江戸幕府は、元和4年(1618)十六夜日記でも知られる旧来の湯本から湯坂山~浅間山~鷹ノ巣山~芦ノ湯を経て、元箱根に至る湯坂道(現ハイキングコース)を廃し、湯本の三枚橋から須雲川に沿い、畑宿を通り、二子山の南側を経て、元箱根に至る古い山路を拡げ、世に箱根の八里越えと伝えられる街道を作った。
この街道は、寛永12年(1635)参勤交代の制度ができて、一層交通が盛んとなり、その有様は、詩歌、物語等にも多く歌われた。延宝8年(1680)幕府の手により、初めてこの街道に石が敷かれたが、この石畳の道は、現在も所々に存し、国の史跡に指定されている。現在、残っている石畳は、文久3年(1863)2月、孝明天皇の妹、和宮内親王が14代将軍徳川家茂のもとに降嫁されるにあたり、幕府が時の代官に命じ、文久2年(1862)に改修工事を完成させたものだと言われている。平均約3.6mの道幅の中央に約1.8m幅に石が敷き詰められていたという。この地点から元箱根に至る約1㎞に石畳が現存している。
(箱根町教育委員会)
箱根旧街道説明
苔むした3基の石塔
史跡箱根旧街道碑