見附とは、城の枡形門に設けられた見張番所であって、武器を用意し昼夜番士が詰めて警戒にあたる場所であるが、本城より外濠城門を示す場合が多い。
 小田原城は、天正18年(1590)の豊臣秀吉との小田原合戦の際には、町ぐるみ堀や土塁で囲まれていたが、江戸初期にこの構造を壊して東海道を 通す際に、枡形が作られた。小田原城から江戸に向かう出口であったため、江戸口見附と名付けられた。
 また、ここは江戸から20番目の一里塚があった場所でもある。
 慶長9年(1604)江戸幕府将軍徳川家康は、息子秀忠に命じて、東海道、東山道、北陸道に、江戸日本橋を起点として一里(36町・約4㎞)ごとに 塚を造らせた。塚は男塚、女塚と、街道の左右に対で置かれ、広さは通常5間(約9m)四方であった。塚には榎を植え、旅人の一里ごとの目印とする とともに、夏季における木陰の休息場所とした。
 天保年中の相模国風土記稿には、「江戸口の外南側にあり、高六尺五寸、幅五間ばかり、塚上榎樹あり しが、中古槁れ、今は松の小樹を植ゆ、古は双堠となれり。けだし街道の革(あらた)まりし頃、一堠は海中に入しならん。これより東は小八幡村、西は風祭 村の里堠に続けり」 とされている。
  (江戸口見附
一里塚址説明より)

 小田原北条氏は、天正18年(1590)の豊臣秀吉の小田原攻めに対し、総構といわれる周囲約9kmの堀や土塁を構築し、 城のみならず城下町までを取り込んだ戦国期最大級の城郭を築きました。
 この付近は、その総構の最も南部分に当たり、小田原合戦のときには徳川家康隊が山王川の対岸に陣取っていました。
 江戸時代には、小田原城下に入る東海道の東の出入口として、西の板橋口及び甲州道の井細田口とあわせて、城下を警護する 重要な門としての役割を担っていました。
 江戸方面から来た場合、上図(文久図)のように門の土塁を一旦右に曲がり さらに左に折れてから城下に入る形になっています。また、入るとすぐ右手(北側)には番所があり、通行人の監視などに 当っていました。
 なお、ここは江戸日本橋から20里(80km)に位置し、それを示す一里塚が海寄りに設けられていました。
  (江戸口見附説明より)

江戸口見附跡標柱

江戸口見附礎石

支柱で支えられた大きな松の木

大正時代初期の江戸口見附

江戸口見附一里塚址碑