天保年間に書かれた 「新編相模国風土記稿」 の、入生田村(小田原市)の頃には、「駒留橋。東海道中湯本村堺の清水に架す。石橋なり。長3尺(90㎝)、幅2間(3.6m)、両村の持。橋上に頼朝郷馬蹄の跡と云あり。旅人此橋に足痛の立願す。」 と載っています
 これは、往時源頼朝が富士の巻き狩りから帰る際、この橋まで来ると馬が暴れてしまい、その際に橋の上に馬のひずめの跡が残ってしまったという逸話が残っています。
 そこで、旅人は 「石に足跡つけた頼朝の馬の頑健な脚にあやかりたい」 と、道中足が痛まないよう祈願したということです。
 後に小田原市板橋の山県有朋公の別荘古稀庵の庭園に使われているようです。

 明治8年(1875)9月、小田原の板橋から湯本まで全長4.1㎞、幅員平均5mの我が国初の有料道路が開通しました。
 江戸時代の東海道を拡げ、2か所の急坂を人力車が通れる勾配の緩い道に付け替えました。碑が建っている道は、その時に付け替えた道です。開通した日から5年間、道銭(通行料)を取りました。人力車は1銭、大八車7厘、小車は3厘でした。
 この道路の開通で、人力車はもちろん、間もなく乗り合い馬車も入ってきました。かの福沢諭吉から 「箱根山に人力車の通れる道を造れ」 と提言され、二宮尊徳の高弟として知られる福住正兄が建設の先頭に立ちました。

駒ノ爪橋跡説明

日本初の有料道路説明