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東海道   (箱根~三島)

箱根芦ノ湖からは箱根峠標高855mを経て箱根竹のトンネルの中を進み、ひたすら三島宿まで一気に830m下ることとなる。その先は狩野川に沿って下り、沼津宿から海岸の傍を通って行く。

平成27年3月22日(日) ☀  箱根~三島  14.2㎞
昨日の雨も上がり曇り空ではあるが、さわやかな強羅の朝を迎えた。ゲストハウス箱根ねんねこやは家庭的な佇まいで気兼ねなく過ごすことができた。朝出かける前に宿主である母娘と記念撮影をして出発となった。

本還寺 萬福寺 馬頭観音 駒形神社
箱根駅伝のゴールとなる箱根関所南交差点を左折すると右手に浄土宗の本還寺がある。
本環寺は、芝増上寺の法流を汲む寺院であり、開山は霊雲、この地に箱根宿が開設された元和年間(1615-23)に創建されたと言われる。
境内には寿老人堂、観音菩薩、文化15年の徳本の南無阿弥陀仏碑などがある。
本還寺の近くに真宗大谷派の萬福寺がある。
萬福寺には、廃仏毀釈の際に箱根神社から譲り受けた阿弥陀如来像がある。
ここは文政の時代から寺子屋が開かれ、明治5年の学制の公布により創立された箱根学校に引き継がれた。
萬福寺から街道に戻り、先の信号交差点の左手段上に祠に納まった馬頭観音と地蔵菩薩坐像がある。
祠の前には関白道と刻まれた石碑がある。これは豊臣秀吉が天正18年(1590)の小田原攻めで開削した道で箱根町の芦川宿から一夜城の石垣山まで、現在の有料道路ターンパイクに沿うように続いていたという。
馬頭観音のある交差点を右に県道737号線を入って行くと左手に駒形神社がある。
駒形神社は天御中主大神、大山祇神、素戔嗚尊を祭神とした箱根宿の鎮守である。
境内には箱根宿の創設に貢献した2匹の唐犬を祀る犬塚明神、商売繁盛の簑笠明神、箱根七福神の毘沙門天、宝暦12年(1762)の庚申供養塔、享保17年(1732)の御神燈などがある。

芦川の石仏群 向坂 赤石坂 釜石坂
駒形神社の先のY字路を左に入る旧道があり、旧道に入ると直ぐ右手に芦川の石仏群がある。
ここには万治元年(1658)の庚申塔や多くの巡礼供養塔があり、これらは駒形神社境内から移設したものと言われている。
石仏群の先に再び山にさしかかる向坂の石畳があり、左手に向坂碑が建っている。
江戸時代の延宝8年(1680)に箱根旧街道に石畳が敷かれたが、当時、石畳が敷かれたのは坂道だけで、集落の中や平坦な場所には敷かれなかった。
国道1号線のガードをくぐるとその先に赤石坂があり、両側は熊笹に覆われ、自然の杉並木が続いている。
道を下れば旧箱根宿の一つであった芦川の集落、道を上れば相模の国と伊豆の国を分ける箱根峠に達する。
続いて釜石坂で、この坂道に残る杉並木は芦ノ湖畔のドンキン地区、吾妻獄地区、箱根関所付近の新谷町地区と並んで、箱根旧街道に現存する江戸時代の杉並木である。
4つの地区を合わせて約420本の老杉が残っている。

風越坂 挟石坂 箱根の親不知 峠の地蔵
釜石坂の先は風越台への風越坂である。
この石畳の坂を登り、その先の急な階段を登ると、東海道名所図絵にもある風越台となる。江戸時代の延宝8年(1680)、箱根旧街道に石畳が敷かれたが、石畳が敷かれた場所は、坂道だけで、集落の中や平坦なところには、石畳は敷かれなかった。
箱根峠への最後の坂道の挟石坂である。
箱根峠は、当時の浮世絵を見ると伊豆の国を分ける標柱とゴロゴロした石、一面のカヤしか描かれておらず、まことに荒涼とした峠であったという。この丸太の急坂を登りきると挟石坂碑があり、箱根新道に出ると国道箱根坂路改築記念碑がある。。
箱根峠バス停の後ろの段上に石塔が建っている。昔、大坂の呉服問屋のひとり息子が道楽に身を崩し出奔、年老いた父親が捜索の旅に出たが、この峠にさしかかると持病の脚気が起き、道端に伏してしまったところ、通りかかった若い駕籠屋が介抱をよそおい短刀で突き殺し、懐の財布を奪ってしまった。ふと財布を見ると見覚えがあり、よく見ると父親であり、己の咽喉に短刀を突き立て山中の宿で相果てたと云う。 街道右手の箱根旧街道の冠木門をくぐると右手に2003年に建てられた峠の地蔵と呼ばれる箱根八里記念碑がある。
橋本聖子、杉本苑子、橋田寿賀子、黒柳徹子、穐吉敏子、向井千秋、宮城まり子、桜井よしこの8人の女性による揮毫を得て建てられたものである。

箱根旧街道西坂入口 笹のトンネル 兜石跡碑 接待茶屋
峠の地蔵のある駐車場の先を右に入って行くと、左手に箱根旧街道西坂入口がある。
入口には道標 「是より江戸二十五里 是より京都百里」 があり、踏み込むと正面に東屋、八ツ手観音、井上靖の箱根八里記念碑などがある。
東屋から先は笹のトンネルの中を旧街道が続いている。
笹というよりは竹のように長く、両側から先端が覆いかぶさってトンネル状になっている。
笹のトンネルる進むと左手に兜石跡の碑が建っている。
かつてこの場所に兜石があったが、国道1号線拡張の際に、この先に移された。この辺りの坂道を兜坂と呼んでいる。
兜坂を下ると国道1号線に突当り、その先右手に旧道口があり、接待茶屋の標柱が建っている。
江戸時代後期、箱根権現の別当如実が、箱根八里を往還する旅人や馬に湯茶や飼葉を施したと伝えられている。この接待茶屋も一時途絶え、江戸呉服町の豪商加勢屋与兵衛が文政7年(1824)に再興したが、これも明治維新とともに中断してしまった。

一里塚跡 徳川有徳公遺蹟碑 兜石 明治天皇宸賞之處碑
接待茶屋の近くに一里塚がある。国道1号線に面しているため一見気が付かない。
ここは江戸日本橋から数えて26里目の一里塚である。
土道の坂道を下ると左手に徳川有徳公遺蹟碑が建っている。
徳川有徳とは徳川8代将軍吉宗の戒名ことで享保元年(1716)紀州藩主から征夷大将軍に任ぜられ江戸へ向かう途中、ここの茶屋で休憩をした吉宗が永楽銭を与えたそうである。
以後、紀州藩主は参勤交代の際この茶屋を 「永楽屋」 といって休憩したという。
徳川有徳公遺蹟碑の向かい側に兜石がある。
この石は兜を伏せた形をしていることから兜石と言われた。また別の説として傍の碑銘によれば豊臣秀吉が小田原城征伐のとき休憩した際、兜をこの石の上に置いたことから兜石と呼ばれるようになったとも言われている
この石は兜石跡碑のあったところにあったが、国道1号線の拡張の際に、ここに移されたものである。
兜石から少し下ると右手の丘に登る道があり、上がってみると開けた施行平といわれる場所の中央に明治天皇宸賞之處碑が建っている。
周囲には、明治天皇御遠望臺碑、東山魁夷の箱根八里記念碑が建っている。

明治天皇御小休跡 念仏石 農家の庭先 小枯木坂入口
施行平から街道に戻って進むと、左の笹に覆われた一角に明治天皇御小休跡碑がある。
往時はここから駿河湾が望めたという。
直ぐ先にふれあいの森と刻まれた碑が建っており、この石原坂にも石畳が敷かれている。
石原坂を進むと右手に大きな岩がある。
これは念仏石と呼ばれており、念仏石の手前に南無阿弥陀仏・宗閑寺と刻まれ碑があるが、旅の行き倒れを宗閑寺が供養して碑を建てたものである。
石原坂を下ると開けた台地上に出る。
その先で大枯木坂を下ると農家の庭先に出て、突当りを左折して国道1号線に合流する。
国道1号線に合流して間もなく左側に箱根旧街道の道標があり、急な階段を下ると小枯木坂の石畳が始まる。

中山新田 雲助徳利の墓 品濃坂 駒形諏訪神社
石畳道に入って間もなく中山新田の標柱が建っている。中山新田は東海道の制定に伴い立場として新設された村で元の場所は元中山の地名で今も残っている。
この近くの石畳道には、発掘調査により石橋が発見されたため、その場所に整備・復元している。
国道1号線に合流する手前に雲助徳利の墓があり、墓石には徳利と盃が陽刻されている。
松谷久四郎という西国大名の剣道指南役が大酒のみのために事件を起こして、国外追放となり、箱根で雲助の仲間となって世話をしているうちに親分以上に慕われるようになった。これは生前世話になった雲助が相談して恩返しのために建てた墓である。
旧道は横断歩道橋のところで国道1号線に合流する。ここには史跡箱根旧街道の標柱と南無阿弥陀仏名号碑、三界萬霊塔が建っている。 国道1号線の右手に駒形諏訪神社の鳥居がある。
鳥居の脇に地蔵尊と庚申供養塔があり、境内には文政10年(1827)の常夜燈、推定樹齢600年の大カシ、境内社の八坂神社がある。

中山城跡 宗閑寺 芝切地蔵尊 石畳
駒形諏訪神社の奥に中山城跡がある。
山中城は小田原に本城を置いた後北条氏が永禄年間(1560年代)に小田原防備のために築城した山城であったが、天正18年(1590)豊臣秀吉軍の前にわずか半日で落城したと伝えられる悲劇の山城である。
城跡には兵糧庫跡の柱穴、矢立の杉などがあり、本丸と北の丸を結ぶ架橋が復元されている。
中山城跡から下って来ると右手に浄土宗の宗閑寺がある。
参道脇に中山城址記念之碑が建ち、本堂周囲には中山城落城の際の北条軍、豊臣軍の武将たちの墓碑が佇んでいる。
宗閑寺の先で国道1号線から右手の旧道に入って行くと、右手の段上に芝切地蔵尊がある。
その昔、巡礼姿の旅人が死ぬ間際に 「私を地蔵尊として祭って芝塚を積ん故郷の常陸が見えるようにしてくれれば村人の健康を守ってあげる」 と言い残したという。村人が地蔵尊を祭り、縁日の日に小麦まんじゅうを作ったところ評判となり、その利益で山中部落の1年間の費用が賄えたと言われている。
芝切地蔵尊の先で国道1号線を横切り旧街道の石畳へ入って行く。
間もなく右手に箱根八里記念碑、馬頭観音が建っている。

旧道口 芭蕉句碑 上長坂入口 旧道口
石畳を抜けて国道1号線に合流した先で旧街道が工事のため国道1線を迂回して行かねばならなかった。旧道口の直ぐとなりに菊池千本槍の碑が建っている。建武2年(1335)12月、山中一帯で行われた水呑峠の合戦で、後醍醐天皇の命を承けた先鋒菊池肥後守武重公の率いる軍勢一千余の将士たちは、竹の先に短刀を結ぶ新しい武器を用い、足利勢に大勝利を収めた。九州へ帰国後、刀工延寿に命じて槍を造らせ、菊地千本槍となった。 工事が無ければ、旧道を進んで国道1号線に突き当たる手前の右手に大きな芭蕉句碑が建っている。
碑には 「霧しぐれ 富士を見ぬ日ぞ 面白き」 と刻まれている。
芭蕉句碑の向かい側に、上長坂旧道口の石段があるが、残念なことに旧街道部分の工事のため国道1号線を迂回しなければならなかった。
旧道街道に沿った脇道があるので行けるかと下りていくと笹原・中山バイパスの大規模な橋下部分の工事のため脇道も通行不能であった。
国道1号線を迂回して来ると、左手から上長坂の旧道が合流し、その直ぐ先で、笹原新田の標柱(道標)が建つ旧道へ入って行く。

馬頭観音 道標 笹原一里塚 山神社
旧道に入って間もなく右手に小社があり、中に馬頭観音が4基安置されている。 馬頭観音から続く石畳の左手に土道の農道があり、笹原新田の家並みが見える。
その先、国道1号線が見える左手に史跡箱根旧街道の標柱が建っており、その傍に道標がある。
道標から左の段上の道を上がると一里塚である。
道標から左の段上に上がると笹原の一里塚がある。ここは江戸日本橋から数えて27里目の一里塚である。
塚前には、箱根八里記念碑と笹原一里塚碑が建っている
笹原一里塚の先で国道1号線に突当り、その右手に山神社がある。ここの鳥居は平成23年3月の静岡県東部地震によって倒壊し、同年10月に再建されたものである。
境内には、寛政3年(1791)、文化2年(1805)、文化5年(1808)などの石灯籠が建っている。

馬頭観音 一柳院 こわめし坂 天神社
街道に戻ると、こわめし坂・三島宿の道標があり、その先右手の祠に安置された2基の馬頭観音がある。 馬頭観音から程なく右手に浄土宗の一柳院がある。
山中城の攻防戦で亡くなった豊臣方の武将一柳伊豆守直末を弔った寺である。境内には一柳伊豆守の墓、六地蔵尊、弘化2年(1845)の西国三十三所観音大士碑、馬頭観音などがある。
一柳院の先は急坂のこわめし坂である。
こわめしの由来は、あまりの急坂のために背中の米が汗と熱で強飯に 「ゆであがるほど」 であるからと言われている。
こわめし坂をどんどん下って行くと、左手にビニールハウスが立ち並び、県道の二車線道路に合流する所に、箱根旧街道の説明板が建っている。
こわめし坂を下って県道に合流すると左手の段上に、明和3年(1766)創建の天神社がある。
祭神は高皇産霊神(たかみむすびのかみ)で、山神社を合祀している。
石段の途中には昭和16年に建てられた出征馬供養塔があり、その横にたくさんの馬頭観音が並んでいる。境内には山神社の石祠、境内社の稲荷神社がある。

松雲寺 三ツ谷新田のお花 富士山ビューポイント 法善寺旧址碑
緩やかな坂を下って行くと、右手に日蓮宗の覚源山松雲寺がある。
この寺は尾張・紀伊両大納言をはじめ、東海道を往還する参勤交代の大名たちの休息所となり、朝鮮通信使や14代家茂、15代慶喜などの寺本陣となったという。
境内には明治天皇が腰かけたという石、玉澤日桓上人の南無妙法蓮華経題目碑、推定樹齢350年のナギなどがある。
松雲寺から更に下ると右手の丘陵が一望できる場所に出る。
この辺りは三ツ谷新田地区で,、街道脇には三ツ谷町内会の花いっぱい運動が実施されており、所々にお花が咲いていて心を和ませてくれている。
街道を進むと道路がやや左カーブする辺りの右手に旧道の下り坂があり、この坂道に入る三島市立坂公民館の前に 「三島市眺望地点」 の道標があり、道標に沿って進んで行くと開けた場所がある。
天気は良いが雲がかかっており富士山を確認することは出来なかった。
富士山ビューポイントから戻って、三島市坂公民館の前を抜けると、隣の三島市消防団第13分団の駐車場脇に法善寺旧址碑が建っている。
元禄17年(1704)久遠実成本師釈迦牟尼仏を本尊とし、日蓮大菩薩を大導師に仰ぎ開山、現在の坂公民館、坂小学校校庭が寺跡であった。

七面堂旧址碑 題目坂 出征馬記念碑 街道のお花
法善寺旧址碑の先で右手に下る旧道があり、この旧道口に道標と七面堂旧址碑が建っている。七面堂とは日蓮宗の護神七面大明神を安置する堂のことである。
碑の正面には 「征夷大将軍足利尊氏公建立 七面堂址」、碑の側面には 「あしかがの ぶしょうのたてし なにめでて しちめんどうと いふべかりける」 と東海道中膝栗毛の狂歌が刻まれている。 
七面堂旧址碑から先は急な題目坂となる。
この題目坂は、玉沢妙法華寺への道程を示す題目碑から名付けられたと言われている。
題目碑は、現在法善寺に移されている。
坂の途中には祠に納まった馬頭観音がある。
題目坂を下りて車道に出ると、その先の交差点右手に出征馬記念碑が建っている。
天神社には出征馬供養塔があったが、この地区の農耕馬も人間同様に出征したが、人間とは違い使い捨てであったのだろう。
交差点の先の歩道脇には、ここ市山新田地区のお花が整備されて和ませている。

山神社 法善寺 六地蔵尊 馬頭観音
お花の街道の先、右手に山神社がある。
御祭神は、山をおさめ司る神と崇められ、山林・農耕・殖産の徳を持つ五穀豊穣の神である大山祇神である。
境内には弘化2年(1845)の石灯籠、木神、水神などの境内社がある。
山神社の隣に日蓮宗の法善寺がある。
法善寺は三島市玉沢の妙法華寺の日宗上人が貞享3年(1683)寺への道案内の題目碑を建てたことに始まる。
山門前には、題目碑が2基建っており、これは題目坂にあった題目碑が移転されたものである。
法善寺から街道に戻って進むと、市山新田の集落の外れ右手に六地蔵尊が2組安置され、傍らに三界萬霊塔が建ち、隣にお堂がある。 六地蔵尊の先で草路の旧道があり、入って行くと緩やかな下りの臼転坂となる。
この坂は牛が転がったとか、臼を転がしたためこの名が付いたと言うが、さほど急坂ではない。
坂の途中左手に馬頭観音が数基建っている。

普門庵 山神社 宗福寺 箱根路碑
臼転坂を出て車道に合流すると、左手に赤い屋根の普門庵がある。
普門庵の本尊は聖観音菩薩像で、元禄14年(1701)、鉄牛という僧が背負って来たが、ここで突然重くなり動けなくなったため、ここに安置したという。
庵の周囲には馬頭観音、如意輪観音、地蔵菩薩、廻國供養塔などがある。
普門庵の裏手にこんもりとした林があり、左手の路地を入って行くと段上に山神社がある。
創建年代は定かではないが古くから塚原新田の氏神であり、御祭神は市山新田にあった山神社と同様、大山祇神である。
境内には延宝8年(1680)の慈眼視衆生福聚海無量と刻まれた観音経の石碑、御大典記念樹などがある、
街道に戻ると右手に赤い山門の曹洞宗泉龍山宗福寺がある。
伊豆八十八ヶ所霊場22番の寺院で天正18年(1590)に豊臣秀吉が小田原を攻めた際、出城となった山中城で出た戦没者を追悼するために創建された。元は真言宗のお寺であったが、今は曹洞宗に改宗しており、本尊は阿弥陀如来像である。
宗福寺から緩やかな坂道を下って来ると、T字路に近いY字路があり、左は塚原新田交差点へ、街道は右を直進していく。
直ぐ先で国道1号線に突当るが、その手前左手に箱根路碑があり、脇に寛政3年の萬霊塔が建っている。

初音ヶ原石畳 錦田一里塚 富士山ビューポイント 松並木
箱根路の碑から国道1号線に合流して伊豆縦貫自動車道を跨いで行くと、右手に石畳の遊歩道がある。
旧道はあくまでも国道1号線で両側には松並木が残っている。
初音ヶ原には、国道1号線を挟んで錦田一里塚の南塚と北塚が対で残っている。
写真は北塚であり、傍らには箱根八里記念碑、道標が建っている。
ここは江戸日本橋から数えて28里目の一里塚である。
初音ヶ原石畳の右手に富士山ビューポイントがあるが、あいにく雲がかかって確認することは出来なかっった。
初音ヶ原歩道橋を渡り、約1㎞ほど続く松並木の石畳を進むと五本松の交差点に出る。
交差点の右手角には馬子唄碑が建っており、「箱根八里の馬子唄消えて今は大根を造る歌」 と刻まれている。

三界萬霊塔 愛宕坂 旧東海道踏切 真立寺
五本松交差点を渡った右手に石畳の遊歩道があり、ここで国道1号と分かれて行く。
石畳の右手段上には、萬霊塔、地蔵尊などが建っている。
三界萬霊塔の先で、急な下り坂の愛宕坂の石畳道になる。
この旧街道は、急な坂道であり人馬ともに滑って大変だったため、万延元年(1860)に石畳を敷いて改修した。
江戸時代には、現在の東海病院の敷地には愛宕社ほかの社寺があったが、現在は左手の石垣の上に愛宕山と刻んだ石碑と石祠があるだけである。
愛宕坂を下って行くと旧東海道踏切に突き当たる。
突当り右手前には、箱根旧街道入口の大きな箱根旧街道図があり、脇に川原ヶ谷の道標が建っている。
東海道本線を横切って間もなく、右手に日蓮宗の高現山真立寺がある、。
真立寺は承久4年(1222)若宮八幡宮を勧請したことにはじまり、当時は真言宗の寺院であったが、その後日蓮宗となった。石段の手前には享保10年(1725)の南無妙法蓮華経題目碑が建っている。

庚申堂 腰掛石 宝鏡院 新町橋
山田川に架かる愛宕橋を渡った先で県道22号線に合流すると、左手に赤い屋根の庚申堂がある。
ここはかつては林光寺というお寺であったが、廃寺になりお堂だけが残ったものである。近くの山から出土したといわれる木造の庚申像が祀られている。
大場川手前の左手の路地角に腰掛石がある。この石は、昔は馬乗り石といい、北にある川原ヶ谷神社に参詣する人がここで馬に乗ったと伝えられている。 腰掛石の路地を左に進むとに臨済宗建長寺派の地福山宝鏡院がある。宝鏡院は、足利尊氏の三男で室町幕府二代将軍足利義詮の開基と伝えられている。
境内には、室町幕府初代将軍足利尊氏の嫡男で二代将軍足利義詮の墓があり、頼朝が参拝の折、笠を置いたといわれる三島7つ石の一つの 「笠置き石」 もある
街道に戻って大場川に架かる新町橋を渡ると三島宿に入る。
この橋は富士山ビューポイントにもなっており、安藤広重もこの辺りから見た雪景色の富士山を東海道五十三次に描いている。

無縁法界地蔵尊 守綱八幡神社 妙行寺 光安寺
新町橋を渡った左の土手沿いの道を進むと右手に無縁法界地蔵尊がある。
江戸時代、重罪を犯し斬罪となった者の首は東海道を往来する人々への見せしめとなり、宿はずれの新町橋際にあった獄門台に乗せられ、罪状を書いた捨札を立て、数日間晒したという。この晒しで引き取りの無い首を哀れんで霊を慰めるために地蔵尊が安置され供養されるようになったという。周囲には頭のない地蔵尊や萬霊塔などが建っている。
街道を進むと程なく右手に守綱八幡神社がある。
創建は不明であるが寛永年間頃とされており、祭神は徳川家康家臣の渡辺守綱で、境内には安永6年(1777)、弘化2年(1845)の常夜燈などがある。
守綱八幡神社の向かいに大きな玉澤日桓の題目碑があり、その奥に日蓮宗の宝塔山妙行寺がある。
「常轉法輪」 の額の架かる山門は楽寿園の表門を移築したもので、門前と本堂前にある獅子像は総理大臣を務めた石橋湛山の縁で中国から贈られたものだという。境内には閻魔像、浄行菩薩、十三重塔、聖観音像などがある。
街道に戻ると、直ぐ右手に時宗の南朝山光安寺がある。元は真言宗で川原ヶ谷にあったが、その後、真教上人に帰依し時宗に改宗した。
光安寺には、延文3年(1358)に遊行僧である用阿が自らの生前供養のために建立した緑泥片岩の板碑がある。また、牛の鼻を引いて代掻きを行ったという 「鼻取り地蔵」 と呼ばれる地蔵菩薩坐像がある。境内には廻國供養塔、畜霊塔、慈悲観音菩薩などがある。

六所王子神社 成真寺 本妙寺 日隅神社
光安寺の参道左手に六所王子神社がある。
伊豆国府庁舎跡に建立された比較的新しい神社で、境内には安永5年(1776)の御神燈、文化3年(1806)の常夜燈の燈柱、明治31年(1898)の常夜燈などがある。
六所王子神社を出ると街道左手に楼門の成真寺がある。
北条時政の家臣平成真が安貞元年(1227)に建てたのが起こりで当初は真言宗だったが成真が親鸞と出会い浄土真宗に改宗したという。
境内には、薬師如来の安置された開山堂、戦没者追悼碑などがある。
成真寺の隣に日蓮宗の本妙寺がある。
本堂の向拝は、唐破風で丸みを帯びてちょっと趣のある造りになっている。鐘楼には鐘が無く、参道口には2基の南無妙法蓮華経題目碑が建っている。
本妙寺より街道に近いところに日隅神社がある。
御祭神は大己貴命(大国主命)で神話に稲羽の素兎(しろうさぎ)を助け、また天神(あまのかみ)に国土を献上され、三嶋大社の御祭神事代主命(ことしろぬしのみこと)の父神にあたる。古来三嶋大社 の摂社で大社八社別宮の一つ、また五の宮ともいわれ維新後明治10年には大社の末社に指定され崇敬された。境内には推定樹齢500年の大ケヤキ、元文5年(1740)の常夜燈などがある。

三嶋大社神池 三嶋大社
日隅神社の先右手に三島大社の神池があり、枝垂桜が満開であった。
池の中には厳島神社があり、北条政子が勧請し殊のほか信仰したと伝えられている。
三嶋大社は創建の時期は不明だが、古くから三島の地に鎮座し、東海随一の神格と考えられており、殊に伊豆に流された源頼朝は深く崇敬し、源氏再興を祈願した。
本日は突然の雷雨となったため、ここで三島駅に出て帰ることとした。

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