江戸の面影を残す明治の畑宿家並み
江ぢ時代後期には、40数軒の人家があって繁栄を極めていた。その様子を 「新編相模国風土記稿」 は 「民戸連住し宿駅の如し」 と書き記している。
(説明版より)
明治18年(1885)に出版されたフランス人旅行客クラフトの 「Sonveniris Notre Tour du Monde」 に掲載された畑宿の写真。
江戸時代後期には、箱根細工(特に寄木細工)を製造する家が多く、また街道の立場(街道人馬の休憩所)としても賑わいを見せていた。当村の名主畑右衛門は、「茗荷屋」
という屋号をもち、美しい庭を持つことで評判が高く、浮世絵などにも描かれている。畑宿は明治7年春頃大火に見舞われているが、これは火災後の畑宿を写したものである。
(説明版より)
江戸期の街道政策に於いて、立場(人馬の休憩所)で宿泊することは本来禁止されていたが、ここでは箱根八里の難所を往来する旅人のため特別に一善食(昼食)と足を痛めた者についての宿泊が公許されていた。
(説明版より)
明治初期の旅籠 「ますや」
明治時代の畑宿