紀軽人(きのかるんど)は狂歌師の号であり、桃季園とも名乗った。本名は藤井仁兵衛といい大甚の祖である。筋違橋(南町)にあった呉服商の主人であったが、若くして江戸に出て、大田蜀山人などと親交して一流の狂歌師となり、多くの作品を発表した。小田原に帰ってから多くの門弟を育て、この地方に狂歌を広めた。

 明治37年(1904)2月、日露戦争の諸戦に仁川沖海戦で、露艦ワリヤーグ、コレーツを撃破して驍名を世界に轟かせた第四戦隊司令官瓜生外吉は、大正元年(1912)12月、海軍大将の職を辞した。

瓜生海軍大将之像

うめがかに のっと ひのでる やまじかな

有米家可耳 乃都登 日能伝る 山路閑難

月はさす花はいたたく酒宴を雪より外につもりてはなし

文政3年(1820)の芭蕉句碑

紀軽人狂歌碑

境内社の稲荷社

山角天神社拝殿

拝殿内部