建武の中興の柱石であった新田義貞は、北陸を転戦中、延元3年(1338)、越前国(福井県)藤島で討死し、足利尊氏によってその首級を晒されていた。
義貞の家臣宇都宮泰藤(小田原城主・大久保氏の先祖)は、主君義貞の晒首を奪い返して領国三河に往き、妻子に暇を告げ、主君義貞の本国・上野国(群馬県)に首級を葬るため東海道を下った。
しかし、酒匂川のほとり、ここ網一色村に達したとき、病にかかり再起できなくなってしまったという。そこで止む無く義貞の首をこの地に埋葬して、自身もこの地で歿したと伝えられている。
その後、新田義貞の首塚として地元の人々に尊信されていたが、戦後一時荒廃してしまった。しかし、近年地元有志によって復興整備され、新田義貞の首塚の碑も建立された。
なお、北方八幡神社境内に、新田神社の祠がある。
新田義貞の首塚説明
新田義貞公首塚碑
塚の右手に並ぶ五輪塔
塚の左手に並ぶ五輪塔
新田義貞公の宝篋印塔