門家は江戸時代に町年寄も務め宿場町全体の掌握を行っていた。
清水本陣跡の先を右に進むと正面に松原神社がある。
松原神社は、日本武尊、素戔嗚尊、宇迦之御魂神を奉り、小田原宿19町の鎮守である。
境内には、天文14年(1545)の大亀に由来する石像亀、住吉神社、鹿島神社、手置神社、稲荷神社、八幡神社の境内社がある。
本町交差点角地に旧網問屋を再整備した小田原宿なりわい交流館がある。
この建物は、関東大震災で被害を受けた建物を昭和7年に再建したもので、小田原の典型的な商家の造りである 「出桁造り」 になっている。また、二階正面は出格子窓になっていて、昔の旅籠の雰囲気を醸し出している。内部の意匠も特徴的で、特に二階は、震災後に耐震工法として採用された洋小屋の構造を取り入れている。
旧網問屋跡の先左手の料理茶屋小伊勢屋の脇を左に入ると明治天皇聖蹟碑が建っている。
ここは明治天皇が宿泊した片岡本陣跡で、明治天皇が、明治11年11月7日北陸・東海御巡幸の際の行在所跡である。なお、万延元年(1860)に片岡家に生まれた片岡永左衛門は、明治時代に小田原町の助役を勤め、「明治小田原町誌」 を執筆するなど、小田原の近代史研究に大きな功績のあった人物である。

済生堂小西薬局 ういろう本店 小田原城 報徳二宮神社
中宿町に入ると江戸時代初期より東海道に面して建っている薬局の老舗で寛永10年(1633)創業の済生堂小西薬局がある。
関東大震災で倒壊した旧店舗の材料を一部用いて大正14年頃に再建したと伝えられている。
欄干橋町に入ると街道右手にお城のような建物のういろう本店が建っている。
外郎家の始祖は陳延祐という支那台州の千四百年続いた公家で、大医院及び礼部員外郎という役であったが、元が明に滅ぼされ二朝に仕えることを恥じて日本に帰化したという。その外郎家二代目の大年宗奇が約600年前に考案したものと言われている。
街道右手の足柄街道に面して小田原城が建っている。
銅門から入って行くと小田原城の本丸の正門である常盤木門があり、目の前に天守がそびえている。小田原城は北条氏の本拠地であり、江戸時代には小田原藩の藩庁があった。
小田原城の脇に報徳二宮神社がある。
明治27年(1894)4月、二宮尊徳の教えを慕う6カ国(伊勢、三河、遠江、駿河、甲斐、相模)の報徳社の総意により、尊徳を御祭神として、生誕地である小田原の小田原城二の丸小峰曲輪の一角に神社が創建されたものである。境内には農政家・思想家として多くの農村を指導した二宮尊徳の像と幼少期の像の二体が建っている。

山角天神社 大久寺 居神神社 光円寺
街道に戻ると右手に天満宮の赤い鳥居があり、階段を上った先に山角天神社がある。
階段脇に日露戦争で名を馳せた瓜生海軍大将之像があり、境内には、文政3年(1820)の芭蕉句碑、紀軽人の狂歌碑、境内社の稲荷社などがある。
山角神社の先の横断歩道橋のところに小田原駅跡の標柱があり、続いてその先に山角町の標柱があり、更にその先で東海道本線下をくぐると左手に日蓮宗の大久寺がある。
大久寺は小田原城主大久保忠世を開基とする寺で、大久保家の菩提寺である。境内には初代忠世の五輪塔のほか2代・忠隣など7基の墓石が並んでいる。
大久寺の向かいに居神神社がある。
居神神社は、北条早雲との戦いに敗れた三浦半島新井城主三浦荒次郎義意が永正15年(1518)に自刃し、その首が此の地の古松にかぶりつき、そのまま3年間通行人をにらみつけたので、これを阿育王山総世寺四世忠室和尚が成仏させて祀ったといわれている。境内には庚申塔、五輪塔陽刻碑、板碑などの古碑、金比羅社などの境内社がある。
居神神社の隣に浄土宗の光円寺がある。
光円寺は春日局の開祖と言われている。寛永9年(1632)春日局の長男稲葉丹後守正勝が小田原城主となり、徳川家康公も念仏者であったので、小田原の地に是非とも真宗寺院を建立したいと発願し寺を建立したという。光円寺の向かいに御組長屋の標柱が建っており、ここには先手筒、先手弓などの者が住む御組長屋があったという。今回はここから箱根板橋に出て帰ることとした。


平成27年3月21日(土) ☁|☂  小田原(箱根板橋)~箱根町   15.8㎞
今回は箱根八里を越えるため、いつも峠越えを付き合っていただいている友人と1泊2日の予定で前回の続きの箱根板橋から歩くこととなった。三枚橋までは緩やかな登り道で、三枚橋を渡るとあまり車の通らない旧道を歩いていく。途中箱根新道を越えるとやがて石畳の峠道を進み、杉並木の先で芦ノ湖畔に出る。

箱根板橋駅 宗久寺 御塔生福寺 牛頭天王
早朝の箱根登山鉄道箱根板橋駅では我々2人が下車したのみで、駅前も閑散としていた。
天気は霧雨状態で駅前でカッパを着こんで出発した。
箱根板橋駅から旧道に出ると正面に曹洞宗の寶砂山宗久寺がある。
宗久寺は、香林寺7世鳳山龍徹が開山となり、天正元年(1573)に創建したと言われている。
本尊は聖観音で、境内には弘化4年(1847)の四国西国秩父坂東供養塔、聖観音像、三界萬霊塔などがある。
宗久寺の隣に日蓮宗の象鼻山御塔生福寺がある。御塔山生福寺は、小田原市板橋富士山にあった象鼻山御塔妙福寺と現在地にあった浄水山蓮生寺が、大正初期に合併して象鼻山御塔生福寺になったと言われる。
本堂前に日蓮上人像があり、台座脇に古めかしい地蔵尊などが並んでいる。また本堂脇には赤い鳥居の境内社の稲荷社、十三重塔などがある。
御塔生福寺の先左手には小さな鳥居のある牛頭天王を祀った社がある。
牛頭天王は、疫病、農作物の害虫やその他邪鬼を払いさってしまう疫病の信仰と調和して、薬師如来や素戔嗚尊と同体と信じられ、明治43年(1910)に流行病をなくすため板橋の此の地に祀ったといわれている。

栄善寺 香林寺 秋葉山量覚院 常光寺
牛頭天王の先右手には浄土宗の大窪山阿弥陀院栄善寺がある。
栄善寺は、文禄4年(1595)澤蓮社清誉により創建されたと言われている。
本尊は阿弥陀如来像で、境内には六地蔵尊、聖観音菩薩、馬頭観音などがある。
栄善寺の先のY字路を右手に入って行くと、曹洞宗の南谷山香林寺がある。
香林寺は、文明16年(1487)に創建されたと言われ、海蔵寺、久野総世寺とともに小田原三寺と称される。
山門をくぐると両側にたくさんの仏像、石塔が並び、境内の右手には鐘楼、弁財天堂、結界門の奥に三層仏塔があり、仏塔の周りに十二支守護尊が配置されている。
香林寺から街道に戻る途中の右手に京都聖護院の末寺で修験道の寺院である秋葉山量覚院がある。
本尊は秋葉山大権現で養老元年(717)泰澄大師の開創で遠州秋葉山上に防火の神として祀られていたが、天正18年(1590)徳川家康の命により、秋葉山上よりご本尊を奉還したものである。
境内には九重塔、庚申塔、六地蔵尊、境内社などがあるが、寺院と神社の融合した感じである。
街道に戻ると右手に浄土宗の明星山常光寺がある。常光寺は、慶安元年(1648)観蓮社乗誉巌公大和尚が開山で、鎌倉光明寺の末寺に列せられていた。
境内には抱き上げ地蔵尊の妙縁供養塔があり、本堂の両脇にはここの住職が東南アジアから持って来られた象の鋳造像がある。

宗福院地蔵堂 三界萬霊塔 頌徳碑 日蓮上人思親の地
常光寺の先右手に曹洞宗の宗福院地蔵堂がある。宗福院は、香林寺9世文察和尚が、身丈一丈(約330センチ)の大坐像を造り、箱根湯本の古堂に祭られていた弘法大師彫造の御真体を胎内に安置して地蔵堂を建立したのが始まりといわれる。
境内には六地蔵尊、廻國供養塔などがあり、本堂右手には一本の木から彫りだした大きな大黒天像がある。
街道に戻ると、直ぐ先で旧道が国道1号線に合流する手前の右手に、昭和15年(1940)の三界萬霊塔が建っており、この左手の角地には宝篋印塔などの石仏石塔が建っている。 国道1号線に入って直ぐ、左手の早川に面して頌徳碑が建っている。
ここは小田原用水取入口で、板橋村は旧東海道の人家の北側を通水し、板橋見附から旧東海道を東に流水して古新宿を通り、江戸口見附門外蓮池に流れ出たもので、途中の所々で分水されて小田原城下領民の飲料水に供されていたものである。
小田原厚木道路のガード下を進んで箱根登山鉄道を渡った右手に日蓮上人思親の地と書かれた冠木門がある。
この手前には元治元年(1864)の馬頭観音、南無妙法蓮華経題目碑、日蓮上人霊跡解説が建っている。この山道を登ってゆくと象の鼻に似た岩があり、日蓮上人がその上に登って、遠くに見える房総半島を見て、両親を思って冥福を祈ったという。

八幡神社 風祭の一里塚跡 萬松院 宝泉寺
風祭駅の手前右手に両部鳥居が建つ八幡神社がある。八幡神社は、文永11年(1274)の創建と伝えられる風祭村の鎮守社である。
境内には天保15年(1844)の御神燈、ひょうたん型にくり抜かれた手水石、獅子山の上の弘化2年(1845)の狛犬などがある。
万松院川に架かる馬五郎橋を渡り、右手の万松院へ行く道の入口に風祭の一里塚跡がある。ここは江戸日本橋から数えて21里目の一里塚である。
一角には小田原市指定重要文化財の道祖神(石祠と地蔵尊)が祀られている。
風祭の一里塚跡から街道を外れて、北に向かう坂道を進むと曹洞宗の萬松院がある。萬松院は文禄元年(1592)、徳川家康嫡男松平信康を供養するために 小田原城主 大久保忠世により建立された寺院である。
境内には厄除観音菩薩、子育地蔵尊、寛政12年(1800)建立の茅葺の庫裡が建っている。
街道に戻ると右手に臨済宗大徳寺派の永禄山宝泉寺がある。
宝泉寺は、永禄元年(1558)北条時長によって創建された臨済宗大徳寺派の古刹である。
寺は創建間もない、天正8年(1590)豊臣秀吉による小田原合戦の兵火に罹って堂宇は焼失し、その際数多くの寺宝が焼失してしまった。
境内には六地蔵尊、三界萬霊塔などがある。

紹太寺 道祖神 山神神社 藪地蔵堂
街道を先に進むと右手に黄檗宗の長興山紹太寺がある。
紹太寺は、寛永12年(1635)小田原藩主であった稲葉美濃守正則が、妣長興夫人追福のために創建したのが始まりと言われる。
参道には六地蔵尊、総門跡標柱などがあり、奥に茅葺の紹太寺本堂がある。境内はかなり広いので先には入らなかったが、稲葉氏一族の墓、春日局の墓、樹齢320年超の枝垂桜がある。
街道に戻ると直ぐ右手の消防器具の赤い箱の横に道祖神の石祠がある。
祠の中には宝珠と思われる石が安置されている。
道祖神の直ぐ先右手に山神神社がある。
山神神社は、大山祇命と木花咲耶姫命を祭神とし、林業や石切の仕事をする人たちが祀ったものという。
境内には御神木のカヤの木、境内社の稲荷社、石祠などがある。
街道に戻ると、右手の段上にある入生田公民館の隣に薮地蔵堂がある。
お堂の前には弘法大師作薮地蔵尊と刻まれた石碑、観音像が建っている。

稲荷社 露店 駒ノ爪橋跡 達磨大師像
入生田駅入口の右手の段上に稲荷社と思われる赤い鳥居があり、鳥居の下に小さな社が建っている。
小社の中には馬頭観音の石柱があり、小社の隣には明治2年(1869)の馬頭観音がある。
稲荷社の先で箱根登山鉄道を横切ると右手の家の駐車場ほどのスペースに地元野菜が全て100円で売られていた。
この家の隣には菜の花など春の花がいっぱい咲いており、その直ぐ先には石祠が建っている。
街道右手の箱根登山鉄道の石垣の脇に駒ノ爪橋跡がある。
源頼朝が富士山への狩りの帰り、この橋まで来ると馬が暴れて石橋の上に蹄の跡が残ってしまったという逸話があり、旅人は石にも足跡を付ける強い馬にあやかりたいと、道中足が痛まないように祈願したという。この先に日本初の有料道路の解説があり、その先で国道1号線に合流する。
国道1号線に合流して直ぐ、右手の側道階段の入口に達磨大師像の彫られた交通安全之碑が建っている。

牛頭天王神社入口 三枚橋 道祖神 白山神社
国道1号線の側道を下りて右手の旧道に入ると、間もなく右手の箱根登山鉄道の下に伸びる石段があり、その先に牛頭天王神社がある。牛頭天王神社の祭神は、牛頭天王(スサノオ)で祇園信仰の神社であり、京都八坂神社の祭礼が全国に広まった一つである。境内には牛頭天王碑、石祠があるのみである。 旧道から再び国道1号線に合流して進んで行くと左手の歩道フェンスに大名行列のレリーフがあり、旧道は早川に架かる三枚橋を渡って行く。 三枚橋を渡ると右手に道祖神の石祠がある。
石祠の中には男女双体道祖神が祀られており、隣の駐車場の奥には明治37年(1874)の弁財天、明治37年(1904)の水神宮が建っている。
やや右にカーブして先に進むと、箱根町立湯本小学校の向かい側に白山神社がある。
白山神社は、天平10年(738)加賀白山の開祖泰澄の弟子浄定が白山比咩神社(しらやまひめ)の祭神を勧請したのが始まりという。境内には白山御神水が湧き出ており、境内社の白山稲荷社、水神、享和元年(1801)の庚申塔などがある。

早雲寺 厄除石垣神社 正眼寺 旧箱根街道一里塚跡
白山神社の向かいに早雲寺がある。早雲寺は小田原北条氏の菩提寺として栄え、天文11年(1542)には後奈良天皇の勅願寺となったが、天正18年(1590)の豊臣秀吉の小田原攻めの際、秀吉軍の本陣が置かれ、石垣山の一夜城が完成すると焼き払われた。
墓所には小田原北条家歴代当主五代の墓、二代将軍秀忠公侍医今大路道三玄鑑の墓などがある。
早雲寺の先に2か所道祖神があり、その先左手に厄除石垣神社がある。
神社は石段を上って箱根新道(国道1号のバイパス)に架かる橋を渡った先の斜面に建っている。この石垣神社は、天正18年(1590)豊臣秀吉が北条攻めの時に石垣山に一夜城を築き、本陣を早雲寺に置いたが、その鬼門となったためこの石垣神社を建立したという。
石垣神社の先左手に地蔵信仰から生まれた臨済宗大徳寺派の大本山正眼寺がある。
正眼寺は、慶応4年(1868)の箱根戊辰戦争で旧幕府方の遊撃隊の手によって創建時の地蔵堂、曽我堂共に焼失したが、曽我兄弟の2体の像は無事持ち出され、大正年代に裏山に再建されたお堂に祀られている。境内には大きな地蔵菩薩坐像、曽我兄弟の供養塔がある。
街道は上り坂となり右手の曽我堂上バス停のところに石祠の道祖神、その先のカーブ左手段上にも男女双体道祖神があり、そのやや先の静観荘の横の一角に旧箱根街道一里塚跡がある。
ここは江戸日本橋から数えて22里目の一里塚である。

馬の飲み水桶 石畳道 福寿院 葛原坂
街道を進んで行くと山紫園の看板のあるところで斜め右下に降りる旧道がある。
入口を下りると左手に箱根旧街道入口の解説があり、その向かい側に馬の飲み水桶がある。江戸時代この辺りは馬立場といって馬子が一休みしたところである。
馬の飲み水桶の先から約255mほど石畳道が始まる。ここは延宝8年(1680)に江戸幕府が石を敷いて舗装した面影が残っている部分である。 石畳道を下り猿橋を渡って上り坂に入ると、右手に曹洞宗の福寿院がある。本尊は中国から渡来した開運出世慈母観世音菩薩で、本堂には消災燈が点されている。
また階段を下りた堂宇の中には、丸太の左端に木造の菩薩像が鎮座している股木なで観音がある。
福寿院を過ぎて右手にホテル南風荘などの温泉ホテルを見て進み、やがて葛原沢に架かる葛原橋を渡ると葛原坂である。
「新編相模国風土記稿」 には、「海道(東海道)中、須雲川村境にあり、登り一町ばかり」 としか書かれていません。地名が葛原で、この辺りは今もクズの葉が生い茂っています。

天聖院 初花ノ瀑碑 駒形神社 鎖雲寺
街道をどんどん上って掘木沢に架かる堀木橋を渡ると右手に天聖院がある。
この寺院は新興宗教法人でこの先にある箱根大天狗山神社の別院となっている。山門を始め本堂や仁王像など総て金箔で覆われており、境内は撮影禁止となっている。
ホテルはつはなを過ぎると右手の道路標識の横に初花ノ瀑碑が建っている。
碑には 「夫勝五郎ノ仇討本懐祈願ノ為メ初花ガ垢離ヲ取ッタ滝トシテ傳エラル」 と刻まれている。この辺りから右手の山の中に滝が見えるというが生憎の霧で確認はできなかった。奥州街道には、父の仇を探し求めて勝五郎と初花が一時身を寄せた初花清水がある。
須雲川の集落に入ると左側の段上に駒形神社がある。須雲川の集落は昔は川端と呼ばれており、この場所に集落が出来たのは江戸の始めの寛永の頃である。箱根街道を維持管理する為、一定の間隔で設けられた集落の一つである。
駒形神社境内には、宝暦2年(1752)、享和2年(1802)の庚申供養塔などがある。
駒形神社のほぼ隣に臨済宗の鎖雲寺がある。
鎖雲寺は江戸の初めに早雲寺の境内あった一庵を引いて寛永7年(1630)に建立された禅寺である。
墓所には、「箱根霊験記」で知られる勝五郎と初花の墓がある。勝五郎と初花夫婦は父の仇を追って諸国を遍歴し、足が不自由になった勝五郎は箱根で養生しながら大願成就の時を待ち、箱根権現の加護により仇を討つことができたという。

須雲川自然探勝歩道入口 稲荷社 箱根大天狗山神社 女転し坂標柱
鎖雲寺の先左手に須雲川自然探勝歩道の入口があり、女轉シ(おんなころし)坂碑があるが、本来の位置とは違う場所に安置されたようである。この入口の目の前に須雲川に架かる須雲川橋がある。 須雲橋を渡った左手の駐車場奥に新しい稲荷社がある。右手の狛狐は巻物をくわえ、左の狛狐は玉をくわえている。 稲荷社の先で右カーブになり、突当りに新興宗教法人の箱根大天狗山神社がある。
中で見た金ピカの天聖院の本社で、山門をはじめとして全て絢爛豪華な金ピカ装飾であり、天聖院同様山門から先は撮影禁止となっている。
箱根大天狗山神社から左カーブを上って行くと左手に女転し坂標柱が建っている。
ここは須雲橋を渡った稲荷社の辺りから急坂を登った地点で、昔、馬に乗った女性が落馬して死んでしまったことから 「女転し坂」 と呼ばれるようになったという。

天聖稲荷大権現 馬入橋 接待茶屋跡 旧道入口
坂道を上って行くと左手に天聖稲荷大権現の大鳥居がある。
ここも箱根大天狗山神社の系列であり全て絢爛豪華な装飾となっているようである。
天聖稲荷大権現の大鳥居の先右手に石段があり登り口に割石坂碑が建っている。
曽我五郎が富士の裾野に仇討に向かうとき、腰の刀の切れ味を試そうと路傍の巨石を真二つに切り割ったところと伝えられている。石段の上は江戸時代の石畳が残っており、近年整備したところとは違ってかなり歩きづらい。
往時は石畳の途中に接待茶屋があった。
江戸時代後期、箱根権現の別当如実は、箱根八里を往還する旅人や馬に湯茶や飼葉を施し喜ばれていたが、資金が続かずに行き詰まり、江戸呉服町の加勢屋与兵衛等の協力を得て文政7年(1824)に、この辺りに接待茶屋を設置した。
石畳の旧道は一旦舗装道路に吸収され、直ぐ先で左手のガードレールの切れ目にある箱根街道の標柱のところから旧道が再開している。
下りの石畳を進むと大澤川に架かる小さな木橋を渡って行く。

大澤坂 道祖神 畑宿本陣跡 駒形神社
大澤川を渡ったところに大澤坂標柱が建っている。大澤坂は座頭転ばしとも呼ばれ、往時はつつじが咲き趣の良いところだったようである。ここには大澤坂の石碑があり、登りの石畳は苔むしており往時を偲ばせている。 大澤坂を上って行くと再び県道に合流する。
合流する手前に史跡箱根旧街道の石柱が建ち、県道に出ると左手の台上に道祖神がある
道祖神の先右手のつたやという古民家の先に本陣跡がある。
この本陣は屋号を茗荷屋という旧名主の本屋敷であり、家屋は大正元年の全村火災の折に焼失しているが、庭園は昔のままの姿で残された。解説の脇に畑宿本陣茗荷屋跡と刻まれた木柱が倒れており、その先の民家の横に明治天皇御駐蹕之跡碑が建っている。
先の街道右手の箱根町消防団第3分団第2部の建物の脇から参道の階段を上がると駒形神社がある。
箱根泰禄山に奉斎する駒形大神を勧請して駒形大権現と崇められており、境内には、疱瘡が蔓延した際に信崇したところ全快したという霊験あらたかな照心明神、聖徳太子を釈迦の再来として祀る太子堂、菅原神社などがある。

寄木細工の店 供養塔・庚申塔 守源寺 畑宿の一里塚
駒形神社の先の坂道を進むと左手に寄木細工の店があり、壁に東海道53次の木札が江戸日本橋から京三条大橋まで並び、脇に明治時代の畑宿の写真が貼られている。 寄木細工の店の斜め向かいの石段を上がると供養塔・庚申塔が3基、石燈籠が1基建っている。
左から享保17年(1732)の西国巡礼供養塔、万治元年(1658)の庚申供養塔、青面金剛の庚申塔、享保17年(1732)の石灯籠である。中での万治元年の庚申塔は神奈川県下で最も古いものである。
庚申塔の先の寄木細工畑の茶屋の向かい側に赤い大黒天の幟がはためき、石段を上がると寛文元年(1661)に建立された日蓮宗の守源寺がある。
境内には無縁塔に立つ観音像、文化6年(1809)の南無妙法蓮華経題目碑、御堂に納まった箱根七福神の大黒天がある。
畑の茶屋の前から旧道に入ると直ぐ畑宿の一里塚があり、両塚とも復元されている。
ここは江戸日本橋から数えて23里目の一里塚で、左側の塚にはケヤキ、右側の塚には樅の木が植えられている。

西海子坂 橿木坂 見晴橋 猿滑坂
石畳の坂道が急になると右手に西海子坂碑が建っている。
江戸幕府は延宝8年(1680)に箱根路を石畳に改修したが、それ以前は雨や雪の後は大変な悪路になり、旅人は膝まで没する泥道を歩かねばならず竹を敷いていたが、毎年竹を調達するのに大変な労力と費用が掛かっていた。
西海子坂の先で県道に合流して左に進み、最初のカーブを曲がり、その先で2つ目のカーブをショートカットし、県道を進んで箱根新道の高架を2か所くぐって行くと左手に橿木坂の石段がある。
東海道名所日記には、険しきこと道中一番の難所であり、「橿の木の坂をこゆればくるしくて、どんぐりほどの涙こぼる」 と書かれている。
橿木坂の石段を上ると左手に見晴橋があり、右手の階段を上って行くと見晴し茶屋がある。
見晴橋のところに標識があり、甘酒茶屋まで1.3㎞、元箱根まで3.0㎞とある。
この先は山根橋を渡り、左右の笹の間の石畳道を進み、甘酒橋を渡ると道はかなり緩やかな登りになる。
石畳道を上って行くと右手に猿滑坂碑と解説が建っている。
猿といえども容易く登り得なかった坂からその名が付いたといわれ、この先の県道に出る石段辺りが当時の猿滑坂であった。右手の山には霧が立ち込め、さながら墨絵の様相であった。

追込坂 笈平 甘酒茶屋 於玉坂
県道に出て擁壁に設けられた歩道を通り、その先で県道を進むと右手に追込坂碑と解説が建っている。
ここから右手にある土道で甘酒茶屋までの緩い坂道である。
追込坂入口左手に 「笈平 親鸞聖人御讐蹟 性信御房決別之處」 碑が建っている。
ここは東国の教化を終えての帰路、上人は弟子の性信房と蓮位房に向かって 「師弟打ちつれて上洛した後は、たれが東国の門徒を導くのか心配であるから、御房が戻って教化してもらいたい」 と愛用の笈を預け師弟の決別をした場所という。傍らには親鸞聖人の詠歌碑が建っている。
街道を進むと左手に甘酒茶屋が建っている。
当時の旅人は1日10里を歩いたが、箱根路は8里しか歩けなかったという。道中には甘酒をふるまう茶屋が設けられ、この付近には追込坂上、橿木坂上、猿滑坂下にもあったという。
茶屋の周りには明治天皇御駐蹕之蹟碑、親鸞聖人詠歌碑などが建っている。
甘酒茶屋の先、杉の根が露出する街道を進むと小石が積まれた於玉坂碑が建っている。
於玉とは伊豆の大瀬村出身の少女で、江戸に奉公に出て、家が恋しくなり、大瀬村に帰る際に関所破りをして捕縛され、この於玉坂付近で処刑されたという。

旧道口 白水坂 天ヶ石坂 箱根馬子唄碑
於玉坂碑から程なく県道に出ると向かい側に石畳の続く旧道口がある。
ここには史跡箱根旧街道碑が建ち、脇に3基の石塔がある。
旧道口から間もなく右手に白水坂碑が建っている。
ここは豊臣秀吉の小田原攻めの際、北条方が双子山中腹から石を落として撃退したことから、城を見ずに引き返したということで 「城見ず坂」 → 「白水坂」 になったと言われている。
白水坂の先の右手に街道にせり出した巨石があり、手前に天ヶ石坂碑が建っている。
巨石は上部が苔むしており、天蓋のような石であるとか、アマガエルのように見えたからなど諸説あるようである。
天ヶ石坂を上りきって、やや下りになった広場に二子山を象った箱根馬子唄碑が建っている。
馬子唄は馬喰とよばれる馬の売買人や馬に荷を 乗せて運んだ馬子が、峠を越えるときに唄ったものである。
碑の正面には、「箱根八里は馬でも越すがこすに越されぬ大井川」 と刻まれ、碑の裏面には馬子唄の由来と箱根町長の名前が刻まれている。

六道地蔵菩薩ェ之道碑 稲荷社 権現坂 杉並木歩道橋
街道を更に下ると舗装道路にぶつかり、右手に 「六道地蔵菩薩ェ之道」 と刻まれた石柱が建っている。
ここを右に進んで行くと於玉観音堂があり、隣に南無於玉観音菩薩像が立ち、足元に沢山の苔むした五輪塔が安置されている。
於玉観音から街道に戻ると下り坂の右手に赤い鳥居が建っている。
二の鳥居の先に行ってみると社の代わりに大きなサルスベリのような木があり、根元に小さな赤い鳥居がある。
赤い鳥居から更に下ると右手に権現坂碑があり、解説が建っている。
小田原から箱根路を登る旅人が、いくつかの急所難所をあえいで辿り着き、一息つくのがこの場所であった。目前に芦ノ湖を展望し、箱根山に来たという旅の実感が、体に伝わってくるところである。
旧権現坂を下りきると国道1号線に架かる杉並木歩道橋を渡って大きな杉並木の間の旧道を進んで行く。
先に進むとケンペルとバーニーを讃えた碑があり、二人のレリーフがはめ込まれた 「ケンペル・バーニー碑」 とバーニー本人が建てた 「バーニー碑」 がある。ケンぺルは江戸時代に箱根の美しさを世界に紹介し、バーニーは明治時代に自然保護を訴えた。

興福院 日輪寺 身代わり地蔵尊 葭原久保の一里塚跡
ケンぺル・バーニー碑の先の右手を下りていくと曹洞宗の興福院がある。
元は箱根権現 (現箱根神社) の別当寺金剛王院東福寺の子院として室町時代に創建された真言宗の寺院だった。
境内には弘法堂、布袋尊の安置された御堂、宝篋印塔などがある。
興福院の先の交差点手前に日蓮宗の吾妻山日輪寺がある。
本堂はレンガ造りの建物で、境内には箱根七福神の銭洗福聚大黒天、南無妙智観世音菩薩がある。
国道1号に合流すると、右手に箱根神社の一の鳥居があり、左手の成川美術館の先に身代わり地蔵尊がある。
宇治川の先陣争いで佐々木高綱と先陣争いをした梶原景季の身代わりとなった地蔵と伝えられている。ある年、景季が箱根を通りかかると、何者かに襲われた。その時、傍らにあった地蔵尊が身代わりとなり、命を助けられたいう。地蔵尊の周りには五輪塔などの石塔がたくさんある。
箱根杉並木の入口手前に箱根旧街道一里塚と刻まれた石碑が建っている。
ここは葭原久保の一里塚跡で、江戸日本橋から数えて24里目の一里塚である。

箱根杉並木 箱根八里 箱根関所の江戸口御門 箱根宿本陣跡
元箱根歩道橋のところから杉並木の土道が始まり、並行する国道1号線に合流するところまで続いている。
東口と西口のそれぞれに箱根杉並木碑が建っている。杉並木は国指定史跡として保護され、芦ノ湖畔周辺の4地区に約420本の杉が残されている。
杉並木を出て右手の恩賜箱根公園に入って行くと、右手に箱根八里の唱歌を刻んだ碑が建っている。
この箱根八里は、作曲者滝廉太郎、作詞者鳥居忱の両氏によって明治34年につくられ、小学校唱歌に採用されて以来、平成13年で生誕百年を迎えたという。
恩賜箱根公園から左に行くと箱根関所の江戸口御門が見えてくる。
この関所は箱根山中の東海道の中で、屏風山と芦ノ湖に挟まれた要害の地を利用して、山の中腹から湖の中まで柵で厳重に区画し、江戸口・京口両御門を構え、大番所と足軽番所が向き合うものとなっている。
箱根関所跡の先の箱根ホテルの前に楓の大木と解説がある。
ここには箱根宿の本陣はふやが建っており、当時その門前にあった楓が樹齢400年の時を経て箱根ホテルの庭先に保存されている。

平和を願う碑 駅伝を讃える碑 勘太郎の湯
箱根駅伝ミュージアムのある広場に平和を願う碑が建っている。
これは箱根町が町制55周年を記念して、国際観光地として町民だけでなく観光客も含めた方の幸せを願って建てたものである。
裏面には 「人々と世界の平和に貢献できる町づくりを目指す」 などと町の誓いが刻まれている。
平和を願う碑の後ろには、「駅伝を讃えて」 と題した勝承夫氏の詩歌がきざまれている。
勝承夫氏は明治35年(1902)に生まれ、箱根駅伝の第1回大会が行われた大正9年(1920)年に東洋大学に入学、旧制中学時代から詩人として活動された。
本日の行程は箱根芦ノ湖畔で終了し、今回の宿泊地のある箱根裏街道の走る強羅へ向かった。
早川沿いに建つ勘太郎の湯で汗を流し、ついでに夕食も済ませてゲストハウス箱根ねんねこやへ入った。

保土ヶ谷~大磯 次へ   箱根~三島