紹太寺の総門は、東海道に面したこの場所にありました。
 元禄4年(1691)ドイツ人博物学者ケンペルは、江戸に向かう途中、この総門を見て彼の著書 「江戸参府紀行」 に次のように記しています。
 「入生田村は、小さな村で、その左手の四角の石を敷き詰めた所に紹太寺という立派な寺がある。この寺の一方側には、見事な噴水があり、もう一方の側には、金の文字で書かれた額があり、しかも前方には、金張りの文字のついた石造りの門が建っている。」 
 この長興山の扁額は、黄檗宗の開祖隠元禅師の書き下ろしたもので、現在、子院清雲院(現長興山紹太寺)の本堂正面に掲げられています。
 なお、現在道路の左側に積み上げられてある加工された石は、この総門に使われていたと考えられます。
  (小田原市教育委員会)

清雲院は、長興山紹太寺の参道沿いにある子院の一つです。
 紹太寺の七堂伽藍は、弘化4年(1847)・安政年間(1854-59)、さらに明治の火災で焼失しましたが、この清雲院は難を逃れ、本寺である紹太寺の法灯を守り現在に至っています。
 山門前にある 「松樹王」 の刻銘石は、東海道の風祭と入生田の境にあった境界石です。この刻銘石の左側面を見ると 「長興山境」 と刻まれていることからも分かります。紹太寺の宏大な寺領には、7ヶ所あったと伝えられ 「長興山の七つ石」 と言われています。山門を入って本堂正面に掲げられている 「長興山」 の扁額は、黄檗宗の開祖隠元禅師が書き下ろしたもので、紹太寺の総門(大門)にあったものです。
  (小田原市教育委員会)

地蔵菩薩

長興山境界石

総門跡標柱

 本寺は、江戸時代初期の小田原藩主だった稲葉一族の菩提寺です。当初は、小田原城下山角町にありましたが、第2代稲葉美濃守正則が寛文9年(1669)、幽邃(ゆうすい)境として知られた現在地に移建し、山寺号も 「長興山紹太寺」 と称し、父母と祖母、春日局の霊を弔いました。
 開山は、京都宇治の黄檗宗万福寺で隠元禅師のもとに修行に励んでいた名僧鐵牛和尚で、当時は東西14町70間、南北10町16間という広大な寺域に、七堂伽藍が配置され、黄檗宗では関東一の寺院でした。しかし、これらの堂塔が幕末安政年間の火災で焼失してしまったのは、誠に惜しまれます。境内裏には 「稲葉氏一族と春日局の墓」 があります。
 天然記念物 「長興山の枝垂れ桜」 は、寿塔のすぐ近くです。「春を忘れぬ形見に」 と稲葉正則が植えたもので、樹齢ざっと320年。樹高約13m。4月初旬は、巨大な花笠を広げたように開花し、多数の見物客で賑わいます。

双体道祖神

紹太寺境内案内図

寛永・慶安・寛文などの六地蔵尊

紹太寺本堂

本堂に掛かる黄檗宗の開祖隠元禅師の書による長興山の扁額

紹太寺山門