昭和20年(1945)8月15日、まさに敗戦当日、深夜1時か2時頃、小田原市はアメリカ軍の戦略爆撃機B29一機による焼夷弾空襲を受けました。小田原空襲の直前には、埼玉県熊谷市と群馬県伊勢崎市が空襲を受けており、その二都市を攻撃した編隊の内の一機が、マリアナ諸島の米軍基地へ帰還する途中に小田原を空襲したものと考えられます。アメリカ軍のその日の作戦任務報告書には、小田原空襲の記載は一切なく、計画されたものではありませんでした。
 しかしながら、アメリカ軍の日本都市空襲の候補地が記された 「180都市の表」 の96番目に小田原が挙げられており、本格的な小田原市街地への焼夷弾空襲がなされ、壊滅的な被害を受けた可能性がありました。
 8月15日の小田原空襲で被災し炎上した地区は、現在の浜町一・三丁目、本町二・三丁目にまたがり国道1号線をはさんで国際通りの両側にあたります。焼失した家屋は約400軒、死者は本会の調査によれば12名です。
 被災した古清水旅館には、小田原空襲を伝える写真が保存されています。建物がすっかり焼け落ちた古清水旅館の後方に焼き尽くされた小田原の町並みが映っています。当時の館主・清水専吉郎氏が写真屋を呼んで撮影したものです。
 今から62年前にあった小田原空襲を記した説明版を、被災した古清水旅館の敷地に設置することで、戦争の愚かさや悲惨さ、平和の尊さを少しでも語り継ぐことができればと思います。
  (戦時下の小田原地方を記録する会)

小田原北条氏時代には上町、下町に分れていたと伝えられている。町の中央に城主の入口、浜手門口と高札場があり、江戸時代末期、町内には本陣1、脇本陣2、旅籠23軒あって本町と共に宿場町の中心であった。

鍋町

新宿町

万町(よろっちょう)

高梨町

江戸時代前期、城の大手口変更によって東海道が北に付け替えられた時にできた新町。町は藩主帰城の時の出迎え場であったほか、郷宿や茶店があり、小田原提灯つくりの家もあった。

町内には七里役所という紀州藩の飛脚継立所があった。江戸時代末期には旅籠が5軒ほどあり、小田原提灯つくりの家もあった。

東海道から北へ向かう甲州道の起点に当たり、古くから商家、旅籠が並んでいた。町の中央南寄りには下の問屋場が置かれ、中宿町の上の問屋場と10日交代で務めていた。

小田原北条氏時代から町には鍋などを造る鋳物師が多く住んでいた。

8月15日の焼夷弾空襲を受けた小田原市内

8月15日の小田原空襲説明

宮前町